高齢者の語る「戦争」 - 「彼ら・彼女らは被害者だった」という視点から

(写真:ロイター/アフロ)

第二次世界大戦での敗戦からもうすぐ70年。敗戦時に10歳の子どもだった人が、現在80歳です。

その世代は、現在51歳の私にとって、概ね親の世代にあたります。

彼ら彼女らにとっての「戦争体験」とは、どのようなものだったのでしょうか? 

1933年生まれの父親と1939年生まれの母親から1963年に生まれた「戦争を知らない子どもたち」として、親世代・祖父母世代から聞いた話をもとに、考えてみます。

戦時中の苦労話で「メシマズ!」

1955~70年あたりに生まれた方々、現在45歳~60歳になる方々は、子どものころ、食事どきに親の語る戦時中・戦後の話で、食事がおいしく食べられなくなった経験はないでしょうか? 私が小学生・中学生くらいのころ、親に聴かされる戦時中の話への子どものボヤキで最も多かったのは、

「メシどきに戦時中の食べ物の話をされるのはイヤだよね」

でした。

私の実家は、その問題が比較的少ない方でした。父方・母方とも祖母が農家の出身であったため、ヤミ食糧取り締まりさえ何とかくぐり抜けることができれば、自分の両親を含む子どもたちは比較的良好な食生活を送ることができていたようだったからです。

父親がどうしても抵抗を示したのは、カボチャやイモや大根をご飯に炊き込むことと、玄米を食べること程度でした。戦時中の「代用食」や、配給される玄米を一升瓶と棒で搗いていた記憶を思い返してしまうそうでした。

しかし、酔っていた父親が、子どもたちが砂糖の入った戴き物のお菓子を食べているのを見て、戦時中にどれほど甘いものが恋しかったかを涙ながらに語り始めたことはあります。子どもたちとしては「どうすればいいんだ?」です。食べるのを止めて残せば「食べ物を粗末にできるなんて」と叱られ、何事もなかったように賞味して食べ続ければ「親の話を聞かない」ということになります。叱られる叱られない以前の問題として、そこにいる親が子どものときに劣悪な食生活を送っていたことへの慮りは、やはりあります。しかしそれは自分に責任のあることではありません。せっかく美味しいお菓子を楽しく食べていた時間を中断されたことに対する、なんとも言い表しようのない感情。

……私は、父親と顔を合わせないようにしながら、表情を浮かべず、特に「美味しい」「楽しい」という表情は決して表さないようにしながら、そそくさと、お菓子を食べ終え、宿題とか勉強とかいう理由でその場を離れたり、そこで教科書を開いて勉強を始めたりとかしたものでした。多くの家庭で、同世代の子どもたちが、同じような対応をしていたようです。

1960年代後半から1970年代にかけて、

「昨日の夕食のおかずだった魚の煮付けを食べてたら、突然、戦時中はおかずがイナゴの佃煮しかなかった話を始められちゃって」

「ウチもだったよ。ウチの弟が『ほうれん草のおひたし食べたくない』ってグズってたら、母親が『タンポポの葉のおひたししか食べられなくて、ぜんぜん美味しくなかった』という話を始めてさあ。弟、泣きながらおひたし食べてたよ」

というような会話が、子どもの日常にありふれていました。

なぜ、親たちは、自分たちから幸せな子ども時代を奪った人々に言挙げしないのだろうか? その疑問が残り続けていました。

根底にある、人間への不信感

1945年8月15日、玉音放送の前と後で、周囲の大人のいうことがガラリと変わった。

当時の子ども世代には、このことが大きなトラウマの一つになっているようです。

精神科医の中井久夫氏も、どのご著書であったかは記憶にないのですが、

「玉音放送の後、学校(国民学校、現在の小学校相当)に行ってみると、黒板に書いてあった『神州不滅』の文字が消されていた」

と書かれていました。

現在の70代~80代には、家族共同で仕事をしているというわけではないサラリーマン家庭を営んでいてさえ、「血縁」「家族」といったものに対する異常なこだわりを見せる場合があります。

「戦争末期や戦後の混乱期を生き延びられたのは、血縁者と家族のおかげだった」

という場合もあったでしょうし、その裏返しとして

「せめて、血縁者と家族だけは信じられることにしないと」

ということでもあったでしょう。

現在の私は、生活保護制度についての執筆を行っています。

「1000万人の餓死者が出る」と予測された1945年秋の状況が、戦前の公的扶助制度とともに、現在の生活保護制度にも大きな影響を与えています。

そこまでの窮乏のもと、立場の弱い子どもたちは、大人たちにどれほど情けない思いをさせられたことでしょうか。

「せめて血のつながりだけは」

という感覚になってしまうのは、致し方ないのかもしれません。

日本国憲法と戦後への屈折した感情

当時の子ども世代は、敗戦後、2学期の最初に「教科書に墨を塗る」をさせられた世代です。

1学期は「神州不滅」「少国民」とか言っていた同じ先生たちが、教科書に墨塗りを命じるわけです。

そして日本国憲法が公布され、「あたらしい憲法のはなし」が配布されました。

戦後民主主義と日本国憲法を心から喜べたのは、当時の子どもたちのうち、どの程度の比率だっただろうかと疑問を覚えています。

戦前の日本の体制や戦争そのものに疑問を覚えるには幼すぎ、生まれた時から戦争に巻き込まれていた当時の子どもたちにとっては、新憲法や戦後民主主義もまた「周囲の大人が違うことを言うように」の延長でしかないのかもしれません。

戦争と戦前への漠然とした憧れ

物心ついたら戦争に巻き込まれていた被害者であるにもかかわらず、戦争や戦前に憧れを抱き続けている人が多いのも、当時の子ども世代の特徴の一つかもしれません。

当時の子ども世代の多くは、戦争で家や家族を失ったり、生活が激変したりといった経験を持っています。しかし自分自身が戦場に送り込まれたわけではありません。戦争の惨禍をどのように経験しているか(経験していない場合も)、どのように知っているかについては、個人差が非常に大きいと思われます。

その上、戦争や軍国体制を「良いもの」と教えられて育っているのです。1945年の敗戦、その後の民主主義教育が、かえってトラウマであった場合もあります。

それまでの学校教員たちには、相当の比率で、子どもたちを軍国教育の名の下に殴り、働かせ(生徒に「お国のために」と農作業を強いて枝豆を作らせ、生徒たちに無断で、その枝豆を肴に地域の有力者とともに酒盛りした校長がいたとも聞いています)、絶対服従を強いた人々が含まれているはずです。そしてその人々は、1945年8月15日の前と後で言うことをコロリと変え、そのことについても、それ以前についても、何の説明もしていないのです。

当時の子ども世代の語りからは、「戦前が続いていれば」という気持ちが垣間見えることもままあります。日本が戦争に勝利し、自分たちが生まれ育った戦前の中で生育して社会で活躍していくことこそが、その世代のホンネの希望だったのかもしれません。戦争が続いている限り、敗戦によって社会や大人に裏切られることもなかったわけです。さらに勝っていれば……。

「勝てるわけがなかったのに、なんと愚かな」と思ってしまうのは、後で生まれたものの特権です。親・地域ともども、日本軍がどれほど不利と困難の中にあるかを知りえなかった当時の子どもたちに、同じように考えることを求めるのは酷すぎます。しかしながら、当時の子どもたちの心情に配慮して「あの戦争は間違っていなかった」と言うことは、やはりできません。

せめて、どう知らされていたのか、どう感じていたのか、背景は何であったと思っていたのかを知りたいと思うのです。

当時の大人たちにとって、敗戦とは?

現在、存命でも90歳を超えているはずの当時の学校教員たちは、どういう気持ちであったのでしょうか。どう考えていたのでしょうか。

身近な「公共」を代表する立場の大人(しばしば代用教員の少女でもありましたが)として、敗戦と墨塗り指導・戦後民主主義教育をどう受け止めたのでしょうか。

非常に重要なポイントだと思いますが、多くの方々、特に管理職や責任者の立場にあった方々が、既にこの世におられません。

私の父方祖母(1900-1983)は、結婚する前は生まれた村の小学校教員でした。化学工場の技術者と結婚し、転勤族の夫とともに全国各地を転々としながら5児を産み育てていましたが、1945年2月、夫である私の父方祖父を、軍需工場狙いの空襲で失いました。その後、生まれた村に戻り、周囲の方々のご好意もあって、また小学校教員の職を得たそうですが、

「何を教えればいいかが決まっていない戦後教育は、何を教えればいいか決められていた戦前の教育よりも難しい、今の自分には無理」

と考え、それを一つの理由として、村を離れ、子どもたちを連れて福岡市に移住し、家政婦など数多くの仕事をして子どもたちを育て上げたと直接聞いています。父方祖母はまことに誠実で、しかしながら人間関係の面では不器用な人でもありました。5児を抱えた寡婦が、小学校教員の仕事を手放すに至った背景は、いったい何だったのだろうかと今でも思います。

当時の大人たちのホンネの戸惑いこそ、聞いておくべきだったのだと思います。

当時の子どもたちならば、まだ間に合います。

とにかく、ホンネを語って書き残してほしい

戦争とは何だったのかを直接知る世代を今の日本に探すなら、1945年時点で子どもや少年少女だった方々しかいません。

その人々のホンネこそ、今、知られるべきなのではないかと思っています。

もちろん、その時に幼少だったなりの限界はあります。生育そのものを歪められてしまったゆえの限界もあります。

しかし、むしろそれゆえに、貴重な話の数々があるはずです。

親世代についてどう思っていたのか。

戦後民主主義教育と、社会に出た後で会社などの中に根強く残る軍国主義や戦前世代の上司たちとの間で、どう自分の中での落とし所を見つけたのか。

戦後民主主義と高度経済成長のもとに育つ、自分たちの子ども世代に対して、ホンネのところではどう思っていたのか。

自分の得られなかったものを「あたりまえ」と思って育つ子どもたちに対して「許せない」「潰したい」というホンネが垣間見える親世代も、実は結構いました。

孫世代、ひ孫世代に対しては、今後どういうふうに人生を送ってほしいと思うのか。子どもに許せなかったことも孫なら許せるのなら、そのホンネとともに。

戦争に人生の始まりを強く影響された人々の語るホンネこそ、今、知られるべき重要な話なのではないでしょうか。

その方々の人生の残り時間は多くありません。

どういう形ででも、語りが残され、記録が残されるために、今できることはしておく必要があります。

そのことを、70年目の敗戦記念日を前に、強く思います。