なぜ、寄付や支援はモノよりカネであるべきなのか?
物品配給を受けていた青年が筆者に贈ったバッグ。与える喜びに貧富の差はありません。
大災害のたびに、あるいは困窮状態にある人々の存在が知られるたびに、「お金ではなく物品で」、つまり「カネではなくモノで」寄付や支援をしたいというニーズが沸き起こります。
今回のネパール大地震でも、同様のなりゆきとなり、既に多様な衝突が引き起こされています。
「モノ」の寄付や支援は、受け取る側にとって何なのでしょうか?
モノの寄付が相手に強いる負担を考えてみよう
「大災害の被災地で、赤ちゃん用の粉ミルクが不足している」という報道に接した、とします。
さらに、
「たまたま予定よりも早く離乳してしまった子どもがいて、買いだめしておいたものの不要になった未開封の乳児用粉ミルク2缶があり、賞味期限は3ヶ月後」
とします。
現地には救援物資の受け付けをしている団体があり、受け付けている物資のリストの中には「乳児用粉ミルク」もあります。
あなたは粉ミルク2缶を送りました。
同じことを考えた人が300人いて、手元に余っていた粉ミルクを平均2缶送ったので、その団体には600缶が集まりました。
仕分けと廃棄のコスト
受け入れた団体は、送られてきた支援物資をチェックします。
「ウチでは食べたくないから」と賞味期限を過ぎた食品を送ってくる「善意」の人が、少なからずいるからです。
賞味期限内の食品でも、パッケージが損傷しているかもしれません。たとえば缶の下部のサビは、意外に見落としやすいものです。
被災地ではたいてい、ありとあらゆる物資が不足しています。
「水道の蛇口をひねれば飲める水が出る」
「お湯を沸かして清潔な湯冷ましを作ることができる」
「食器を衛生的な状態に維持することができる」
という非・被災地の常識は、通じないことが多いです。
そんな中で食中毒が発生したら?
医療従事者の人数も、医療用物資も不足しているのです。「医療資源を余分に消費する」という負荷まで発生させることになってしまいます。
「それでも、食べるものが何もないよりマシ」という判断もありえますが、一般的に、被災地で求められる衛生面の配慮は、非・被災地よりもずっとシビアです。
したがって、支援物資を受け入れた団体は、シビアにチェックせざるを得ません。
「受け入れがたい」とされたものは、廃棄されることになります。
結果として受け入れられないモノを送ることは、その廃棄のための手間と費用を一緒に押し付けているのと同じです。
日本ではほとんど問題になりませんが、海外では「宗教的禁忌」という大問題もあります。
牛を食べない人にビーフエキス、豚を食べない人にポークエキス、イカを食べない人に正体不明の魚介エキスの入った食べ物を押し付けることは、廃棄の手間と費用に加え、
「あなたたちの大事にしているものなんか、どうでもいいんです」
というメッセージを送っているのと同じです。
開ければ食べられる、賞味期限のたっぷり残っている、作りたての缶詰の類なら良いのでしょうか?
宗教的禁忌に充分に配慮してのことなら良いのでしょうか?
相手の事情を充分に知らない状態で送ると、それも「ありがた迷惑」になりかねません。
たとえば、飲み水も不足しているような地域にツナの油漬け缶を送ると、「油で汚れた食器や手をどうするのか」という問題を一緒に送りつけてしまうことになります。
ともあれ、最初の例に戻りましょう。
団体は、送られてきた乳児用粉ミルク600缶のうち、賞味期限が切れていたりパッケージが損傷していたりした100缶を廃棄対象としました。
500缶が残りました。
保管コストと「無駄にしてはいけない」というプレッシャー
大量の支援物資に対しては、当然ながら、大きな保管スペースが必要です。スペースだけではなく、整理・管理する人手も必要です。
支援物資を受け入れている団体は、スペースや人手については目処があるので受け入れているわけではありますが、それでもコストが必要になっていることは間違いありません。
ともあれ団体は、当然ながら、「善意で寄せられた物品を無駄にしたくない」という強い思いを持っています。
ですので、賞味期限がそれほど長く残っていないとしても、「なんとか無駄にせずに必要な人に届けたい」と考えます。
問題はニーズの存在です。
例としている団体は、いま、配布することのできる粉ミルク500缶を預かっています。
その地域に乳児はいることはいるものの、向こう3ヶ月で消費しきれそうな粉ミルクはせいぜい100缶。
「そもそも少子化が進んでおり、乳幼児向け用品の流通が貧弱になっていたことが、大災害時に入手困難になることの背景であった」
という、よくあるパターンでした。
とにもかくにも、確実に必要とされる100缶は、ニーズのある人々に配ることができます。涙を浮かべて感謝する人々もいるかもしれません。
すると400缶が残ります。
被災地の調査、ニーズ把握、物品の管理と配布に加え、その地で消費しきれない物資を無駄なく必要な地域に届ける仕事が、団体に加わることになります。
ゴミなら廃棄のコストがかかるだけですが、まぎれもない善意なので、「善意を無にしてはならない」というプレッシャがかかるわけです。
結局、素直に「役に立った」と言えるものは、600缶のうち100缶。
もちろん、場合によっては、600缶のうち不届きな・不注意な送り主による100缶を除いた500缶が、即座に役に立つこともありえます。
しかし、そうなるかどうかは、遠く離れて報道にだけ接している人間に判断できることではありません。
カネをさし上げて、必要に応じてモノ・倉庫・人手などにしていただいた方が、よほど確実に役に立ちます。
カネにはできないけれど、モノならできることは?
とはいえ、「カネよりモノ」という場面もあります。
極度のインフレ状態にあったり、貨幣経済が成立しない状況にあったりする地域では、カネがいくらあっても意味ありません。
即座にニーズを満たし、消費してもらえるモノが最良です。
しかし、何ならばニーズを充たすことができ、消費してもらうことができ、負担を大いに上回るメリットを生じさせることができ、あわよくば、その方々の次の一歩につなげられるのか?
遠くから報道に接しているだけの人間には、知りようのないことです。
モノにはできないけれど、カネならできることは?
カネは、相手に自由と選択肢を差し上げることができます。
カネは腐りません。金融機関に預けておけば、安全面のコストも最小限になります。
いつでも、何に交換することもできます。
逆にいうと、カネでなくモノを寄付・支援の手段とすることは、相手から自由と選択肢を奪うことに他ならないのです。
モノの寄付を、モノを受け取る人々に対して「自由と選択肢とモノ」を手渡すことに結びつける「うまい方法」はあるのですが、その「うまい方法」を実行できる状態の確立や維持にもコストが必要です。
「うまい方法」の一例は、拙記事でも紹介しています。ご関心のある方は、ご一読ください。
生活保護のリアル~私たちの明日は?:格差大国・米国でも、これだけの困窮者支援がある
(タイトル画像の黄色いバッグが私の手元にやってきた経緯は、↑の記事末尾にあります)
「モノでもカネでも結果は同じ」という場面では?
極めて稀に、モノでもカネでも同じ結果となる寄付や支援がありえます。
たとえば
「福島産の桃(例)を2個食べたい人がいて、自分はさっき届いたばかりの福島産の桃5個を持っている」
という場面。
(あくまでも例です。私は桃が苦手なので)
顔の見える関係、親しい友人やご近所さんとの間であれば、極めて自然な「お福わけ」でしょう。
「モノをさしあげる」は、寄付でも支援でもなく、お互いの「お福わけ」が自然に、必ずしも金銭換算したときに対等でなくても「お互い様」感のある状態で行われている場面、あるいは贈与文化の一部分として成り立つ例外、と考えたほうがよいと思います。
「モノで寄付したい」と表明する前に考えてみたいこと
「自分が不要としているものを、必要としている人がいる」
は、ありとあらゆる場面に起こりうることなのですが、それ以上に起こりうるのは
「自分が不要としているものは、相手にとってはもっと不要」
です。
「自分が大切にしているものを、必要としている人に」
なら、必要とされる可能性はさらに高くなります。
それでも必要とされるとは限りませんが、
「あなたコレでいいでしょ? ありがたく受け取りなさいよ」
という失礼を一緒に差し上げることにはならない分だけ、マシでしょう。
私はそういうとき、犬飼道子さんのご著書のどこかに、幼少時のエピソードとして紹介されていた話を思い出します。
友達が「お母さんを亡くした」など悲しい思いをしているときに、お母様は
「道ちゃん、あなたの一番大事にしているお人形を、悲しい思いをしているお友達におあげ」
と言ったそうです。
「志」「気持ち」を贈ることの意味と難しさを、端的に現しているエピソードだと思います。
犬飼道子さんとお母様は、後年、キリスト教(カソリック)を信仰するようになられますが、この時期はまだ日本的に仏教+神道だったようです。いずれにしても、「宗教的背景がどうのこうの」ではない話です。
結論:「寄付や支援は、モノよりカネで!」が大原則
特に大変な状況にある方々への寄付や支援を大切なことだと思うなら、自分にとって大切な何かで。
いらないモノではなく、「ついていきたいような」と形容したくなるカネで。
いらないモノがあるのなら、それをカネに代えて。
自分の生活を守りつつ、「これしかできなくて、ごめん」と思いつつ。
それが、自分も含め、ふつうの人にできるベストではないでしょうか。