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2018-10-30

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・なにを書こうか、ずっと迷っていた。
 書きたいこともいくつかあったし、
 書かなきゃなぁということもあった。
 書いておこうということもあった。
 どこから書き出しても、どれもちょっと死の匂いがする。
 ものごとは、みんなそうなのかもしれない。
 誕生と記すだけで、その裏地に死の刺繍が入る。
 たのしかったと言えば、その終わりが入れ替わる。
 死なないつもりで生きていられる時間は、
 かなり能天気な人で、60年くらいは続くのかしらん。
 それはそれで、いいんじゃないかなと思う。

 いっそ、だれの話でもないことを書こう。
 人生100年時代に入っているとか言うけれど、
 これほど長生きの時代はいままでなかったわけで。
 歴史を遡れば、人生50年どころか、
 人生40年、30年という時代もあたりまえのようにあるし、
 15歳くらいまでしか生きなかった時代もあるようだ。

 仮に、いまを生きているぼくらが、
 人生が30年の時代にいると考えるようになったら、
 一年、一月、一日というものの時間感覚は、
 どんなふうにちがってくるのだろうか。
 ただの想像でしかないけれど、
 早いうちからなにか役に立つことをさせられるだろうし、
 じぶんからも家族のなかの役割を果たそうとするだろう。
 そして、いまよりもずっと若くして結婚して、
 何人かのこどもを持つことになるのだろうと思う。
 そして、こどもが勝手に走り回れるようになると、
 そろそろじぶんの死を意識するのではなかろうか。
 つまり、20歳からの10年ほどは、
 もう死を予感している時間だということになる。
 …そうかな、ぼくの想像だけかもしれないが、
 父も、祖父も30歳で死んだという世界に住んでいたら、
 じぶんの死期も、そんなふうに意識するだろうよ。
 なんだか、こどもでいる時間が短そうだなぁ。
 青年でいる時間もずいぶん短そうだ。
 そして大人でいる時間も、うん、やっぱり短そうだ。
 いまと、ものすごいちがいがあるなぁ。
 ぼくはもう、その時代の人の2周以上を生きてきている。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
ぼくは、いまも1000年生きるつもりで日々を過ごしてます。


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