週刊文春2015.2.5号
p22~25
「10分300万円」に命を賭けた
後藤健二さん書かれざる数奇な人生
「後藤さんはなぜ一人でイスラム国に入ったのか。知人の湯川さんを救出するためだったとされてい ますが、どうしても納得できないのです。昨年10月、シリアに出発する二目前に彼と電話で話しましたが、湯川さん日付の話はまったくしておらず、後藤さんは『まだどのテレビ局に映像を出すかは決めていない』などと、仕事の話をしていたのです」
こう語るのは、後藤健二さん(47)と親交があるジャーナリストだ。
1月24日午後11時過ぎ、動画サイト「ユーチューブ」に一本の動画が投稿された。 そこには湯川遥菜さん(42)と見られる” 遺体写真” を持つ後藤さんが映っていた。そして3日後には「残された時間は24時間しかない」という” 最後のメッセージ” がアップされた。
昨年一月に民間軍事会社を立ち上げた湯川さんに、後藤さんが初めてあったのは昨年四月のことだった。湯川さんは当時、イスラム国とは別のシリア反体制派組織に拘束され、入国目的などを聞かれていた。 そこで組織幹部とつながりのある後藤さんが通訳を務めたのが出会いだった。
湯川さんは自身のブログで<やったあ♪ 僕が日本で会いたかった人の一人> と後藤さんに会えた 喜びを綴っており、湯川さんの父親・正一さん(74)も、二人の関係をこう語っている。
「息子は後藤さんを大変慕っておりまして、兄貴のようだと盛んに語っておりました」 その湯川さんが昨年八月にイスラム国に拘束されて以降、後藤さんは湯川さんの身を案じていた。
後藤さんと面識のあるフリージャーナリストが言う。 「心配していたのは間違いないですが、救出のためにシリアに渡ったとは考えにくい。 後藤さんは10月24日にシリアに入国しているが、29日には帰国する予定でいた。数日で湯川さんを探しだしてイスラム国と交渉することは不可能。 事前に向こうから『ユカワを引き渡すから迎えに来い』という話があったのいれならわかりますが・・・・・・。
後藤さんは昨年六月頃の段階では、『イスラム国なんてどうでもいい』と言っていた。 ただ、その後、イスラム国が大きなニュースになっていくのを見て、『でかいネタになる』と考えたのかも知れない。 もし救出できれば世界的なニュースですし、映像が番組で流されれば、10分間で200万円から300万円 ほどのギャラをもらえますから」
命の危険も伴う取材だけに、それは相応な対価だろう。 実際、後藤さんはイスラム国に入る直前、「 何が起こっても責任は私自身にあります」という動画のメッセージをガイドに託している。 だが結果として、その決断は人質交換交渉にヨルダン政府も巻き込む外交問題に発展してしまった。
日立子会社を3カ月で退職
果たして、後藤さんにはどれほどの覚悟があったのだろうか。ジャーナリストとして名を成すまでの後藤さんの歩みを振り返る。
1967年生まれの後藤さんは2歳までを仙台市で過ごし、その後、東京都世田谷区に転居した。
実家近くの住民が語る。
「お父さんは日立製作所の社員で、お母さんは自宅近くで塾経営をしていたようです。お兄さんとお姉さんがいる3人きょうだいの末っ子で、健二君は勉強が出来て、いつも友達の輪の中心にいました」
後藤さんの母親、石堂順子さん(78)が、1月23日に日本外国特派員協会で会見を開いて注目を集めた。石堂姓は順子さんの旧姓だという。後藤さんの実兄(55)はこう説明する。
「はっきりとした時期は覚えていませんが、両親が離婚したのは20年程前です。母はそれより前、健二が高校生くらいの時に世田谷の家から引っ越しています。健二も母とはかなり長い間、連絡を取っていなかったと思います」
母親が家を出て以降、健二さんは父親と暮らしていたという。法政大学の付属高校に進学した後藤さんは、1986年法政大学社会学部に進学する。
長年の知人が語る。
「高校時代からアメフト部に所属し、本人は大学でもアメフトをやっていたと言っていました。大学卒業後は、父親の縁なのか、日立製作所の子会社に就職した。ところがサラリーマンがいやだったのか、三カ月で退社。その後は、恵比寿のボディビルジムでコーチとして働き始めたのです」
そのジムのオーナーはこう振り返る。
「うちに就職したのは92年7月でした。明るく人当たりも良かったので、恵比寿店の運営を任せることにしたのです」
オーナーの信頼を得た後藤さんだったが、金銭トラブルを起してしまう。
「1年くらい経った頃、会員の入会金と月謝、合わせて500万円もの額が、帳簿と合わないことが判明したのです。本来お店に入っているはずのお金がなく、1日で30万円も勘定が違うこともありました。彼を問い詰めましたが、無言を貫くばかり。結局、それが原因でジムを辞めてもらうことになりました」(同前)
後藤さんはジム勤務の傍らで、意外なビジネスにも手を出していたという。
「彼は風俗店をやっていたのです。家賃20数万円の南麻布の高級マンションを借りていて、近隣住民から不動産屋に苦情がきたと聞きました。彼の周囲に聞いてみると、うちのジムでも女性をスカウトしていたんです」(同前)
当時のジムの同僚が語る。
「確かに後藤さんは羽振りが良かった。2万円もするランチを食べたり、プジョーを乗り回していました。退職後の93年12月に手紙が届き、『いまは職探しの途中だけど、就職できたらまた会おう』と。その後、会うことはなかったけど、百貨店系列のスポーツジムに就職したようです」
紛争地帯の一般民衆に寄り添う
ジャーナリズムの門を叩いたのは20代中盤の頃だった。TBS系列の番組制作会社に所属して経験を積み、96年には自身が代表を務める映像通信会社「インデペンデント・プレス」を設立した。この頃から、後藤さんが撮影した映像がテレビで流れ始める。当時、NHK「ETV2000」の編集長を務めていた永田浩三武蔵大学教授が語る。
「彼のデビュー作と言えるのは、西アフリカのシエラレオネの内戦を取材したもので、2000年7月に放映しました。地味なネタでしたが、紛争地帯の一般民衆に着目するという視点に魅力を感じて、約45分の番組を作りました」
フォトジャーナリストの橋本昇氏も、駆け出し時代の後藤さんを知る一人だ。
「01年、イスラマバードの取材が初対面で、本格的な戦場取材は初めてのような話をしていましたね。『タリバンの取材をしたい』と言っていて、取材の仕方などを教えてあげました。『こんな仕事を続けていると、いつか酷い目に遭うんじゃないですかね』と漏らしていたことが、印象的でした」
これ以前に後藤さんは、一度目の結婚をしている。
「ロイター通信など外国メディアで翻訳の仕事をしていた女性で、現在は大学の非常勤講師をしています。彼女との間には現在中3の子供がいます」(前出・知人)
ジャーナリストとしての活動も軌道に乗り身を固めた後藤さんだが、結婚生活は長くは続かなかった。
「最初の奥さんとは10年以上前に離婚しています。後藤さんがイラクの取材に行こうとしていた時に、奥さんから反対されたことが理由のようです」(同前)
2003年に起きたイラク戦争中の取材について、前出の永田氏が語る。
「大手メディアは、フセイン政権が倒れたことを喜ぶ一般市民という構図で取材をしていました。一方、後藤さんは戦場で亡くなった方のお墓を訪ねたり、武器を持った兵士におびえる人たちに寄り添うという取材を心がけていました」
この頃から映像だけでなく執筆活動にも力を入れ始める。06年には「ダイヤモンドより平和がほしい」 (汐文社)で産経児童出版文化賞を受賞し、ジャーナリストとしての地歩を固めていく。彼の仕事ぶりについて、前出のジャーナリストが語る。
「とにかく仕事にシビアな人でした。彼の映像を観ると、最前線には行かず周辺の地域の映像を多く撮っています。テレビ番組として成立することを考えると、後方の市民を取材することも大切。いわゆる”画になる”映像をきちんと計算して撮っているので、ジャーナリスト仲間では『テレビ屋さん』と呼ぶ人もいます」
現地では、ふんだんに取材費を使っていたという。
「通常はガイドに支払うギャラは1日50ドルくらいですが、彼は倍以上払っていた。テレビ局は提供した映像を二次使用で勝手に使ってしまうこともあるのですが、彼はきっちりと二次使用のギャラも要求していました。その几帳面さがあったから、他のジャーナリストに比べて余裕があったのでしょう。12年頃からシリア取材をするようになり、さらに仕事が軌道に乗った印象です」(前出・フリージャーナリスト)
紛争地の取材を続けながら着実に実績を積み上げてきた後藤さんが、現在の奥さんと結婚したのは3年程前だった。
「奥さんは世田谷の進学校から東大に進み、大学院で都市工学を学んだ才媛です。卒業後は国際協力機構(JICA)に就職。OECDに出向してパリに住んでいたこともあって、二人は海外で出会ったようです。結婚後、後藤さんは奥さんの籍に入っていると聞いています。2歳と昨年生まれた赤ちゃんの2人の娘がいます」(同前)
後藤さんの現在の自宅は赤坂の一等地にある。
「自宅は赤坂サカスにほど近いマンション。後藤さんの会社のオフィスも近くにあり、生活は裕福だった印象があります」(同前)
記者会見で母親の順子さんが、「奥さんと名乗る方と初めて電話で交信いたしました」と明かしたことも話題となった。
「健二に代わってお詫びします」
「お母さんは、昨年赤ちゃんが生まれたことも知らなかったと言いましたが、健二さんが再婚したことも知らなかったのです。3年ほど前のお母さんの誕生日に後藤さんと一緒に食事をした時の写真も公開しましたが、それも何年ぶりなのか分からないほどだったそうで、疎遠な状態が続いていたのです」(前出・知人)
順子さんの記者会見では、健二さんとは関係のない話題も飛び出した。
「会見や自宅での囲み取材で、何度も『原発は反対です』とか『日本は戦争をしないと、憲法9条に誓った国です』などと語り、報道陣を唖然とさせていました。取材に立ち会った夫の石堂行夫さんからも、『原子力はそれとして、早く本題を・・・』と促されるほどでした」(会見に参加した記者)
順子さんの会見をセッティングした「社会新報」の田中稔編集次長が語る。
「彼女とはジャーナリストの会合を通じて10数年のお付き合いで、会見を勧めました。反原発は東日本大震災以来のお母さんの持論ですから、興奮して出てしまったのでしょう。ただ、健二さんの実のお父さんは、『会見をやるべきではない』と伝えていたようです」
実兄もこう語る。
「母とは20年以上音信不通でしたから、突然の記者会見に驚きました。まだ事態自体は流動的でわからないことが多かったですから。健二の無事を祈るからこそ、会見の朝、外国特派員協会に『会見をやめてほしい』とお願いしたのですが・・・・。
会見当日、奥さんが会見場に現れるという情報も流れていたようですが、彼女は一切、会見に出る意思はなかったようです」
1月24日の映像で、後藤さんとされる声は妻の名を呼び、『これが私の人生の最後の数時間になるかもしれない。これをあなたが聞く最後の言葉にしないでほしい』と語りかけた。
後藤さんの安否が不明な今、親族は不安な日々を過ごしている。実兄が言う。
「健二とは普段からメールや電話のやり取りをしていただけに、11月に行方不明と聞いた時は衝撃を受けました。すぐに安否確認のメールを健二に出しましたが、返信はなかった。1月20日の報道後、警察の方が来られて確認を求められたので、調書に『弟に間違いない』と書きました・・・・」
そして沈痛な表情で、こう語る。
「政府や国民の皆さんにご迷惑をおかけして、本当に申し訳ございません。健二に代わってお詫びします。日本国民だけではなく、世界中で健二のことを応援してくれている人に感謝しています。今は、無事に帰ってきてほしいと願うばかりです」
後藤さんの一刻も早い救出が待たれる。




p22~25
「10分300万円」に命を賭けた
後藤健二さん書かれざる数奇な人生
「後藤さんはなぜ一人でイスラム国に入ったのか。知人の湯川さんを救出するためだったとされてい ますが、どうしても納得できないのです。昨年10月、シリアに出発する二目前に彼と電話で話しましたが、湯川さん日付の話はまったくしておらず、後藤さんは『まだどのテレビ局に映像を出すかは決めていない』などと、仕事の話をしていたのです」
こう語るのは、後藤健二さん(47)と親交があるジャーナリストだ。
1月24日午後11時過ぎ、動画サイト「ユーチューブ」に一本の動画が投稿された。 そこには湯川遥菜さん(42)と見られる” 遺体写真” を持つ後藤さんが映っていた。そして3日後には「残された時間は24時間しかない」という” 最後のメッセージ” がアップされた。
昨年一月に民間軍事会社を立ち上げた湯川さんに、後藤さんが初めてあったのは昨年四月のことだった。湯川さんは当時、イスラム国とは別のシリア反体制派組織に拘束され、入国目的などを聞かれていた。 そこで組織幹部とつながりのある後藤さんが通訳を務めたのが出会いだった。
湯川さんは自身のブログで<やったあ♪ 僕が日本で会いたかった人の一人> と後藤さんに会えた 喜びを綴っており、湯川さんの父親・正一さん(74)も、二人の関係をこう語っている。
「息子は後藤さんを大変慕っておりまして、兄貴のようだと盛んに語っておりました」 その湯川さんが昨年八月にイスラム国に拘束されて以降、後藤さんは湯川さんの身を案じていた。
後藤さんと面識のあるフリージャーナリストが言う。 「心配していたのは間違いないですが、救出のためにシリアに渡ったとは考えにくい。 後藤さんは10月24日にシリアに入国しているが、29日には帰国する予定でいた。数日で湯川さんを探しだしてイスラム国と交渉することは不可能。 事前に向こうから『ユカワを引き渡すから迎えに来い』という話があったのいれならわかりますが・・・・・・。
後藤さんは昨年六月頃の段階では、『イスラム国なんてどうでもいい』と言っていた。 ただ、その後、イスラム国が大きなニュースになっていくのを見て、『でかいネタになる』と考えたのかも知れない。 もし救出できれば世界的なニュースですし、映像が番組で流されれば、10分間で200万円から300万円 ほどのギャラをもらえますから」
命の危険も伴う取材だけに、それは相応な対価だろう。 実際、後藤さんはイスラム国に入る直前、「 何が起こっても責任は私自身にあります」という動画のメッセージをガイドに託している。 だが結果として、その決断は人質交換交渉にヨルダン政府も巻き込む外交問題に発展してしまった。
日立子会社を3カ月で退職
果たして、後藤さんにはどれほどの覚悟があったのだろうか。ジャーナリストとして名を成すまでの後藤さんの歩みを振り返る。
1967年生まれの後藤さんは2歳までを仙台市で過ごし、その後、東京都世田谷区に転居した。
実家近くの住民が語る。
「お父さんは日立製作所の社員で、お母さんは自宅近くで塾経営をしていたようです。お兄さんとお姉さんがいる3人きょうだいの末っ子で、健二君は勉強が出来て、いつも友達の輪の中心にいました」
後藤さんの母親、石堂順子さん(78)が、1月23日に日本外国特派員協会で会見を開いて注目を集めた。石堂姓は順子さんの旧姓だという。後藤さんの実兄(55)はこう説明する。
「はっきりとした時期は覚えていませんが、両親が離婚したのは20年程前です。母はそれより前、健二が高校生くらいの時に世田谷の家から引っ越しています。健二も母とはかなり長い間、連絡を取っていなかったと思います」
母親が家を出て以降、健二さんは父親と暮らしていたという。法政大学の付属高校に進学した後藤さんは、1986年法政大学社会学部に進学する。
長年の知人が語る。
「高校時代からアメフト部に所属し、本人は大学でもアメフトをやっていたと言っていました。大学卒業後は、父親の縁なのか、日立製作所の子会社に就職した。ところがサラリーマンがいやだったのか、三カ月で退社。その後は、恵比寿のボディビルジムでコーチとして働き始めたのです」
そのジムのオーナーはこう振り返る。
「うちに就職したのは92年7月でした。明るく人当たりも良かったので、恵比寿店の運営を任せることにしたのです」
オーナーの信頼を得た後藤さんだったが、金銭トラブルを起してしまう。
「1年くらい経った頃、会員の入会金と月謝、合わせて500万円もの額が、帳簿と合わないことが判明したのです。本来お店に入っているはずのお金がなく、1日で30万円も勘定が違うこともありました。彼を問い詰めましたが、無言を貫くばかり。結局、それが原因でジムを辞めてもらうことになりました」(同前)
後藤さんはジム勤務の傍らで、意外なビジネスにも手を出していたという。
「彼は風俗店をやっていたのです。家賃20数万円の南麻布の高級マンションを借りていて、近隣住民から不動産屋に苦情がきたと聞きました。彼の周囲に聞いてみると、うちのジムでも女性をスカウトしていたんです」(同前)
当時のジムの同僚が語る。
「確かに後藤さんは羽振りが良かった。2万円もするランチを食べたり、プジョーを乗り回していました。退職後の93年12月に手紙が届き、『いまは職探しの途中だけど、就職できたらまた会おう』と。その後、会うことはなかったけど、百貨店系列のスポーツジムに就職したようです」
紛争地帯の一般民衆に寄り添う
ジャーナリズムの門を叩いたのは20代中盤の頃だった。TBS系列の番組制作会社に所属して経験を積み、96年には自身が代表を務める映像通信会社「インデペンデント・プレス」を設立した。この頃から、後藤さんが撮影した映像がテレビで流れ始める。当時、NHK「ETV2000」の編集長を務めていた永田浩三武蔵大学教授が語る。
「彼のデビュー作と言えるのは、西アフリカのシエラレオネの内戦を取材したもので、2000年7月に放映しました。地味なネタでしたが、紛争地帯の一般民衆に着目するという視点に魅力を感じて、約45分の番組を作りました」
フォトジャーナリストの橋本昇氏も、駆け出し時代の後藤さんを知る一人だ。
「01年、イスラマバードの取材が初対面で、本格的な戦場取材は初めてのような話をしていましたね。『タリバンの取材をしたい』と言っていて、取材の仕方などを教えてあげました。『こんな仕事を続けていると、いつか酷い目に遭うんじゃないですかね』と漏らしていたことが、印象的でした」
これ以前に後藤さんは、一度目の結婚をしている。
「ロイター通信など外国メディアで翻訳の仕事をしていた女性で、現在は大学の非常勤講師をしています。彼女との間には現在中3の子供がいます」(前出・知人)
ジャーナリストとしての活動も軌道に乗り身を固めた後藤さんだが、結婚生活は長くは続かなかった。
「最初の奥さんとは10年以上前に離婚しています。後藤さんがイラクの取材に行こうとしていた時に、奥さんから反対されたことが理由のようです」(同前)
2003年に起きたイラク戦争中の取材について、前出の永田氏が語る。
「大手メディアは、フセイン政権が倒れたことを喜ぶ一般市民という構図で取材をしていました。一方、後藤さんは戦場で亡くなった方のお墓を訪ねたり、武器を持った兵士におびえる人たちに寄り添うという取材を心がけていました」
この頃から映像だけでなく執筆活動にも力を入れ始める。06年には「ダイヤモンドより平和がほしい」 (汐文社)で産経児童出版文化賞を受賞し、ジャーナリストとしての地歩を固めていく。彼の仕事ぶりについて、前出のジャーナリストが語る。
「とにかく仕事にシビアな人でした。彼の映像を観ると、最前線には行かず周辺の地域の映像を多く撮っています。テレビ番組として成立することを考えると、後方の市民を取材することも大切。いわゆる”画になる”映像をきちんと計算して撮っているので、ジャーナリスト仲間では『テレビ屋さん』と呼ぶ人もいます」
現地では、ふんだんに取材費を使っていたという。
「通常はガイドに支払うギャラは1日50ドルくらいですが、彼は倍以上払っていた。テレビ局は提供した映像を二次使用で勝手に使ってしまうこともあるのですが、彼はきっちりと二次使用のギャラも要求していました。その几帳面さがあったから、他のジャーナリストに比べて余裕があったのでしょう。12年頃からシリア取材をするようになり、さらに仕事が軌道に乗った印象です」(前出・フリージャーナリスト)
紛争地の取材を続けながら着実に実績を積み上げてきた後藤さんが、現在の奥さんと結婚したのは3年程前だった。
「奥さんは世田谷の進学校から東大に進み、大学院で都市工学を学んだ才媛です。卒業後は国際協力機構(JICA)に就職。OECDに出向してパリに住んでいたこともあって、二人は海外で出会ったようです。結婚後、後藤さんは奥さんの籍に入っていると聞いています。2歳と昨年生まれた赤ちゃんの2人の娘がいます」(同前)
後藤さんの現在の自宅は赤坂の一等地にある。
「自宅は赤坂サカスにほど近いマンション。後藤さんの会社のオフィスも近くにあり、生活は裕福だった印象があります」(同前)
記者会見で母親の順子さんが、「奥さんと名乗る方と初めて電話で交信いたしました」と明かしたことも話題となった。
「健二に代わってお詫びします」
「お母さんは、昨年赤ちゃんが生まれたことも知らなかったと言いましたが、健二さんが再婚したことも知らなかったのです。3年ほど前のお母さんの誕生日に後藤さんと一緒に食事をした時の写真も公開しましたが、それも何年ぶりなのか分からないほどだったそうで、疎遠な状態が続いていたのです」(前出・知人)
順子さんの記者会見では、健二さんとは関係のない話題も飛び出した。
「会見や自宅での囲み取材で、何度も『原発は反対です』とか『日本は戦争をしないと、憲法9条に誓った国です』などと語り、報道陣を唖然とさせていました。取材に立ち会った夫の石堂行夫さんからも、『原子力はそれとして、早く本題を・・・』と促されるほどでした」(会見に参加した記者)
順子さんの会見をセッティングした「社会新報」の田中稔編集次長が語る。
「彼女とはジャーナリストの会合を通じて10数年のお付き合いで、会見を勧めました。反原発は東日本大震災以来のお母さんの持論ですから、興奮して出てしまったのでしょう。ただ、健二さんの実のお父さんは、『会見をやるべきではない』と伝えていたようです」
実兄もこう語る。
「母とは20年以上音信不通でしたから、突然の記者会見に驚きました。まだ事態自体は流動的でわからないことが多かったですから。健二の無事を祈るからこそ、会見の朝、外国特派員協会に『会見をやめてほしい』とお願いしたのですが・・・・。
会見当日、奥さんが会見場に現れるという情報も流れていたようですが、彼女は一切、会見に出る意思はなかったようです」
1月24日の映像で、後藤さんとされる声は妻の名を呼び、『これが私の人生の最後の数時間になるかもしれない。これをあなたが聞く最後の言葉にしないでほしい』と語りかけた。
後藤さんの安否が不明な今、親族は不安な日々を過ごしている。実兄が言う。
「健二とは普段からメールや電話のやり取りをしていただけに、11月に行方不明と聞いた時は衝撃を受けました。すぐに安否確認のメールを健二に出しましたが、返信はなかった。1月20日の報道後、警察の方が来られて確認を求められたので、調書に『弟に間違いない』と書きました・・・・」
そして沈痛な表情で、こう語る。
「政府や国民の皆さんにご迷惑をおかけして、本当に申し訳ございません。健二に代わってお詫びします。日本国民だけではなく、世界中で健二のことを応援してくれている人に感謝しています。今は、無事に帰ってきてほしいと願うばかりです」
後藤さんの一刻も早い救出が待たれる。
http://ameblo.jp/yoshiko-kawashima/entry-11885904000.html
(この機材・・カメラ持って乗り込んだフリージャーナリストというイメージと全然違った)
https://www.youtube.com/watch?v=lZ3Rv9hmw88
湯川遥菜氏が軍関係の仕事をしているとかエージェントだとかずっと変だと思っていたが
テレビ局の請負と考えると全て辻褄が合う
報道ステーション2015.2.3
共産党・小池晃議員「日本人が拘束されているというもとで慎重な物言いが必要だったのではー」
FBを教えたアムネスティ日本・石田城孝氏、
画像をRTした有田芳生議員がまず責められるべきでは
彼らの行動は慎重だったんですかね?
→ネトウヨなんて殺されちまえby人権派
報道ステーションに責任はないの?
追記2015.2.9
NewsPostseven『古舘伊知郎が『報道ステーション』以外に出演しない理由とは』2013.4.10
http://www.news-postseven.com/archives/20130410_181446.html
事務所が丸々『報ステ』の制作を請け負っている。これは、事務所にとっては大きい。
所属事務所の『古舘プロジェクト』は、構成作家など制作陣も抱えていますからね。1回の放送で3000万~4000万円、事務所に入っているのではないでしょうか。一説には、6000万円という声もあります。ロケからニュース原稿作りまでほとんど事務所所属スタッフを使っていますからね。
追記2015.2.14
著書を出版している「汐文社」
追記2015.2.14
著書を出版している「汐文社」
http://www.choubunsha.com/products/hadashi-no-gen.html
はだしのゲン閉架騒動で儲けたというあのw
参考
ISIS人質署名 西早稲田からアンブロークンまで
コメント
コメント一覧 (22)
http://critic20.exblog.jp/
http://www.parc-jp.org/freeschool/2009/kouza/kouza_14.html
亡くなった方やご家族にはお気の毒ですがね。
http://video.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&p=Execution+isis
そういった論調を主導したのが誰か、どのような団体が便乗して安倍降ろしに乗ったか、きちんと検証する必要があると思います。
えええええええ
(maybeさんのコメントにはもれなく驚いてるな)
そう繋がるのか・・・知らんかった・・・
親和性が高いというか
下手するとそのものかもしれない
第三書館も何かやらかしてましたね・・・
http://www.sankei.com/life/news/150206/lif1502060024-n1.html
たまたま見ていた動画で
1/3【討論!】朝日新聞的世界観の溶解とその行方[桜H27/2/7]
https://www.youtube.com/watch?v=COpAUbXEaX0
26:40頃
「BBCやCNNなど危険地域に行ったフリージャーナリストからは映像を買わないと表明している」
だとするとテレ朝って相当まずいことをやってるんですね?
>こぞってこの件を「安倍降ろし」に利用している
安倍おろしもそうなんですが
自分の責任を政権になすりつけるためとも思えて
なんだかおぞましい話ですよね。
結局巨額な金が必要なはずですが、それってどうするきだったんでしょうかね?
本当はもっとテロとジャーナリストもどきがいったいになって
政府批判する予定だったのが、テロ側の派閥というか構造がかわって
予定外のことがおきたという可能性もありますね。
https://secure.avaaz.org/jp/petition/petition_5243130ab1fde/?copy
http://zmms.blog100.fc2.com/blog-entry-71.html
もう一つの署名サイトもみんな繋がってるんだな、、
http://gcapj.blog56.fc2.com/blog-entry-305.html
>
皮肉なことに、「重債務貧困国」諸国の大部分であるアフリカ諸国の貧困化の一因は部族紛争、内戦であり、それを扇動してきたのは多くの場合共産系ゲリラ組織である。因みに、朝鮮総連と「IMF・世銀を問う会」と名を連ねて東京大司教白柳枢機卿が代表となって昨年12月になされた「債務帳消し」全国署名運動の署名用紙に「問い合わせ先‥アジア太平洋資料センター」とある。これは『フィリピン民衆革命へ・フィリピン共産党重要文献集』を編訳している左翼系組織である。
http://www.christ-ch.or.jp/5_torinashi/back_number/2007/2007_06/2007_06_report.html
>
「世界宗教者平和会議」(WCRP)のイデオローグで、神学教授職を停止させられたH・キュング神父の「地球倫理」である。それはキリスト教であれアニミズムであれ、みな同じ救いの道だとする相対主義、折衷主義である。 」
を検索すると、以下の書き込みが。字数制限のため編集あり。
220 :名無しさん@1周年:2015/02/06(金) 17:33:40.60 ID:9nL7wMvM0「イスラム教徒とキリスト教牧師がネットラジオ、町田・相模原拠点に」
http://machida.keizai.biz/headline/1474/
①ナセル永野は単なるイスラム教徒じゃない、世界宗教者平和会議のイスラム教徒で、ここを検索すると
しっかり北朝鮮が関係している。西早稲田2-3-18の日本キリスト教協議会も名前がある。
②大野キリスト教会は、憲法9条ノーベル賞の鷹巣直美のところ。
③イスラム国で中田孝共にした常岡浩介は一貫して反日本政府発言。彼も西早稲田と関係している。
「島原出身のフリージャーナリスト常岡浩介が見たイラク戦争」 問い合わせ先 日本基督教団島原教会(町頭牧師)
④中田孝は同志社大学神学部教授。つまり西早稲田牧師養成の教授。
⑤北朝鮮チュチェ思想の武者小路公秀はもちろん西早稲田系、彼らはイスラム問題を在日問題と同一視。
「日本における在日韓国人・朝鮮人への差別的な動きや、
欧米におけるイスラム排斥と反ユダヤ主義の相互激化などの一切の排外主義を退けることも重要である。」
http://worldpeace7.jp/modules/pico/index.php?content_id=1
後藤さん妻の音声メッセージを公開したイギリスのジャーナリスト支援団体
(これもまたイギリス・・・)
そのうち記事に上げますが
何だかよく分かんないですね。
個人的にすごく引っかかるのが
アンジェリーナ・ジョリー夫妻で映画化した創価のお友達の本
がまた同様にテロリストに殺害されたジャーナリストの話なんですよね。
(お友達はその妻)
3つめのリンク
東京都台東区東上野1-20-6 丸幸ビル
これは例の国際連帯税とOxfamですね・・・
澤田昭夫氏の文
「独立革命後の実権を奪ったのは、残虐さにおいてインドネシア軍に劣らぬ左翼ゲリラ組織FALINTIL(東ティモール民族解放武装軍団)であり、その指揮官はイエズス会系ミッション校卒の詩人でチェ・ゲヴァラ型の革命家サナナ・グスマオである。 」
( ゚Д゚)ええええええええ
→http://blog.livedoor.jp/aryasarasvati/archives/38711535.html
あ、そうだそういえば
あの市民の党斎藤まさしこと酒井剛氏はフィリピン革命の渦中にいたとか
→http://blog.livedoor.jp/aryasarasvati/archives/32157707.html
「彼は今年1月24日に北京を訪問、東ティモールの将来に対する中国の援助約束をとりつけた。FALINTILはFRETELIN(東ティモール独立革命戦線)と並んで早くからWCCや正平協の物的、精神的援助を受けていたゲリラ組織である。チェ・ゲヴァラ礼讃ポスターが町角に見られるのが
今日の東ティモールである。 」
WCCで「何でも官邸団・キリスト者平和ネット」の鈴木伶子はしっかりフイリピン行ってます。
http://blog.goo.ne.jp/yoyoue/e/911c207d6f718e4d2ff0844b4b32e712
WCCと北朝鮮当局(朝鮮基督教連盟)、武者小路公秀、朴壽吉
http://www.christiantoday.co.jp/articles/352/20041025/news.htm
>武者小路公秀、朴壽吉
( 一一)
恐ろしい・・・
なにげ別の部分でこわいですね・・・
スピリチュアルな塾なんでしょうね~。
http://kondaijiybb.blog.fc2.com/blog-entry-78.html
WCRPの歴史は同志社の総長と金光教の会長が発起人になって同志社に事務局をおいて始まったですね。
http://www.relnet.co.jp/kokusyu/brief/history.htm
金光教の人も調べた方がいいかもお(´・_・`)
http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r9-2.htm
http://www.shukyosha9jonowa.org/news/news130223_tokyo.html
いつもありがとうございます。
金光教
初めて聞きました。
(´・ω・`)あーどこも汚染されてて怖い。