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今町の老舗 「米善商店」

2005年11月5日 更新

 米善商店をめぐる歴史を尋ねて <過去データより>

 今町の米善商店(今町1-12-21)を取材させていただきました。米善商店は現在見附市で唯一の味噌や醤油を製造して売っているお店で、今町有数の老舗でもあります。
 その手作りの味噌・醤油は多くの根強いファンを抱えており、新潟県内はもとより東京都内のデパートの物産展でも年に何回かは呼ばれて出展するほどです。
 また、その古くて風格のある商家は建築物として定評があり、雪国を代表する商家の一つとしてたびたび選ばれたことがあるそうです。
米善商店の店内
概観
・今町の「清水さま」の分家  米善
 米善さんは、明治時代にかつての今町の大商人のひとつ「清水さま」より分家したのが始まりです。
 「清水さま」は栃尾経由で米沢に商売に通っていたことから「米沢屋庄兵衛門」の屋号をかつて名乗っていました。今日の宝翰堂となっている土地に大きな屋敷があり、その隣の今日の青果市場にあたる土地に米蔵を立てていました。
 今町は次男以下の男子を分家させるときは、本家と別の商売をさせるしきたりがあり、「清水さま」もそれにならって本家周辺の横町と呼ばれる地域(今町十字路から米善商店のある角までの通り一帯)に土地を与えて、自分の商売の一部を任せたり、新たに商売を見つけたりして店を興させたそうです。
 最初、初代は本家の番頭をしていましたが、分家として独立することにあたって、奥さんが経営していた醤油屋に目を付けて、市内上新田町に土地を買って一家挙げてそれに専念することを始めたのだそうです。
 当時、夫が他所に奉公する一方で、妻が自宅で店を経営して共に家計を支えるというパターンはあまり珍しくなかったようで、米善商店の他にも妻がそうして始めた商売が成功して今日まで続いている例も今町内にあるようです。
・屋号の由来
 そうして「清水さま」から分家して新たにできた店は本家の屋号の頭の一文字の「米」に分家した初代の頭の一文字を組み合わせたのを屋号として名乗るのが慣習でした。
 米善商店は初代が善蔵であった為に、本家の「米」に初代の「善」を組み合わせて「米善」を名乗るようになりました。
 米善商店の他にも「清水さま」から分家して「米」で始まる店は今町に他にもいくつかあります。
 今はもう商売をやめましたが、米善さんの前にあり、見附市で戦後残った唯一の酒蔵の日本刀酒造を経営していた米周酒店や、初代が彦平だった事から米彦と屋号として商売していた宝翰堂(株式会社になる際に現在の名前になった)がそれに該当します。
・旗印のはなし
 屋号と並んで分家の際に本家からもらう大切なものの一つに「旗印」と呼ばれる、今日でいうところの商標がありました。
この「旗印」のデザインにはルールがあって、「清水さま」の分家は、二本の線が山のように交わった「ヤマ」が付くことになっていますが、同じ分家でも男性が商売を始める場合は「ヤマ」の下に「一」をつけた「ヤマイチ」をもらうことになっていたそうです。
 米善商店もそうして分家の時点で本家より「ヤマイチ」をもらいました。
 しかし実際に法律上の商標として登録する際に、「ヤマイチ」はすでに登録済みであることが判明し、それで既存の商標と重複を避けるために、今日の桜の花を背景にした「サクラヤマイチ」を商標にしたそうです。
 ただ、そうして男系の分家に「ヤマイチ」を与えていくと、それぞれの店の区別が付かなくなるので、ヤマサ醤油の商標のように「ヤマ」の脇に「上」や「カギ」(突き出さずに直線に交わった二本線)を小さく書き添えるなど、いろいろな細かい変化を付けて区別が付くようにしたそうです。
 おもしろいことに、現代人の感覚だと本家の「清水さま」が一番単純なパターンを使っていたように思えるのですが、そうでもないのですね。
 米善商店が文字の書き添えがないシンプルな「ヤマイチ」を使っていたのに対して、本家は横に「上」の字を書き添えた「ジョウヤマイチ」を「旗印」として使っていたそうです。不思議ですね。
 今町の古い商店では「旗印」を今日でも看板に描いて使っていることも結構多いので、街中を歩くときは注意して見てください。
 ただヤマサ醤油の例のように「旗印」は全国的に存在するものなので、「ヤマ」の付ける・付けないは、あくまでも本家と分家の間だけの取り決めに過ぎません。「ヤマ」が付いた「旗印」を使っているからといって「清水さま」の分家とは限らないのでそのへんは注意してください。
・その後の「清水さま」
 分家に商売をさせていった結果、横町には反物屋や糸屋や小間物屋など、まちとして必要な店舗が一通り揃っていきましたが、「清水さま」は自ら商売から手を引いてそれまでの収益で田畑を買い、今日で言うところの地主になりました。
 地主になってからの「清水さま」は市内の柳橋に豪邸をかまえていたそうですが、その後、新潟市に引っ越して市内には居住されていません。
・交通網の変化
 このように横町に店舗が増えていった大きな理由の一つは、かつて、すぐ近くに刈谷田川が流れていて、商売を行うのにこの一帯が適していたためです。
 暴れ川である刈谷田川は氾濫や改修で幾度もなく流れを変えています。現時点(2005年11月)で最後の大改修前までは、もっと東寄りに流れていました。
 その当時は米善商店の裏がすぐ土手で、土手は横町の通りに沿うかたちでのびていました。現在の今町タクシーや消防団の分遺所の付近は川底で、今日の原山化成の倉庫(旧双葉製作所)の付近は左岸でした。
 ちなみに旧中之島町と見附市の境界線は当時の刈谷田川を境に引かれたため、改修後も原山化成の倉庫の付近の土地は右岸になったにかかわらず、旧中之島町に属していました。そして、旧中之島町の合併後もそのまま長岡市になっています。
 下の写真は米善商店の裏の通りです。ちょうど道沿いに土手があって、火の見やぐらの立っている付近が川底だったわけです。
 横町の通りは最近この写真の手前に新しくできた道路にあわせてさらに広げる計画があるそうですが、そうなると、この大変見栄えのする商家が残るかどうかとても心配です。
・戦時中の統制経済と火災を乗り越えて
 分家した後の米善商店は作った醤油を持って農村を回るところから始めて発展を遂げ、戦前には県下有数の味噌・醤油の製造業者に躍進を遂げました。販路も一時は海外への輸出へ広げるまでに至りました。
 そんな米善商店に大きな打撃を与えたのが戦時中の統制経済です。材料となる米が配給制になったのを皮切りに、材料がすべて割当てになり、ついには商品の醤油そのものが配給制になって自由に商売できなくなってしまいました。
 戦後になり統制経済も解け、これで自由に商売ができると思った矢先に、昭和24年に火事が起きて工場が焼けるという不幸に遭いました。このときは本気で商売をやめようかと思ったそうです。
 でも、思い直して他店への卸を止め、自宅で作った商品の小売に専念することで商売を再開し、今日に至っています。
今日は、どこの老舗でもそうですが大店舗との競争が大変だそうですし、それに味噌や醤油の需要自体が減って困っているそうです。また、何を買っても醤油や味噌が付いてきて、それ自体を単独で買う機会が減っているのも大きな脅威とのことです。
 それでも後継者にも恵まれましたし、多くの熱心なファンにも支えられているので、できればいつまでも商売を続けて行きたいとのことです。

 最後にインタビューに応じていただいた清水忠子さんをはじめ、ご多忙な中取材に協力していただいた米善商店のみなさんにこの場を借りて篤くお礼を申し上げます。
<取材 2005年11月5日 米善商店にて> REPORT by TAKAI 
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