アドビがついにフル機能のiPad版「Photoshop CC」を開発し、Adobe MAX 2018でデモを披露したことは大きな注目を集めた。
30年間にわたりPC(Windows/macOS)にだけ提供されてきた本当のPhotoshopが、ついにモバイル向けにも提供されることは、テクノロジーの進化という観点でも注目に値する。
だが、いまAdobe MAX 2018の一連の発表を振り返ってみると、本当にアドビの未来にとって重要な発表だったのは、iPad版Photoshop CC「ではなかった」。ここ数年、順調に売り上げを伸ばし続けているアドビの業績に一層の影響を与えそうな発表が、Photoshopの背後で静かに行なわれていたからだ。
その製品の名前は、「Project Aero(プロジェクト・エアロ、開発コードネーム)」。ARコンテンツを作成する新しいソフトウェアだ。
前年度比20%超で伸び続けているアドビの売上高を支えているのはCreative Cloud
ここ数年のアドビの財務状況は、正直言って「何か魔法でも使ってるのでは?」とでも言いたくなるぐらい、レガシーなソフトウェア企業としては順調すぎるほど順調だ。
2015年度(会計年度、以下同)は47億9551万ドルだった売上高は、2016年度には58億5443万ドル(前年度対比22%増)、2017年度には73億150万ドル(前年度対比24%増)と、ここ数年毎年20%を超える売上高の上昇を実現している。アドビぐらい歴史があるソフトウェアメーカーで(創立は1982年だ)、こんなに急激な売上高の上昇を実現している企業はほとんどないだろう。
こうした状況を背景に、2015年の1月には70ドル前後だった株価は、2018年10月26日(現地時間)の終値で245ドル前後まで上昇している。
アドビが「絶好調」である魔法の種は、ビジネスモデルの大胆な転換にある。
アドビの2017年度の売上高(約73億ドル)の中で、6割近く(42億ドル)を占めているのが、デジタルクリエイター向けの売り上げだ。そのうち40億ドルが、同社のサブスクリプション型クリエイターツール「Creative Cloud」由来の売り上げになる。
アドビは2013年にCreative Cloudを発表し、それから長い時間をかけてクリエイターに移行を促してきた。それ以前のアドビは、PhotoshopやIllustrator、Premiere Proといったクリエイター向けのソフトウェアを「箱売り」する企業だった。
箱売りモデルの場合、バージョンアップ時には一時的に売り上げが増えるものの、そうではない通常時には売り上げが増えないという、恒常的な課題を抱えている。それを変えたのが、月額課金である「サブスクリプション」型のビジネスモデルだ。サブスクリプションモデルでは、バージョンという概念がほぼなくなり※、メーカー側は常時細かな改善とアップデートをし続け、クリエイター側も使いたい期間だけ契約して使うようになる。
※実際には内部管理用にバージョンは依然としてはあるのだが、販売という観点はなくなるという意味
今後のアドビのビジネスに「Project Aero」が最重要な理由
Project Aeroのデモ。Photoshopで作成したPSDファイルのレイヤー構造に奥行きをもたせることで、ARコンテンツをつくることもできる。クリエイターからすると、使い慣れたPhotoshopがARコンテンツ作成ツールに代わるわけで、コンテンツ制作人口を増やす意味で大きなインパクトがあるアプリといえる。
今年のAdobe MAX 2018において、アドビは今後Creative Cloudで来年提供する3つの新アプリの開発を表明した。それが「iPad版Photoshop CC」、「Project Gemini」(プロジェクトジェムナイ、開発コードネーム)、「Project Aero」(プロジェクト エアロ)の3製品がそれに該当する。
通常アドビの新アプリケーションの開発サイクルは、前年のAdobe MAXで開発意向表明が行なわれ、翌年のAdobe MAXでそれが製品として投入され、Creative Cloudの契約者向けに提供が開始される流れになっている。既に製品名も明かされた「iPad版Photoshop CC」はそれよりは早い可能性が高いが、「Project Gemini」や「Project Aero」は来年のアドビ MAXあわせの製品である可能性が高い。
そうした中で、筆者がビジネスとして最も注目すべきだと思うのは、Photoshopではなく、「Project Aero」だ。
アドビ上席副社長兼CTO(最高技術責任者) アベイ・パラスニス氏は「Project AeroはPhotoshop CCやDimension CCといったアドビのツールを使っているクリエイターに向けたARツール」とProject Aeroの存在意義を説明する。
アドビ上席副社長兼CTO(最高技術責任者) アベイ・パラスニス氏。
実はこれまでのVR/ARを作成するツールというのは、どちらかと言えばクリエイター向けのツールというよりはプログラマー向けのツールという側面が強かった。それに対してProject Aeroではパラスニス氏がいうように、Creative Cloudを利用してコンテンツを作っているクリエイターでも、ARコンテンツが作れるツールを意識している。
例えば、Adobe MAXのデモではPhotoshopで作成したレイヤー分けされたイラストに、奥行きデータを付加して立体として扱うというデモが行なわれた。また同じようにCreative Cloudのソフトウェアの1つで、3Dデータを作成するDimension CCで作成した立体データを、Project AeroでARとして活用するデモも披露した(下記写真)。
これなら、PhotoshopやDimension CCでデータを作るのになれたクリエイターであれば、Project Aeroを利用して簡単にARコンテンツを作成することが可能になるだろう。
「B2B向けARコンテンツ」の爆発的普及を狙い撃ちする
アドビのパラスニス氏はこのProject Aeroを「ARの大衆化」という言葉で表現したが、これはまさにProject Aeroの特徴を一言で言いあらわしている。
今後ARは、爆発的にその市場を拡大していくと見られている。VRが主にB2Cが中心になると考えられているのに対して、ARはB2Cだけでなく、特にB2Bが拡大していくと考えられている。例えば、エアラインの整備士用の整備マニュアルがARになり、ARメガネをかけて飛行機の整備を行なう、というようなニーズだ。
そこで起きてくる課題は、「ARコンテンツを誰が作るのか」という点にある。ARコンテンツを作れるクリエイターがあまり多くないことは、ARの普及にとって、いわゆる「鶏と卵」の関係にある。コンテンツが増えないからデバイスも爆発的には売れない、そしてARのデバイスがなかなか普及しないからARのコンテンツが増えないという状況にある。
そうした時に、プログラマーとクリエイターの両方の素養を備えた人はあまり多くないかもしれないが、既にCreative CloudでPhotoshopやDimension CCになれているクリエイターならごまんといる。
そうした人達が一斉にARコンテンツを提供できるようになったらどうなるか。まさに鶏と卵の、「鶏」が爆誕する可能性を秘めていると筆者は思う。
Project Aeroの持つ爆発的な可能性は、まさしくにそこにあるのだ。
(文・笠原一輝、写真・伊藤有)