親に対して性善説と性悪説のどちらで臨むべきか? - 北海道男児置き去り事件から
ほんとうに、ほんとうに、無事でよかったね。(写真:Rodrigo Reyes Marin/アフロ)
北海道七飯町で7歳の男児が山中に置き去りにされた事件は、6日後に無事発見されるという最善の結末となりました。
しかし、二転三転した親の主張が物議をかもしました。
世の中には、子どもを故意に捨てる親もいれば、殺す親もいます。
親の主張は、どこまで信頼してよいのでしょうか?
男児の親はどう主張していたか
当初、親からは「山菜採りをしていて迷った」と警察に届け出がありました(以下、固有名詞にはあまり意味ないと思うので、伏字にしています)。
北海道・七飯町の山林で山菜採りをしていた小学2年生の男の子が、28日から行方不明となっていて、捜索が続けられているが、まだ発見されていない。
28日、七飯町の山林に、両親と姉の3人とともに山菜採りに入り、行方不明となっているのは、北斗市の小学2年・●●●●君(7)。
ところが、「しつけ」のために置き去りにしたこと、しかも2回にわたって置き去りにしたことが、後に判明しました。
駒ケ岳山麓で遭難したとされる●●小学校2年の●●●●君(7)が、親のしつけで山林に置き去りにされた際、2度にわたって車から下ろされた可能性があることが分かった。父親は取材に対し、「(2回目は)追いかけて来なかった」などと話している。
「しつけとしても度が過ぎている」という意見は、多数見られました。
また、「置き去りにした」でさえないのではないか、意図的な遺棄あるいはソレ以上のことであるのでは? という懸念を持っていた人々もいました。私もその一人でした。
とにもかくにも、無事でよかったです。
虐待を疑わないのが無理
子どもに暴力を加え、あるいは食事などを与えず、負傷させたり衰弱させたり、場合によっては死なせたりする親が実在することは、現在の世の中で広く知られています。
このような親たちが警察や消防署に連絡するときの第一報は「自分たちが殴った」「自分たちが食事を与えなかった」ではなく、たいていは「急に具合が悪くなった」「今朝起きたら死んでいた」といった内容です。それでも連絡するだけマシなのでしょう。数十年にわたって隠し通される場合もあります。
今回のケースでは、クマも出没する山中への置き去りでした。
「置き去りにした」だけで、既に行き過ぎであることは間違いありません。
親と子どもの遭遇する困難に数多く接していると、
「もしかして子どもを殺める意図があったのでは? あるいは既に殺して山中に遺体を放置してきたのでは?」
という可能性が、残念ながら、脳内に自動的に湧いてしまいました。その中で私は、
「今はとにかくお子さんの無事を、親御さんを信じよう」
と……かなりの努力をしたことを白状します。
今回のケースが、そのような事例でなかったことに、私は心からほっとしました。
親による最初の届け出が「山菜採りで迷った」と嘘を含んでいたとしても、無事に生還してほしいから警察に自ら行ったのでしょう。
虐待を疑いすぎることも問題
それでは、虐待する親も「愛情ある善意の親」を装う事実があるからといって、親に対して性悪説で接すればよいのでしょうか?
虐待の可能性のある親からは、子どもを積極的に引き離し、里親や社会的養護のもとに保護すればよいのでしょうか?
親が知的障害者や精神障害者である場合、「虐待した」「虐待するおそれがある」という理由で児童相談所が子どもを取り上げてしまう事例は、数多くあります。
根拠とされている事例は、精神を病むに至った経緯(夫からのDVなど)があっての精神症状(うつ状態)であったり、その精神症状によって一時的に「ネグレクト」と言われてもしかたのない状況に陥っていたことであったり、あるいは病名そのものであったり、さまざまです。
これらの例では、虐待の疑い、あるいは、まだ起こっていない虐待の可能性によって親子を引き離されているわけです。
その後長年にわたり、親子の両方が傷つき続け、数多くの機会を奪われています。
絶対に虐待しない親も、絶対に虐待する親もいないことを前提に
健常な親も含めて、「常に愛情100%」「常に悪意100%」ということはありえません。
親自身の考え方や努力の問題でどうにかなるとは限らず、親自身の置かれた状況が影響することもあります。
「どの親も不完全な育児しかできない」を前提に、親と子がつつがない日常を営みながら子どもが育って教育を受けられるように、社会的支援が設計される必要を感じます。
しかし、何もかもが足りません。「保育園が足りない」は、現在、育児に対する社会の理解や支援が不足していることの氷山の一角に過ぎません。
個々の事例に対する即効薬や近道はない
「性善説でも性悪説でもなく」とは言えるものの、個々の事例に対して、どう考え、どういう対処が必要なのか。
正直なところ、即効薬的な何かは思い浮かびません。
ただ、日本で当然とされてきた「家族」「親」「親子関係」というものに対し、
「それで良かったのだから、そこに戻るべき」
「それは悪かったものだから、解体すべき」
のどちらかで捌いても、あまり意味はないでしょう。過去の日本の家族・親・親子関係は、日本文化や日本の歴史と無関係な部分も含んでいました。生き物としての・生き物が作る社会としての「家族」「親」「親子」を、完全に日本のこれまでと切り離すことは原理的に無理です。
いずれにしても、何か「良い」とされてきた既存の何か、あるいは「良さそう」な既存の何か、から計ることは、ポジティブ・ネガティブとも、あまり意味があるとは思えません。
迂遠ですが、
「今、この子・この親・この家族が幸せにあるためには?」
を、
「この子・この親・この家族にとっての幸せとは?」
から考え続けて、数年先、数十年先を変えていくしかないのではないか、としか思えません。
このように考えれば、親に対する「性善説か、性悪説か」は、あまり意味がないということが分かります。
状況も世代も異なる人々の「自分たちはこうだった」も、現在イマイマの当事者たちに役に立つとは限らず、単に押し付けがましいプレッシャになるだけかもしれません。
拠って立つべき主義主張がたった一つだけあるとしたら、「子ども中心主義」でしょうか。
子どもという当事者を中心とした「当事者主権」と言い換えてもかまいません。
さしあたっては、一つ一つの出来事から投げかけられる「考えてみては?」というメッセージを大人たち一人ひとりが受け止め、考えつづけていくことしかできないのだろう、と思います。