行ってみなくちゃ始まらない - 沖縄「慰霊の日」に寄せて

戦争によって失われた人命・モノ・コトが言葉通りの意味で元に戻ることはありません。(写真:アフロ)

なんとなく罪悪感、行けなかった沖縄

1963年生まれの私は、1970年、戦前世代の教員たちが中心となって手探りで教科教育の現代化や戦後民主主義教育に取り組んでいた福岡県で、小学生になりました。

夏になれば繰り返し教えられたのは、戦争の悲惨さであり、長崎の原爆であり、沖縄戦でした。

長崎で原爆被害を受けられた方々の相当数は、福岡県に避難して治療を受けていたようです。終戦時に物心ついていた世代の人々からは、長崎から避難してきた人々の気の毒な様子についての話を聞くこともありました。広島の原爆が忘れられているわけではないのですが、地理的に、長崎の原爆が思い起こされて語られることの方が多かったです。

沖縄戦は、「沖縄の犠牲によって九州本島が守られた」という話とともに語られました。

やがて1972年、私が小学校3年の時に、沖縄は本土復帰。しかし「やっと日本に戻れてよかったね」という話ではないことは、子ども心にも、なんとなく理解できました。

実家に毎日届いていた「西日本新聞」の特集に、沖縄の小学生の詩が掲載されており、その詩では本土復帰への当惑が生々しく語られていました。私とあまり年齢の変わらない人が、そんなことを考えなくてはいけない状況に想像が至らず、なんともいえない「もやもや」した感じが残りました。

大人になっても、沖縄に「遊びにいっていいところ」という感覚を持つことはできませんでした。

2010年、46歳の沖縄初体験

2010年、図書館業界の小さなイベントが那覇市で開催される機会に、私は沖縄を訪れてみることにしました。

地域の事情がよくわからなかった私が予約したビジネスホテルは、歓楽街・松山の真ん中にありました。怪しそうな風俗店が立ち並び、客引きのお兄さんが立ち並ぶ様子に驚きはしましたが、お兄さんたちも、風俗に従事していると思われるドレスのお姉さんたちも、車椅子の私に大変親切にしてくださいました。

車椅子の転倒などトラブルめいたことがあったときの、サラリ・さっくりとした対応に、私はカルチャーショックを受けました。まるで欧米の比較的豊かな大都市にいるかのようでした。「いろんな人がいる」が当たり前になっていたのでしょうか?

一方、沖縄県内の図書館業界関係者が、私と少し会話して

「人間って、結局、いつ、どこに生まれるかで決まっちゃうのよね」

と、寂しそうに悔しそうに、ぼそりと言いました。「毒吐き」というには、あまりにも悲しい一言でした。どう答えればよいのだろうかと悩み、結局、何も答えられませんでした。その方は私の横に何分かいて、私の顔をじっと見ていましたが、諦めて立ち去られました。

福岡市近郊に生まれ育つことのできた私は、その方にとっては、最初から比較できないほど恵まれていたということなのでしょう。「おそらく、そうであったのだろう」ということは否定しません。でも、その私は何をどう答えればよかったのでしょうか? 今もときどき、思い出して悩みます。

「本土から来た人間が、安易に、同じ日本だと言ってもいいのかな? そう言わない方がいいのかな?」

と悩みつつ、那覇市の中をうろうろして市場を覗いただけで、私は2泊3日の初めての沖縄行きを終えました。

その後の沖縄と私

2011年以後、生活保護問題の取材を開始した私にとって、沖縄は避けて通りたくても避けて通れない地域になりました。数々の問題が濃密に凝縮されており、問題として激しく噴出するからこそ、問題への先鋭的な取り組みも存在する地域、と認識しています。

さらに、さまざまな出会いに恵まれ、沖縄県の各地で粘り強く続けられる教育と文化への取り組みの数々、厳しい経済状況の中でコツコツと続けられる福祉の取り組みの数々を知る機会を得ました。

また、恩納村文化情報センターが2015年4月にオープンする以前の準備段階から、数度にわたって寄らせていただく機会を得ています。オープン後の1年間は3ヶ月に1回、その後の展開のようすと課題の変化を、見て聞かせていただいています。今後も「半年に1回のペースは維持できれば」と思っています。

さらに昨年からは、機会があれば、滞在中に1日程度は、海水浴やマリンスポーツなどのレジャーを楽しむようになりました。レジャーもまた、沖縄の重要な一側面です。楽しめるメニューは限られていますけれども、水泳が比較的得意な私は「水に入ってしまえば、こっちのもの」、健常者に比べて「できない」を意識する必要はなくなります。

余談ですが、沖縄のリゾートホテルのプールで、監視員のお兄さんにクロールを「きれいですねえ」と褒めてもらったのは、ちょっと嬉しいできごとでした。私の下半身が全然推進力になっていないことには、気づかれなかったようでした。

とにかく、沖縄に行こう

現在の私は、

「本土の人間としては、ここで楽しむなんて」

などと奇妙なストイシズムを発揮するより、ちゃんと対価を払って楽しみ、スタッフにお礼を言い、挨拶に毛が生えたくらいの会話なら可能な関係を築き、そんなところから少しでも沖縄という地域や人々を少しでも理解する糸口を増やしていけばよいのだ、と思っています。

どのみち、容易に理解できる地域ではなく、容易な理解も解決もできない数多くの問題が存在する地域です。

沖縄の方々の心情を含めて、

「簡単にはわからない」

を前提にして近づき、お付き合いするしかないのでしょう。たぶん、平均的な本土の人間にとっては、私も含め、一生をかけても「理解できた」と言えないであろう地域です。

しかし、行きずりの訪問者として、慎重に丁寧にお付き合いしていき、相互理解や会話の糸口を開くことは、誰にでも出来るのではないでしょうか? 一回あたりの滞在期間が2泊3日、沖縄を訪れるのが2年に1回程度でも、20年が経過すれば、概ね1ヶ月滞在したことになります。機会と時間が増えることで自然に大きくなるものは、必ず何かあると思います。

聞けば聞くほど、知れば知るほど、沖縄戦とその後の困難は「想像を絶する」としか言いようのないものです。

言うべき言葉が見つかりません。

本日、私はただ、沖縄の方角を向いて黙祷しました。それが、今の私に出来る精一杯です。

でも遠からず、また沖縄を訪れ、取材を行い、遊び、楽しもうと思っています。

那覇空港に到着するだけで、米軍・自衛隊・海上保安庁が相乗りしている空港の風景を見ることになります。

移動すれば、数多くの基地が広がる風景を見ることになります。

見て実感することの積み重ねは、いつか「理解しがたい」という感覚や「所詮は他所者」という自覚をそのままに、自分の何かを変え、接する方々との関係性を変えることでしょう。

焦らず、気長に、そういう時期が自然に訪れるのを待っています。