加害者家族という、忘れられた「被害者」たち

(ペイレスイメージズ/アフロ)

(2016年12月29日 22:45 タイトルおよび概要文などを一部変更しました)

2016年12月も暮れようとする今日、私は一人の男性が気がかりでなりません。

私は、その男性と会ったことはありません。どういう方なのか、全く知りません。たとえば、会えば会話が成り立つのかどうか、全く判断できません。しかし、今、どこでどういう気持ちで暮らしているのか、気がかりでなりません。

その男性とは、2009年の島根女子学生殺害・死体遺棄事件の加害容疑者となっている男性(2009年に死亡)の弟さんです。

そもそも、被害を「償う」ことは出来るのか?

言うまでもなく、被害者や被害者家族は、平穏な日常、将来の希望や可能性を、犯罪によって理不尽に奪われています。

加害者がどのような重罰に処せられても

「そのような犯罪の被害を受けることがなく、被害がなかった現在がある」

という意味での償いは不可能です。

加害者が心から反省と謝罪の思いを抱こうが、その家族がどのような人物であろうが、どのように最善を尽くそうが、「被害を受けることがなかった」という状態に戻ることはありません。

加害者と被害者が生まれてしまった後では、被害者に対しては怒り・悲しみ・屈辱感・喪失感などの感情に対する「せめてもの」、償いの印にすぎない償いが精一杯です。

失われた人命・健康・財産などに対して、直接の償いを行うことは、原理的に不可能です。

たとえ、殺人の加害者が死刑に処せられたとしても、被害者が生き返ることはありません。

心身を傷つけられたり金品を奪われたりしたとき、加害者が罪を問われて数年間を刑務所で過ごすことは、被害者の受けた被害に対する償いにはなりません。加害者は自由を制限され、人生における数多くの機会を失いますが、だからといって、加害者から失われるものが被害者のものになるわけではありません。また今後、被害者が被害の記憶に苦しまないことや、被害者が二度と同じような被害を受けないことに対する担保にもなりません。

財産に対してならば「お金で償う」が可能な場合もありますけれども、被害を受けた時点から償われるまでのタイムラグと多大なエネルギーにより、既に新たな機会損失が発生しています。

被害そのものを償うことは、基本的に不可能なのです。

被害者家族・遺族以上に救われない加害者家族

現在、犯罪被害者に対する救済は、まだまだ全く不十分です。また、救済がお金によって行なわれる場合には、被害者や被害者家族に「金目当て」「賠償金もらえてよかったね」といった冷たい視線が突き刺さります。被害者や被害者家族は、被害を受けた上、償われたことによって、さらに傷つけられるのです。では、償わせるために闘うことを断念すればよいのでしょうか? すると「実はそんなに大きな被害を受けたわけではないのだろう」といった詮索が突き刺さります。どこまでも救われません。

これ以上に深刻な状況に置かれるのが、加害者家族です。ある日突然、多くは自らの与り知らないところで行われた家族の犯罪によって加害者家族となり、「親として」「子として」「夫として」「妻として」「きょうだいとして」の責任を問われ、好奇の視線にさらされ、場合によっては警察の事情聴取の対象となり、メディアに追われるのです。

1980年代後半に行われた、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件では、加害者のM自身が死刑判決を受け、2008年に死刑執行となっています。4人の幼女が誘拐され惨殺されたという事件の内容、ある日突然、幼い娘を奪い去られた家族の心情を考えれば、少なくとも不自然さは感じません(日本の法定刑の内容や死刑に対する是非については、さておきます)。

しかし、加害者家族は、この事件に対し、どのような責任を負っているのでしょうか? 

「ウチの20代の息子は、ときどき家業の手伝いくらいはするけれど引きこもってて、なんだか得体の知れない動画を見てばかりいるようだ」

という状況で、同居家族であるその20代の息子に、何か出来るでしょうか? 

このようなケースでの一般的な成り行きは、本人は2次元の幻想の世界に耽溺し、そうそう思い通りにならない生身の人間の世界での犯罪には至りにくくなり、やがて長期化した引きこもりとして支援の対象となるというものです。

実数調査が可能というわけではないので、「全ケースの◯%」とは言えませんが、このような状況の青年が2次元の幻想を現実化させるかのような殺人へと至る事例は、いまだM事件に代表されています。それほど、起こりにくいということです。

「ウチの20代の引きこもり息子が、なんだか頂けない動画にふけっている」

だけで、家族が「Mのようになるかもしれない」と介入することは、多くの場合、かえって有害です。

同居している家族には、予見も予防もできません。したがって、責任の取りようはないのです。

しかしMの家族は、事件発覚直後から嫌がらせの対象となり、父親は自殺。きょうだい、さらにはイトコまでが、勤務先の退職や離婚へと至りました。

親が加害者となった時、未成年の子は?

未成年の子どもの親が加害者となって逮捕された場合、子どもは加害者家族となり、同時に、親の少なくとも一方の存在を失います。両親が加害者ならば両親を一度に、ひとり親家庭ならば一人だけの親を失います。さらに、加害者の関係者として警察の事情聴取の対象となることもあります。

親が一人も「シャバ」にいなくなり、養育者のいない子どもとなってしまった子どもは、もちろん、放置しておかれるわけではありません。子どもは多くの場合、血縁者のもとで養育されたり、児童相談所によって養育施設で養育されたりすることになります。

しかし未成年の子どもにとって、短い期間のうちに、これらの出来事と生活環境の激変を経験するということは、どれほどのトラウマになるでしょうか。基本的に、子どもに責任はないにもかかわらず、子どもは実質的に「連帯責任」を問われているに近い状況に置かれてしまうのです。

「父親が母親に対する殺人の加害者となり、後に父親が死刑判決を受けたため、被害者家族であり加害者家族でもある」という複雑な状況に置かれる子どももいます。

1988年生まれの大山寛人氏は、12歳の時に母親を失い、2年後、突然逮捕された父親が母親を殺していたことを知りました。大山氏は中学卒業後、養護施設から高校に通学していたものの、高校を中退して養護施設にいられなくなり、非行・ホームレス化・自殺未遂……と困難を重ねながら10代後半の時期を過ごすことになりました。

大山氏は、現在は社会人として自活しており、自らの体験を著書(『僕の父は母を殺した』(朝日新聞出版:Amazon書籍ページ))として出版し、この問題を社会に知らせる活動も行っています。

しかし第三者である他人は、

「大山さんには、そういう現在があるんだから、過去に辛い思いをしなくてはならず、普通の人より多くの努力をしなくてはならなかったけれども、まあ、いいんだろう」

というように考えることを、できるだけ慎重にすべきではないでしょうか?

困難から辛うじて浮かび上がった大山氏の背後には、「親が犯罪加害者になった」という突然の災難によって困難に沈められ、浮かび上がれないままの子どもたちが数百人いるはずです。

とりあえず、加害者家族を追いかけて責めることは止めよう

加害者家族に対する救済は、不十分どころか「ない」に等しいのが現状です。

とはいえ、被害者家族・遺族に対する救済や賠償が不十分な現在、それをさておいて「加害者家族にも配慮と救済を」と言うことには、本記事を書いている自分自身が迷います。もし自分が被害者家族・遺族だったら、理不尽だと承知のうえ、やり場のない怒りと悲しみを加害者家族にぶつけたいと思うかもしれません。

今の私は、幸いにも被害者家族・遺族、あるいは加害者家族のいずれでもない立場として、被害者家族・遺族および加害者家族を、「ある日突然、困難な状況に陥り、回復・再起のために配慮と資源が必要な人々」と見ればよいのではないかと考えています。また子どもに対しては、家族が被害者だったのか加害者だったのかを区別せず、年齢による「子どもだから救済」「大人だから家族の責任を取ってもらう」といった線引きもせずに救済する必要があるだろう、と考えています。

しかしながら、制度による救済を整備するのには、時間が必要です。

今すぐ、赤の他人が出来るのは、加害者家族に関心や怒りや憎悪を向けるのを止めることくらいです。

加害者家族に関する報道に関心が持たれにくいのであれば、報道は行なわれにくくなります。

赤の他人である外野が「家族として責任を取れ」と怒りや憎悪を向けたくなる相手は、家族が犯罪加害(容疑)者となったことで困難な状況に陥れられている、見えにくい「被害者」本人なのです。

被害者に直接の接点があるわけでもない赤の他人が、加害者家族という「被害者」に追い打ちをかけてよい理由はありません。

もしも保険金を受け取っているのだとしても

私が気がかりでならない、島根女子学生殺害・死体遺棄事件の加害容疑者となっている男性(死亡)の弟さんに対しては、すでに下記のような報道が行なわれています。

2人(引用注:容疑者と母親)の死後、男の弟が実家を建て替えるとともに、美容室を開業。ただ、最近になって「一身上の都合で閉店します」との紙が急に張り出され、向かいの駐車場にあった店の看板もブルーシートで覆われたという。

出典:【島根女子大生殺害】 「事故で亡くなり、かわいそうと思っていたのに…」 事件への関与浮上の男の地元で動揺広がる 産経WEST  2016.12.18 06:30

この報道を受けて、ネット空間では「弟は保険金を受け取っているのでは」「もしかしたら保険金殺人だったのでは」という見方が表明されています。しかし、もしもそうであったとしてもなかったとしても、育った地域、長年暮らしている地域に根を張って生活し生計を立てていた弟さんの、生活と生計の基盤が成り立たなくなっているのです。「やましいところがないのなら、堂々としていればよい」というのは、地方の地域社会や世間を知らない方の暴言です。

弟さんはこれから、どこでどうやって暮らして行くのでしょう? もし、弟さんが美容師免許を持っていて「手に職」であるのだとしても、いつメディアがやってきて周辺の人に取材を試みるか、警察が近隣にやってきて聞き込みを始める分からない状況が、今後いつまでともなく続くわけです。それでは、安定した就労も難しくなるのではないでしょうか? ネット上では「その保険金で被害者遺族に賠償をしろ」という意見も散見されますが、それより、ご本人の安定した今後の方が重要です。賠償し、就労継続が困難な状況で、預貯金を使い切ったところで生活保護しかなくなる成り行きが好ましいとは、「保険金を受け取っているのなら賠償を」と主張される方も、お考えにならないでしょう。

もしかすると、この弟さんは共犯者なのかもしれません。加害容疑者であるお兄さんとお母さんの事故死は、保険金のための何かであったのかもしれません。でも、そんな可能性は、警察がとっくに考えているでしょう。接触して捜査することは、警察に任せておけば充分です。

弟さんに、さらにご家族がいるとすれば、なおさらです。いないのか報道されていないだけなのかは分かりませんが、現在のところ、弟さん自身のご家族の存在は明らかにされていません(このままであってほしいものです)。

一般の市民に出来る最大限のことは、もしも身近に弟さんご本人がいて「その人である」と知っても、知って知らないふりをし、ふつうのお付き合いをし、あるいは、ふつうに無関心にすれ違い、そのことによって新たな被害や被害者を生み出さないようにすることであろうと思われてなりません。

この事件の加害容疑者の弟さんは、今、まったく心の休まらない状況にあることでしょう。

どうか、少しでも落ち着いた環境で年末年始を送られますように。少しでも、美味しいと思って食事ができますように。夜、少しでもよく眠れますように。

一人の赤の他人として、心から願います。