大学内部の不祥事対応は、なぜ、不可解な結果になってしまうのか?

大学が「希望」につながる何かであり続けるため、何が足りないのでしょうか?(写真:アフロ)

大学でのパワーハラスメント疑いや研究不正疑いと、検討結果に対する大学の不可解な処分が、このところ続けざまに話題になっています。

「大学なのに」でしょうか? それとも「大学だから」でしょうか?

疑問を解く鍵は、「学問の自由」と「大学の自治」にあります。

まず、記憶に新しい2つの出来事を振り返ってみましょう。

2015年11月、岡山大学で

2015年11月、岡山大学で研究不正の可能性を申し立てた2人の教授が解雇されました。

岡山大学は2016年1月13日現在、研究不正があったのかなかったのかを判断できる根拠を、世の中に提示していません。

岡山大学医学部の研究者が関わる論文31報に疑義を訴えた、同大薬学部の教授2名が、パワハラをしたとして停職処分になり、その後「岡山大学教授としてふさわしくない」との理由で解雇された(前回の記事でパワハラをしたとして解雇されたと記載したが、誤りであり訂正する)。パワハラによる解雇なら、懲戒解雇になるはずなのに、普通解雇という不可解な理由で解雇されたという。

(略)

問題なのは、研究不正の疑義を申し立てた、という理由で解雇されたのではないか、つまり報復なのでないかということだ。

根拠に基づき疑義を申し立てること自体は、なんら問題のある行為ではない。疑義を申し立てられたほうが、潔白を証明できればそれでいい。

しかし、その行為をもって「教授にふさわしくない」などと言われ解雇されるならば、論文に対する健全な批判すらはばかられてしまい、科学の発展は阻害されてしまう。

出典:Y!ニュース:炎上岡山大学~研究不正疑義申し立てた教授が解雇される(榎木英介)

2015年11月より取材を開始していた片瀬久美子氏によれば、岡山大学に対して資料の開示請求を行っているものの、必要な資料を開示してもらうまでに大変なご苦労をされているようです。

しかも、肝心の研究不正の有無に関する事実関係は「何一つ」といってよいほど明らかにされないまま、解雇処分が行われています。

参考(片瀬氏のブログより):

warblerの日記: 岡山大学の法人文書部分開示決定通知書に対する異議申し立ての内容

warblerの日記: 研究不正を内部告発した教授らに大学が解雇処分の判断

学内で行われている研究不正など不適切な行為について内部および外部への告発を行うことは、禁止されていません。

逆に、告発者に対して告発したことをもって不利益待遇を行うことは、文科省のガイドラインによって禁じられています。所詮は、強制力のないガイドラインですが。

告発されても「わーたーしーはーやってないー 潔白だ(古いネタですみません)」なら、榎木英介さんが記事で書かれているとおり、調べてもらって潔白を明らかにすればよいだけの話。

しかし、告発内容の事実関係をちゃんと調べたのかどうかも明らかでなく、研究不正があったかどうかも明らかでなく、でも告発者の処分は何がなんだか良くわからない理由で行われてしまったという話です。

職を奪うのは、職員に対する死刑のようなものです。簡単に行われるべきではありません。

もしかして、「懲戒解雇から罪を一等減じて普通解雇にしてやった」は「死刑ではなく無期懲役にした」なのでしょうか?

「落し物を警察に届けたら、警察官が着服し、自分が嘘つきということにされた」

よりも不気味な話です。

2015年12月、山梨大学で

2015年12月、山梨大学は、部下の助教に対して2010年~2014年にわたってパワーハラスメントなど不適切な行為を繰り返していた50代教授に対し、助教が申し立てた事実をほぼ認め、教授に対して処分を行いました。しかし処分の内容は、「減給半日」というものでした。事実上「罰していない」に近い内容です。

以下、法律家の見解を紹介した報道です。

「一連の行為について、この教授は法的責任に問われる可能性があります。(略:同様の判例に)『違法な公権力の行使である嫌がらせに該当する』とされたものがあります。同裁判例においては、国家賠償法上の責任が肯定され、また場合によっては教授個人の不法行為責任が生ずる余地がある旨を判示しています。

 そのため、本件においても、被害者である助教は、国に対して賠償請求できると考えられます。また、教授に対しても、不法行為に基づく損害賠償を請求できる可能性があります。

(略)

教授の行為は、故意に第三者の心身にストレスを与えてノイローゼなどの体調不良に追い込んだとして、傷害罪(刑法204条)などに該当する可能性もあります」

(略)

「本件のような悪質性が高く、重大な結果が発生していると思われる教授の行為について、平均賃金の半日分の減給という懲戒処分が妥当かについては、疑問が残ります。

(略)

 人事院の懲戒処分の指針では、処分量定の決定に当たっては、非違行為の態様および結果を考慮する旨を規定しています。

(略)本件のようなケースにおいては、停職などのより重大な懲戒処分であっても、決して不当ではないと考えられます」

「(注:民間企業であれば)同様の事実関係であれば、当事者が『会社の従業員と、パワハラを行う上司』であったとしても、従業員が上司および会社に対して、損害賠償請求などを行える」

出典:Business Journal 2015.12.26 企業・業界 山梨大教授、妊娠女性を強制労働・流産…医師の安静指示を無視、大学は大甘処分

大学はそもそも「治外法権の地」であることを理解すべき

いずれのケースでも、大学の外での法・ルール・モラルといったものに照らせば「はぁ?」という成り行きとなっているわけです。

組織としての大学が、あるいは個々の教員が、法・ルール・モラルに照らして問題のある振る舞いをしたとしても実質的に許されています。

問題ある振る舞いに対する言挙げは可能ではあります。刑法上の被害として警察に訴えること。あるいは(同時に)損害賠償訴訟を起こすこと。

その前に「ダメ元」で文科省に申し入れをすることも「やってみる価値がないとはいえない」かもしれません。

解雇された岡山大の2名の教授・山梨大でパワハラ等の被害を受けた助教は、法的手段に訴えれば勝てる可能性は少なくありません。少なくとも「完敗」はありえないでしょう。

しかし、判決確定までに、どれだけのコストと時間が必要なのでしょうか。

その間、研究キャリアは進まないままです。もしも将来、研究を再開できたとしても、多大なブランクというコストを一方的に支払わされる、というわけです。

完全な「やり得」「やられ損」の世界です。まるで治外法権の地、です。

なぜ、こうなるのでしょうか? 大学が「治外法権の地」だからです。

より穏やかな言葉で言い表わせば、「大学の自治」があるゆえです。

「大学の自治」と「学問の自由」の深い関係

「教授会」を中心とした「大学の自治」は、大学内を「なんでもあり」の世界にするために重要視されてきたわけではありません。

大学を、世俗の権力・宗教の権力が及ばない領域にしておかなければ、学問の自由を守ることができないからです。

人文科学・社会科学・自然科学を問わず、科学の歴史は世俗や宗教の権力との闘いでもあります。

自然科学(手っ取り早く言えば「理工バイオ系」)を「産業振興と国の稼ぎに貢献する学問」と認識している方は多く、それは事実ではあります。かくいう自分も、かつて半導体分野の企業内研究者。世の中に求められそうなものを生み出し、その結果が社会に活かされる恩恵に自分自身もあずかるフィードバックは、それはそれは楽しいものでした。

しかし自然科学は、人間に世界観の転換や、これまで考えなくてよかったことを考える面倒臭さや、過去になかった脅威や……といったものをもたらしつづける存在でもあります。

「世界観の転換」一つとっても、たとえば「地球が太陽のまわりを回っている」が明らかになり、世の中の誰もが知っている公知の事実になるまでに、科学者が何人死んだり拷問されたりすることになったでしょうか? 科学は、巨大な権力であった中世カトリック教会とも教会を支持する世俗の権力とも闘い続け、少しずつ、じりじりと、科学と社会を前進させてきたのです。

このような学問の営みのために、大学が「学問の自由」を守れる場であるために、「大学の自治」が確立され、維持されてきたのです。

現在も残る「教授会」は、その名残です。

皆さん、「学問の自由」と「大学の自治」がなくなってもいいんですか?

少子化の進む日本で、ビジネスモデルとしての「大学」が破綻していることは、もはやミエミエすぎです。

ならば、世の中に求められるものをタイムリーに提供しつづけて独自ビジネスで運営を続けられる大学、イノベーションを起こしつづけて社会を熱狂させる製品を次から次に提供できる大学が増えればよいのでしょうか? そんなことはありません。

モノになるかならないか、モノになる可能性が高いかどうかと関係なく幅広く研究費の「バラマキ」を行ってきたことこそが、日本の研究を全体として進展させる結果を産んできた可能性は高いのです。このことは、鈴鹿医療科学大学学長・豊田長康氏がブログ「ある医療系大学長のつぼやき」で繰り返し発信し続けているところです。

そもそも「産業での実用化につながる研究」、言い換えれば「カネになる研究」をすることは、大学の役割なのでしょうか? 儲かる可能性があるなら、産業界が率先して自社や自分たちの業界のプロジェクトでやるでしょう。

なぜそれが「大学の役割」ということになりつつあるのでしょうか? 

社会にとって、大学とあまり縁が深くない方々も含めた社会のあらゆる人々にとって、本当に良いことでしょうか?

すべての人が、産業界にも大学にも使われる税金を納得して支払い、その結果に一定の納得をすることができるようであってほしいと私は思います。

とりあえず人事の話は、誰にでも分かります。

この2つの、大学の「なんだかなあ?」人事から、「自分たちの社会の問題」として大学に視線と関心を向け続ける方が増えることを願います。

今のところ、「学問の自由」「大学の自治」は、主に大学に関する問題です。

でも大学の問題を通じて、すべての人に関係する問題です。

まかり間違っても、国立大学が国費で「なんでもあり」の国営伏魔殿を作るために「学問の自由」「大学の自治」があるわけではありません。国費による収入比率が異なる私学でも同じことです。

大学の役割は何であり、なんのための「学問の自由」であり「大学の自治」なのかを考えて体現しつづける大学や大学人が増え、大学人と一緒に考える市民が増え、市民が一緒に考えることを歓迎する大学人が増えることを、大学の中(現在、社会人大学院生)と外(一市民かつ職業人)から、心より願います。