「貧困女子高生」問題に関する私見

どこまで貧困なら「充分に貧困」と認められるのでしょうか? (写真:アフロ)

熱を込めて用意してしまったコメント原稿

熊本市で被災の現場・被災者支援の現場を訪ね歩いていたとき、毎日新聞の記者さんから

「NHKの番組で紹介された『貧困女子高生』が、実は貧困ではない、というバッシングの対象になっている」

という件で、コメント依頼を受けました。私のコメントは、

毎日新聞;NHK「貧困女子高生」に批判・中傷 人権侵害の懸念も

に掲載されています。

取材と取材の合間を縫ってのやりとりを、端的にまとめてくださった記者さんに、感謝申し上げます。

コトがコト、巻き込まれたのが高校生女子であるゆえに、私は移動の合間に、熱の入ったコメント原稿を用意してしまいました。それは、新聞記事のコメントに収まるようなサイズではありませんでした。

本記事では、そのコメント原稿の再編集という形で、この「ホントに貧困女子高生?」問題についての私見を述べます。

「炎上」するネット社会のありようについて

積極的に言いたくはないであろうことを、あえて顔を出して発言した女子高校生に対して、映像に映り込んだペンのセットや本人のSNSでの発言から、「貧困ではない」という決め付け・中傷が行われてしまいました。

ネットの功罪は、評価の難しいところですが、もしも「罪」が大きいとしても、もうネットのない時代に戻ることはできないでしょう。

いわゆる「炎上」では、多くの場合には過激で恥すべき行為が推奨されエスカレートします。

これは「2ちゃんねる」が数多くのユーザーを獲得して拡張していった時期から問題視はされていました。しかし「2ちゃんねる」は、クリエイティブな行為や、同じ困り事を持つ人々の相互の助け合いを支える場でもありました。「2ちゃんねる」の数多くの掲示板のうち、ごく一部でのことではありましたが。

また「#保育園落ちたの私だ」など、過去になかったタイプの社会運動の契機ともなっています。

STAP細胞問題も、「Nature」誌の査読システムがなしえなかったチェックを「ネット査読」が事実上代行し、早期に不明点を明確化した経緯があります。「学術と社会の関係のあるべき姿は」と問うまでもなく、学術界の中での判断や個々の行為を、社会全体がネットを通じてチェックしているわけです。いつもチェックしているわけではなくても、チェックしようと思えばできる状況にあるわけです。

良くも悪くも「閉じた世界の内側だけで済ませる」が出来なくなったということは、どちらかといえば害より益のほうが多いのではないでしょうか。

ところが、ネットから湧き上がる「炎上エネルギー」は、いつもいつも、その問題について責任ある人や組織に向かうとは限らず、むしろ最も矢面に立ちやすい、弱みを持つ人に向かってしまいがちです。

STAP細胞問題でも、笹井芳樹さんの自死につながりました。

笹井さんは、中間管理職的なお立場にあり、件の論文の共著者でもあり、STAP細胞を積極的に押し出していこうとされていました。もちろん、笹井さんに責任が全くないわけはありません。

しかし組織内の不祥事の責任は、最終的にはトップにあります。理研の幹部や、日本の科学政策の中枢、場合によっては政権かもしれません。ネットの「炎上エネルギー」は、そういったところには決して向かわないのです。

これは「ネットだから」「ネット民だから」ではなく、極めて単純な問題ではないかと思います。

傷の入っていないゴムは伸ばしても簡単には切れませんが、傷が入っていれば、伸ばせば簡単にそこから切れます。

ピンと貼られたポリエチレンフィルムは、指でつついたくらいで簡単には破れませんが、小さな傷があれば、そこから簡単に破れます。

今回、ネットで「炎上」が起こり、その「炎上エネルギー」が、立場としては最も弱い女子高校生に向かってしまいました。

起こってほしくはない出来事ですが、「ネットの自然」と言えなくもありません。

では、「ネットの自然」を認めた上で、何ができるのでしょうか?

女子高校生は貧困状態にあるのか? ないのか?

「絶対的貧困状態にはないが、相対的貧困状態にある」が正解でしょう。

話題になった女子高校生のケースでは、主に問題になっているのは

「食うか食えないかという貧困ではないけれども、友人づきあいで『同じことを同じ回数は無理』が数多くあり、進路選択など多くの費用が必要な場面では、家庭の経済状況による制約が、どうしようもなく加えられる」

という相対的貧困です。

「食うや食わずや」、生死が問題になるような「絶対的貧困(1人1日1.9ドル以下での生活(2015年、世界銀行による)」ではありません。

「貧困ではない」の証拠とされた「友人たちとのランチ」「チケットのコンサート」「高価なペン(のセット)」といったものがスポット的に存在することが、まだ彼女の状況を相対的貧困の範囲に押しあげています。それも不可能な状況になったら、バッシングした人々も、彼女を「貧困」と認めるのでしょう。でもそれは、絶対的貧困に極めて近い相対的貧困の姿です。

相対的貧困であるかどうかは、世帯の所得を「貧困線」と比較することで、一応は判断できます。

まあ、所得を持ちださなくても、充分に大変だろうとは想像つきます。母親は稼ぎ手であり、子どものケアをする親であり(高校生の子どものケアは、それほど必要ではないかもしれませんが)、いつも「なぜ、もっと稼げないのか」「なぜ、もっと子どもに目や手をかけてやれないのか」と言われる可能性のある立場にあります。そういった母親の状況は、子どもにとっても負担になるでしょう。もしも子どもに何か問題があれば、母親をめがけて突き刺される「自己責任!」の矢の数々……ああ、うんざり。

「炎上防止」「火に油を注がない」のために、何ができるか?

では、今回のような「炎上」、ネットの自然でもあるものを防止するために、何かできるでしょうか? 

大変に時間のかかる話ですが、「貧困」というものに対する理解を深めていくこと以外の正解はないと思います。

「貧困」とは何なのか? 

「機会の均等」とは何を指すのか? 何のために必要で、どこがゴールなのか?

そもそも「平等」の定義は?

こういった基本的なことがらは、そもそも何なのか。

しかも、どこかに正解があるわけではなく、時々刻々と変わる状況の中で定義も変わっていくことがらを、どう見るのか。

これまでの歴史と経緯とともに理解し考えていくことが「普通」になり、議論し、答えを出していく態度が「気持ちいい」となれば、世の中は変わっていくだろうと思います。

そのための鍵となるのは、メディア報道も含め、広い意味での社会教育です。

片山さつき氏の反応について

片山さつき氏の主張される内容は、はるか以前から、よくも悪くも首尾一貫しています。

今回報道された主張も、想定の範囲内ではありました。

「ほぼ、女子高生一人がバッシングされる」という結果をもたらしたい、とまでの考えがあったかどうかは分かりません。しかし、このような結果に対して「何としても避けるべき」という気持ちもなかったのではないかと思います。

政治家が、自分の望むような世論のためにネット空間を利用したいと望むことは、政治家の自然でもあります。そこは右も左も与党も野党も同じです。

片山さつき氏を擁護する意図は全くないのですが、片山氏の主張を牽制するために最も有効だったのは、ネット上の「えええ?」「そうなんでしょうか?」という疑問の反応多数、ではないでしょうか。発言を慎重にしていただくにあたり、反論までは必要はありません。疑問で充分です。

片山氏に、感覚的なものといえども「許される」「確実に一定の層は受け入れる」という見込みがなければ、そういう意思表示はなかったはずです。政治家ですから、「自分の政治生命に支障があるかもしれない」と思えば、慎重になるでしょう。

そのために有効なのは、繰り返しになりますが、「貧困」「相対的貧困」「絶対的貧困」に関する理解と、その理解をもとにした日本の現状の把握です。貧困は見れども見づらく、知識があって「知ろう」という気があったくらいで簡単に見ることのできるものではないのですけれども、知識と知る気は、あるのとないのとでは格段の違いです。

今の日本の貧困は「相対的貧困」だけ?

ここで話をさらにややこしくしているのは、今の日本の「貧困」が「相対的貧困」だけなのか? という問題です。

(貧困以外にも、困難の指標は数多くありますが、ここではお金で図れる「貧困」だけを問題にしておきます)

2013年以来、生活保護基準が生活費・家賃補助・暖房費・人数比……と引き下げられています。このことにより、貧困線も引き下がってしまうのです。つまり、他の世帯の状況が変わらないのであれば、生活保護基準の引き下げにより、貧困線の示す「相対的貧困」の内容が、さらに「絶対的貧困」に引き寄せられた格好となっているわけです。

生活保護基準引き下げを問題にすると、「保護基準以下で暮らしている人もたくさんいるのに」という反論が必ず来ます。生活に自動車が必須の地方で「車か、生活保護か」という究極の選択となっていまう問題もありますが、自動車を必要としなくても、さまざまな理由で、生活保護基準以下で生活している方々はいます。その方々、主に低年金高齢者の生活をせめて生活保護基準まで引き上げる制度が、まさに生活保護です。とりあえず、生活保護基準以下の年金で暮らしている高齢者の方々は、相対的貧困のうちでも、絶対的貧困に近い生活をしていることになります。

「貧困を解消しなければ」「そのために現実を捉えなければ」を社会的合意に

今の日本では、制度としても現実としても、相対的貧困と絶対的貧困が入り混じっています。

このことが、話をさらに複雑にしています。

では、どの程度の比率で入り混じっているのでしょうか? 入り混じり具合は、どのように変動しているのでしょうか?

捉えることだけでも、容易ではありません。

でも現状を捉えなければ、対策にいくら必要なのか、誰に何円を渡す必要があるのか(「現金か現物か」という議論はさておきます)、分からないまま、状況は悪化していくばかりかもしれません。というより、悪化しているのか改善しているのかも分からないままです。

日本に必要なのは、「貧困の解消は、取り組まれなくてはならない日本の課題」という社会的合意でしょう。

その合意が行われれば、「どこにどの程度の貧困があるのか」を捉え、あるいは捉えるのに必要な手段が確立され、さらに「いつまでに、どの程度なら解消できるのか」「◯年、◯%の解消に、いくら必要なのか」を見積もり、さらに「どこから費用を持ってくるのか」という財政の話もできます。

(「いつまでに」「◯%」と書いているのは、部分的・選別的な解消で良しとしているからではなく、本気で取り組んでも、100%の達成は100年後に可能かどうか、だからです)

メディアとしての「ソース保護」は?

NHKのどういう方々が、その番組を制作されたのかは知りません。

しかし、「貧困・格差・差別といった問題に対する経験の浅い方だったのかなあ?」とは思います。

また、下請け・孫請けへの外注が進んでいるのは、NHKも同じです。

もしかすると、責任を持てる立場の方がすべきことを、最終的な責任の取りようのない方がしていたのかもしれません。

「だから、しかたない」という気は、毛頭ありません。

番組を制作された方々とNHKに対しては、まずは今回の問題に関して、女子高校生ご本人とご家族が受けたダメージを回復し、特に女子高校生の今後に禍根を残さないよう、最善を尽くすことを望みたいです。

警察が本気になれば立件・捜査できるはず

「若い女性一人が、ネットで大量の人から酷い言葉を浴びせられた」

は、もう、それだけで事件性ありとしてよいのではないでしょうか。

もしも日本の公共が「あってはならない」と考えるのであれば、ですが、「刑罰に値する悪事である」とはっきりさせることが、再発防止に有効な手段の一つのではないでしょうか。

ネットの匿名性なんて、あるようで、ないも同然です。

警察は、ISPに発信元を開示させることができます。発信元をたどっていけば、発信が行われたデバイスそのものを突き止められる可能性もあります。携帯電話やスマホは、もしも警察がその気になれば、簡単に発信元を突き止めることができるものです。

女子高生を中傷する発言の発信元をすべて突き止めるのは、不可能かもしれません。

でも、ひどい中傷を行った100人のうち50人くらいなら突き止められるのではないでしょうか。

「女の子一人を、寄ってたかって、下劣な言葉で叩いたり『晒し』を行ったりするのは悪である」

という認識が常識になり、警察が動かざるを得ない状況になれば、「言いっ放し」「やりっ放し」は許されなくなります。

「中傷した」という事実が警察によって確認され、起訴され、執行猶予つきといえども有罪判決が出れば、このような行為に対する抑止力となることが期待できます。

もしも警察が、一般市民の「ふつうの生活」の安全を守るものであるとすれば、そう期待してよいのであれば、ですが。

アニメ業界に行くための「専門学校」以外の選択肢

私は以前、女子高校生と同じタイプのマーカーペンを所有していました。デザインを勉強していたり、イラストを換金していたりした時期があったので。72本は持っていなかったと思いますが。

私も、まだイラストを換金していなかったときに、「そのペン、高価いんでしょ? ゼイタク」と言われたことがあります。「飯の種だ」「イラスト2枚かけば元が取れる」と言っても、「でもゼイタクだと思う」と言われるばかりでした。マーカーペンは、自分自身の価格の数十倍のイラスト代金に変わりましたから、私としては何の不満もありません。ただ、マーカーペンを買わなければ、マーカーの効率を必要とするタイプのイラストは描けなかった。これは間違いないことです。デジタルイラストあたりまえ、になる以前の話です。

一連の話で大変気になったのは、アニメ業界に行きたい女子高校生の「(そのために)専門学校に行きたい」という希望と、今時のアニメ業界で必須とは思えない画材を所有していたことです。

正直なところ、「いいメンターがいないんだな」と感じました。

もしも本気でクリエイターを目指すのであれば、学校に行くことが必須とは限りません。

「アニメ業界」という夢が、ご本人を強く支えているのは間違いないでしょう。最終的にどうなるかはさておき、夢に向かって歩むための後押しは必要だと思います。

とりあえず、アニメ業界でなくても、ブラックでなく長く勤務できそうな会社を見つけて入り、資金を貯めながら業界を研究するとか。

いまどきのアニメ業界が新人に要求するものを知り、それを無理なく身に付けるとか。

あるいは、アニメ業界を経由せずにアニメ作家として世に出てしまうとか。今はそれも可能です。

どうか、妙な下心なしに彼女を応援する良いメンターが、彼女のまわりに、たくさん集まりますように。

「専門学校に行きたいのに行けない」という切なさは、それ自体が解消されるべき問題なのですが、高卒の就職状況やその後の状況が良好ならば、「高校までしか行けなかった」は不幸ではなくなります。

「まずは手に職、財布に収入、世の中が見えたところでさらに学ぶ(そして、さらにキャリアアップ)」

は、決して悪い選択肢ではありません。私(1963年生まれ)の世代では、「黄金コース」の一つでもありました。私もそれに近いルートをたどっています。

「昔はよかった」と言いたいわけではありません。

今の状況に合わせて、今の若い人たちの社会への接続を良好に、将来の見通しあるものにするとすれば、「まず高卒の就職からだろう」と思うのです。

最後に:「ああ、またか」だったけれど

貧困問題の報道を5年やっていると、良くも悪くも慣れが生じます。

差別・偏見をかいくぐって貧困という事実を伝えることの難しさを、いつか「あたりまえ」と感じてしまっています。

伝えるのに失敗した場合の「炎上」も、何度も見てきています。

この炎上の出来事を知った時に、私が最初に思ったことは、「ああ、またか。どうすれば発生しなくなるんだろう?」でした。

でも、私にコメントを求めてくださった記者さんの「なんとひどい!」という新鮮な怒りに接し、はっとしました。

酷い現実、酷い反応の両方に、私は悪い意味で「慣れ」てしまっていた、と。

もちろん、これまでの経験や見聞の積み重ねはありますが、その上に、「今日この時点は初めて」という当然のことへの新鮮な感受性を毎回呼び覚まして、取材に臨まなくては。

改めて、そう思い返させていただきました。

騒動が早期に収束し、女子高校生の方とご家族が生活の平安を取り戻され、しかしながら「言ったもの勝ち」「やったもの勝ち」とならない今後を、心より願います。