3.11から「経産省前・脱原発テント」撤去まで、揺り動かされながら考えたこと
社会運動にできること、社会運動にできないこと。(写真:ロイター/アフロ)
経産省前「脱原発テント」撤去
2016年8月21日、経産省前の通称「脱原発テント」、「経産省前テントひろば」が撤去されました。
撤去の様子は、「田中龍作ジャーナル」に詳しくレポートされています。
田中龍作ジャーナル:【第1報】 経産省前・脱原発テント 未明に強制撤去
田中龍作ジャーナル:【続報】脱原発テント、未明に強制撤去 「外に出たらマスコミがいた」
そこは、私が2012年冬以後、通っていなかった場所でした。
どこかで「安全神話」を信じていたと思い知った「3.11」
1963年生まれの私が物心つくと、すでに世の中では原発が動いていました。賛否両論の大人たちの中で、なんとなく、容易に語ってはならないテーマであることを悟りました。おそらく私は、20歳で出身の福岡県を離れるまで、原発については一言も口にすることがなかったと思います。
しかし私は、大学と大学院修士課程が物理学科でした。核物理学や素粒子論に全然関心がなかったとはいえ、原発が無縁であるわけはありません。物理学の基本原則に則った反原発派の主張は、説得力がありました。
大学2年だった1985年、チェルノブイリ原発事故が起こりました。電力会社等からは「日本の原発はタイプが違うから」「日本の技術力があるから」安全だ、という主張がなされました。それに対しては「そうかもしれない」とどこかで思っていました。原理的な問題はどうしようもないとしても、運良く寿命まで事故が起こらず、おとなしく解体され、その後は放射性物質を拡散させないように慎重に保管して……だったら、不可能ではないんじゃないかと思ったのです。「何万年もどうやって管理するんだ」という問題はありますが、既に動いてしまっている原発が何基もある以上、それはもう、管理せざるを得ないでしょう。
その後、私は電機メーカの半導体部門で、計算機シミュレーションの業務に就きました。手がけた仕事の中には、流体シミュレーションの応用がありました。当時、流体にかぎらず、最も進んだシミュレーションツールや安全性テストツールは、原子力・航空・自動車業界から来るものでした。事故が起こったときの社会的影響の大きさは、それらの業界でも自覚されており、事業規模が大きいことから研究開発にも資金投入が可能で……ということから、でした。
原子力界隈をメインターゲットとした流体シミュレーションツールを「すごいプログラムだなあ」と感嘆しながら使っていた私は、原発の安全神話は信じていないつもりでしたが、「実際に安全であるように」という思いと、実際に安全であるためにかける費用とエネルギーは信じられました。
ただ、「シミュレーションでカンペキだったから」は、実際に出来るモノがカンペキであることを意味しないし、ましてや東日本大震災のような想定外の事態で安全であることを保証できるわけはないんです。
それは分かっていましたが、福島第一原発事故のニュースに接した瞬間の私には、「優秀な技術者たちが、あれだけ、安全であるように心血注いでいたのに?」という驚きが、やはりありました。
しばらくしてから、「自分も、安全神話をどこかで信じてしまっていたんだ」と気付きました。自分の人生において、私は一度も原発を推進したつもりはないんですが、それでも、です。
脱原発派との噛み合わない会話
私が26年にわたって住んでいる東京・西荻窪地域は、チェルノブイリ原発事故のとき、反原発運動が大きく盛り上がった地域の一つです。その時に運動に関わった方々のごく一部は、3.11以前にも、「時間があったら、東京で行われる原発関連訴訟は傍聴する」といった静かな活動を、長年続けていたりしました。その態度と持続には、尊敬の念を抱いています。
しかし、3.11の後で声高く反原発・脱原発を語りはじめた方々とは、会話が噛み合わない、というより、会話が苦痛と感じられることもありました。
今でもはっきり覚えているのは、
「建屋の中はめちゃくちゃになっているんだから、東電の発表は全部ウソだ」
と言われたことです。
建屋の中がメチャクチャになっており、状態を正確に知ることが未だに難しい部分もあることくらい、当然、私も知っています。たとえば、そこで示される「温度」だって、どこの何の温度を測っているのか不明でしょう。当初つけた位置に現在もあって正常に機能しているかどうか、分からないわけですから(もしも単純な熱電対なら、数値を示しているなら切れてはおらず、したがって熱電対自体の機能は正常なのだろう、といった想像はできます)。
でも、事態収束のために、どこの何を測っているか分からない遠隔計測データの数々から、「こうなっているのではないか」という仮説を立て、確からしさを検証する努力は、最大限になされていたのではないでしょうか。
そもそも、原発が建てられなければ、事故も起こらなかったし、事故収束の必要もなかったでしょう。でも、今すぐ「なかった」状態に戻す魔法はありません。
実際に原発が存在し、事故が起こった以上、事故収束にベストを尽くすのも電力会社の仕事です。
そこまで否定する反原発派・脱原発派とは「会話ができない」と思いました。
東京電力は、他の多くの会社や組織と同じく、いろいろな人・いろいろな考え方を含んだ組織であるはずです(さすがに、ゴリゴリの反原発の方はおられないでしょうが)。それを無視して「東電」を「盗電」と呼ぶ方々とは話ができません。
良くも悪くも、そこが自分の限界なのだと自覚しました。
もちろん、事故収束にあたっての多重下請けの問題、労働者の被爆の問題など、個別に「それはそれ」で明確にされなくてはならないことが数多く存在します。
また、事故から5年が経過する中、現地の状況も変化しています。
たとえば、「高線量被爆を伴う決死の作業を外国人労働者にさせていた」という噂があります。時期によっては事実だった可能性について、全くの否定は出来ないとも思います。しかし高線量区域での作業は、ロボット化が進んでいます。ロボットが難なく出来そうな仕事、場合によってはロボットの必要もなく重機で出来そうな仕事を「2016年、外国人がやっていた」と言われると、やはり「えっ?」と感じてしまいます。
あってはならないことがあった可能性については、全否定でも全肯定でもなく、時期・場所・状況を丁寧に腑分けした検証が必要だと思っています。
そして「脱原発テント」の前を避けて通るようになった
2011年から2012年初めにかけ、私は経産省付近で、何回か、ちょっとしたイザコザを起こしています。相手は、反原発・脱原発の方々です。場所は、テントの周辺であったり付近だったり。
イザコザの内容は、極めて下らないものでした。
ビラの受け取りや署名を求められたとき、私は「はあ……」とためらいを示すことが多々ありました。
私のためらいの内容は
「ビラの内容の全部には賛成出来ない。署名の内容全体には賛成出来ない。今、ここで、すぐ、賛成を求められても困る。ちょっと考えさせてほしい」
でした。そのまま平和に離れさせてくれればよかったんです。
しかし、しばしば、ためらう私は、すぐに
「女性で障害者だから、命の問題であることは、もちろんよくお分かりですよね?」
のように言われて、ブチ切れたんです。
それは、「女性だから」「障害者だから」という理由で、特定の反応パターンを強制されることへの怒りでした。
相手が女性で、「わかるでしょ?」と共感を求めてくると、さらに怒りが増しました。
命の問題であること、具体的な被害が発生していることは、もちろん、よく知っています。心も痛めています。
でもそれは、私がそこで即、不本意にも署名や同意をする理由にはならないはずです。
私はそのように言ったこともありますが、相手は私が何を言っているのか理解できなかったようで、ただ言い争いになっただけでした。
私はブチ切れながら、泣きながら遠ざかりました。
なんとも、やるせない気持ちでした。
私は自分の人生を通じて、一度も原発推進であったことはないんです。目の前の相手も、そうかもしれません。
でも、相手が「女性」「障害者」を持ちだしたことによって、それ以上の話はできなくなりました。私はいきなり、怒りと悲しみとともに、そこを去ることになってしまうのでした。
2012年に入って以後は、自然に、「経産省のテントのある角は、通らずに済むようにすべき場所」という感じになっていました。
私は直接の被害を受けていません。
だからこそ、直接の被害を受けた方々と同じような感覚を「共感できる」「理解できる」と、簡単に言うべきではないと思っています。
他人様の災難であり、自分の災難ではない以上、同じように共感したり理解したりするのは、おこがましすぎると考えています。
「所詮は他人事」である立場からの最善の義理の果たし方は、災難に遭われた他人様に必要な資源が行き渡り、それぞれの方が望まれる再起や近未来が実現されることでしょう。
そのために何円が必要なのかを明確にすることは、原発のコストの一部を明確にすることでもあります。
私は、とりあえず、社会保障の問題に注力することにしました。
とりあえず日本で生活保護を底上げし改悪させないことは、被災された方も含め、資源を必要とする方に資源が渡るようにするために、最も手っ取り早く本質的な方法の一つだと思っています。
2016年、熊本地震と川内原発
私は原発推進ではないとはいえ、「今、現に動いちゃっているんだから」という理由で、結果として容認してしまっていることにはなるかもしれません。
半導体業界で通算13年、高速で回転しつづけている何かがそこら中にあったり、床の下や壁の中に毒ガスや劇薬の配管があったりする環境にいた私は、「安全に止まる(止める)」について、そういう現場を知らない人とは異なる感覚を持たざるを得なくなっています。不具合の大半は、停止と立ち上げのときに起こります。停止中・立ち上げ中は、最も危ない状況が連続するわけです。
熊本地震のとき「なんで川内原発を止めないんだ」という意見が多数ありました。当然のことだと思います。私も、その時に動いていなかったことを望みました。ヘンな言い方ですが、既に群発地震が起こり、川内原発はその前から動いているんです。これからどうあるべきかは、「今、動いている」という前提のもとにしか考えられません。
では、「今、動いている」を「今、動いていない」にするにあたり、適切なタイミングと方法は何なのでしょうか?
いつ次の大揺れが来るかわからない状況で停止動作を行うのと、自動停止が行われるまで待つのと、どっちが安全なのでしょうか? 簡単には評価できません。
九州電力の中にも「止めたほうがいい」という声があり、データを上層部に見せようとする動きがあるのかもしれません。ただ、止める・止めないは政治判断です。現場で決められることではありません。
私が望むのは、「結果として」大事に至らないことです。
では、何をどうすれば大事に至らないのでしょうか?
これからも、廃炉のプロセスでも廃棄物保管の最中にも山のように出てきそうな「想定外」を乗り越えるために何が必要なのでしょうか?
私はそういったことについて、知り、事実に基いて考え、自分なりの結論に至ってから、マイペースで声を上げたいと思っています。
「みんなで知る」は可能なのか?
私は今年2月、福島第一原発の廃炉作業現場を視察する機会を得ました。このいきさつは、記事化しています。
ダイヤモンド・オンライン:事故から5年、福島第一原発の「いま」を見てきた
この視察で、私は
「東電は『隠蔽体質』と責められているし、それは当たっている部分もあるし、問題も生んできているけれど、かといって『どういうお立場の皆さんも、どうぞ全部見てください』とは言えないだろうなあ」
と痛感しました。
「どこにどういう建物があり、どういう状態なのか」については、報道写真や空撮映像などで、かなり知ることができます。
さらに「弱点となりうるものが、各建物のどこにあり、それは何なのか」が知られたら?
最悪の場合、テロに利用される可能性だって、否定できません。
世の中には、「原発はヤバいのだということを知らせるために大事故を起こすのは正義」という考え方の方も、少数ながらおられます。
そういう方も含め「どなたでも、全部見て知ってください」というわけにはいかないでしょう。
「隠蔽体質」が良いとは全く思っていませんが、「隠蔽体質」と言われても隠蔽せざるを得ない情報は、確かに存在します。
産業界は本当に原発を必要としているのか?
生産の現場で恐れられるものの一つに「瞬停」「チョコ停」と呼ばれるものがあります。瞬時の停電・ちょっとの停電を指します。1990年台前半だと、雷雨による「瞬停」「チョコ停」のダメージは、多くの現場でリアルなものでした。
自動化された大規模生産設備が当たり前になった2000年代以後は、電力供給が途絶えることのダメージは、それ以前に比べて大きくなっています。緊急時のための自前の給電設備、場合によっては自前の発電所を持つ事業所も増えています。原発の電力にご期待いただくのではなく、「その自前の何かを強化する」という方法で備える方向に補助金で誘導するという方法もありえます。
それにしても、「電力需要のピーク時に足りなくなったら」という懸念は、アリかもしれません。
しかし、もともと、電力を多く必要とする事業所は、電力会社と「ピーク時は必要最少限度でガマンします」という協定を結んでいました(需給調整契約)。私は半導体の事業所にいた1990年代、夏の暑さと甲子園中継のピーク時、事業所に供給される電力がカットされる場面を実際に経験しています。オフィスだけの建物は、真っ先に電力カットの対象となり、空調を止められました。専用空調を必要とする計算機がトラブルにつながる高温にならないよう、扇風機の風の当て方を工夫してみたりなどしたものです。
何かが足りなければ足りないで、何かがリスク要因になりうるならなりうるで、自己責任で対処しなくてはならないのが営利企業の宿命です。
現在も「ネガワット取引」という形で、産業界も含めた節電の仕組みづくりが進められています(資源エネルギー庁資料)。
産業界にとっての電力コストや原発の要不要を考えるにあたって、「そもそも産業界が電力とどう付き合ってきたのか」は、避けて通れない背景です。そこを理解すれば、「産業界にとって原発は必要」という主張に対し、「データを見る限りでは、案外そうじゃないかもしれない」「そうかもしれないけれど、エネルギー調達のスタイルを転換する余地はあるのではないか」など、「賛成」「反対」にとどまらない、次のステップの話が出来る可能性もあるかと思います。
ともあれ、一つの原理、一つのモノサシではどうにもならないものが、日本の世の中に存在しています。
どういう考え方の人々も、日本にいる限りは付き合っていかなくてはならなくなってしまっています。
今後数万年続く「付き合い」の最初の世代としては、とにかく大事を起こさずに次の世代に渡すことが最優先でしょう。
そのために何をすべきなのか。
脱原発テントの撤去という象徴的な出来事の節目に、自ら考え始め、また考え始めたいと思う方々のために、この一文を記します。