2016年9月18日(日本時間では19日)、リオ・パラリンピックが閉幕しました。
日本が獲得できたメダルの少なさ、特に「金メダルゼロ」が問題となっています。
日本の障害者スポーツ、何が問題なのでしょうか?
日本の障害者スポーツ推進は、2012年から
私は特に、他人様であるパラリンピック選手の皆さんに「金メダル取ってほしい」とは思っていません。
友人知人が出場するのなら、その人たちの希望が叶うことは望みますけれど。
まずは、世界の舞台で戦いにくくなった背景から。
「パラリンピックでメダル獲得」は、目標にすべきことなのか?
パラリンピックの競技では、障害の程度によるクラス分けなど、障害が競技上のハンデとならない配慮がなされています。当然でしょう。障害がハンデになるんだったら、何のためにパラリンピックが存在するのかということになります。
また、障害の程度の判定は厳格に行われています。これもまた当然でしょう。「障害を重く見せかけて、より重度障害の枠で競技」が許されては困ります。もっとも、もしも万一成功されてしまったとしても、プレイぶりから「見れば丸わかり」ということになりそうですが。
しかし特にチームプレイでは、「メダル獲得」を目指した何かをする余地が、結構残っています。これは、なくそうとしても完全になくすことはできないでしょう。
たとえば、車椅子バスケットボールのルールを見てみましょう。
問題は、これで障害程度と無関係に機会が平等になっているのかどうかです。
プレイする上では、やはり障害は軽い方が有利になってしまいます。
2020東京五輪招致以前、日本のパラリンピック選手から
「メダル獲得を至上目標としている国では、『なるべく障害の軽い人を多く投入して』『同じ4.0でも、より障害の軽い人を』という意図のもとで、チームプレイ競技のチーム構成が行われることも多い」
という話を聞いたことは、1回や2回ではありません。
その時は「そういう国だからねえ」という笑い話でしたが、もし日本が同様のメダル至上主義を目指すのであれば、日本も同様の戦略を取らざるを得ないでしょう。
スポーツでもなんでも、トップレベルの競争は、必ずしも「健全」といえる環境で行われているわけではありません。
でも日本には、「とにかくメダル」なのか、それとも健全性・公正さ・機会の拡張などを目指すのか、考え直す余地があります。
冒頭の日本経済新聞記事に見るとおり、日本は「周回遅れ」なのですから、焦っても仕方ありません。
最大の問題は、障害者の「参加」にかかわるコスト
リオ・パラリンピックでは、チケットの売上が伸びず、8月まで、選手の渡航費用はどうなるのか不明な状況が続きました。
選手にとっては、費用が助成されないからといって「行かない」という選択肢はないでしょう。
しかし、選手自身は「自腹」あるいは身近な人々の援助で行けたとしても、介助者が2~3名(介助者の休息を見込んで)必要な場合はどうでしょうか? 介助者全員の分まで旅費をまかなうことは、選手自身に可能なことでしょうか?
世界大会は、パラリンピックだけではありません。遠隔地で行われる試合や大会のたびに、費用負担は大きなハンデになります。
自分で車を運転できる障害者なら、移動については、やや負担が軽くなるかもしれません。
でも、障害者仕様の自動車を入手するコストは?
それ以前に、運転免許取得のコストは? そもそも、全国どこの教習所も障害者に対応できるわけではありません。
それに、健常者スポーツでは必要にならないコストが必要になります。競技用の車椅子など。
陸上のトラック競技やバスケットボールは、健常者なら「身一つ」で気軽に始められるスポーツですが、障害者スポーツの同種目は、そうとは限りません。「床が傷つくから」と車椅子での利用を断る体育館もあります。
日本で、障害者が健常者とあまり変わらないコストで楽しめるスポーツは、水泳くらいでしょう。その水泳も「安全に関して責任を持てないので、介助者を連れてきてほしい」と言われたり、公的介助は「危ないから障害者をプールに連れて行っちゃダメ」とされたり。
さらに、競技人口の少なさ・競技できる地域の少なさといった問題が重なります。地方で機会が制約されているのは、障害者スポーツに限りませんが、障害者の場合、そもそもマイノリティですから、さらに問題は深刻です。
これらの障害によるハンデを埋め合わせる何かが、日本に存在するのでしょうか? はっきり言って、ありません。
障害年金も障害者福祉も、縮小され、使いにくくなるばかりです。
介護事業所・車椅子などの補装具業者は、既に廃業・事業規模縮小が続いています。公費の範囲が縮小されたとき、私費で支払える利用者はごく少数ですから、公費が絞られれば廃業するか縮小するかしかなくなるわけです。
日常の生活に必要な車椅子の修理や買い替えもままならなく、状況が悪化していく一方なのに、「パラスポーツの振興」? それって、マジ?
パラスポーツのアスリート、パラリンピックに出場した・出場したい・出場できる方々には、ご自分の舞台で、心ゆくまで活躍していただきたいです。
でも、スポットライトを浴びていない障害者たちも、関心を持ったら同じ競技を楽しめ、努力と工夫によって上達することができ、目指したければアスリートを目指せるようにならなくては。
「パラリンピックでメダル獲得」に足りないのは、パラスポーツ振興だけではありません。障害者にかかわる何もかもが不足しています。
「障害者のすべての者との平等」の一環として
以上は、単にパラスポーツだけの問題ではありません。日本の社会全体の問題です。
2014年に日本が締結した「国連障害者権利条約」に照らして、日本のパラスポーツの現状、スポーツを「やってみたい」と思う障害者の状況は、どうでしょうか?
以下、引用は長瀬修氏による仮訳によります。外務省の公定訳が意味不明かつ原文の内容を正確に反映しているといえないものだからです。
まず、障害とは何でしょうか?
障害とは「腕が動かない」「足が片方ない」「知能が遅れている」といったことではないのです。それらは機能障害であり、障害そのものではありません。
機能障害のある人とない人の間の関係、機能障害によって不便や「できない」を生む環境によって、機能障害は「障害」となります。
この「障害」によって、機能障害のある人は、「他の者との平等を基礎として社会に完全かつ効果的に参加する」ことのできない存在となります。
では機能障害は、機能障害のある人の周辺で、どのような「障害」を生んでいるでしょうか?
言い換えれば、障害のある子どもは生存・生育・教育に関する権利と自由を制約されており(r)、結果として、障害のある貧困な大人になりやすいのです(t)。
養護学校といえども、障害児を含めてすべての子どもが義務教育を受けられるようになったのは、1979年のことです。それ以前に学齢に達していた障害者は(概ね、2016年現在の40代以上)、義務教育も受けていない可能性があり、実際にそうです。
経済状況も含めて、「物理的、社会的、経済的及び文化的環境、保健〔健康〕及び教育並びに情報通信についてのアクセシビリティが重要」(v)なのに、きわめて不十分にしか実現されていません。紛争地・非占領地の人々にとっては、なおさらそうです(u)。だから難民政策が大切なのです。難しい課題だらけですが、日本の取組が不十分なのは、世界で有名な話です。
現在の日本のパラスポーツの状況は、このような日本の状況のあらわれの一端にすぎません。
「パラリンピックの金メダルだけ」「パラスポーツだけ」を気にかけている限り、そこだけの問題解決をすることも困難でしょう。
障害者と置かれている状況にかかわる、より根本的で広く深い問題を気にかけつづけることこそ、「パラリンピックの金メダル」「パラスポーツ」も含めて、緩やかに確実に問題を解決しつづけるための唯一の道です。