なぜ、拉致と性犯罪をテーマに? 映画【ら】・水井真希監督に聞く(前編)

どの少女にも、どの少年にも、たった一度の大切な人生を。(写真:アフロ)

現在、性犯罪とされる行為の範囲・対象・刑罰の見直しが進められている。

被害者自身にとって、性犯罪とは何なのだろう? 

自身の拉致暴行被害体験をテーマとした映画【ら】を監督した水井真希さんに、映画制作まで、そして現在までの歩みを聞いた。

(後編はこちら

中学校不登校、そして園子温監督との出会い

水井真希さんに、生まれた年を尋ねたところ、

「どちらかというと、秘密です。だいたい、30歳前後かな?」

という答えが、魅力的な笑顔とともに返ってきた。

水井真希さん(映画【ら】監督)
水井真希さん(映画【ら】監督)

関東近県で生まれ育った水井監督は、中学1年生のとき、転校をきっかけに不登校になった。

「転校先は小さい学校で、関係が密で、そこに全然馴染めなかったんです。それで、2週間くらいで行かなくなりました……基本的に、集団生活に馴染めない子どもで、小学校もけっこう行かなかったんですけど」

ご両親の反応は?

「父親がとても気にしてて、体罰も受けました。手加減はしていましたけど。でも、出勤時刻になると、父親は出勤せざるを得ないんですよね。2ヶ月か3ヶ月くらいで諦めて、『学校休むのなら、勉強はしなさい、家事の手伝いはしなさい』という感じになって」

中学卒業までは、「毎日、図書館で本を読んでました」ということだ。「高校には絶対行きたくなかった」そうだが、両親に「どこかに行って欲しい」と懇願された末、水井さんは小説の専修学校に通いはじめた。

「何をするか考えようと思ったんです。でも、結構、休みがちでしたけど」(水井さん)

NPOの事務所でボランティアをしたり遊んでいたりしているうちに、水井さんは、現在も支えてくれる友人たちと出会った。さらに、映画監督の園子温氏にも出会い、映画界で歩み始めた。

水井さんが、拉致暴行被害という決定的な体験をすることになったのは、その直前だった。映画【ら】の中にも、水井さんの実体験は散りばめられ、描き出されている。

「その拉致事件を抱えながら、映画業界に入っていったんです」

手書き文字のタイピングから映画業界へ

当時、園子温氏は映画の脚本を手書きしていた。

「何の脚本だったか思い出せないくらい、たくさんありました。『紀子の食卓』(2005年:Wikipedia「紀子の食卓」)の時期なんですけど、結局、映画化されなかった脚本も。園さんに『タイピングできる?』と聞かれて、『やります』と答えました。それが、映画の仕事の始まりです」

パソコンは、両親と暮らしていた家にあったので「普通に覚えてて、文字打てました」ということだ。

もちろん、仕事はタイピングだけではない。

「音楽業界でいう『ローディー』のようなもの……といえば通じるでしょうか? 住まいの掃除や、ちょっとした買い物などの仕事もしながら、映画の仕事を手伝っていくスタイルです。そういうことをしながら、業界の人に顔を覚えてもらうんです。園さんが『この人、こういうことができるので、そちらの現場にも呼んでください』と顔をつないでくれたり」

そういう日々が続く中、飲み会に顔を出していたら、映画「紀子の食卓」にエキストラながら出演することに。また、同時期に制作された園氏の映画「奇妙なサーカス」で、「美術の人手が足りない」と言われて手伝いに行き、【ら】のプロデューサーとなった西村喜廣氏と出会うことに。

この間、基本的には無給のため、自分の生活をアルバイトで支えながら一人暮らししたり、生活が苦しくなると実家から通勤したりしながら、水井さんは映画の世界に入り込んでいった。

特殊造型の道に、しかし「過労うつ」から自殺未遂も

映画美術の手伝いに行った水井さんは、前述のとおり、西村喜廣氏と出会った。西村氏は、映画監督でもあるが、特殊造型・特殊メイクアップの専門家でもある。映像の中のゾンビ、あるいはイカと人間を合成した謎の生き物といったものは、特殊造型・特殊メイクアップによって、映像の中の「現実」となる。

水井さんは、西村氏の見習いとして、特殊造型・特殊メイクアップの仕事を始めた。生活を支えるためのアルバイトとの両立で大変な思いをしたり、「過労うつ」で倒れたりしたこともあった。

「その頃、死のうと思って、酒と薬を飲んで浴槽に浸かったんです。でも死なずに、浴槽を出て布団に入って、丸2日間寝ていたようです。目覚めたとき、動く体力がなくて、そのまま寝ていて、『このまま死ねばいい』と思いながら壁を見ていたら、『いつでも死ねる』と気が付きました」

精神科に通院して治療を受けながら、リハビリ期間を経て、水井さんは特殊造型の職場に復帰した。西村氏はいつしか、うつ病に対して、そして水井さんに対して、最大の理解者の一人となっていた。

役者・グラビアアイドル、そして初監督作品【ら】

その後の水井さんは、西村氏の仕事を手伝うかたわら、役者として映画に出たり、グラビアアイドルとして活動したりするようになった。アルバイトも続けながらの映画活動だったが、役者としてオーディションに応募して選ばれるようになっていった。

そういう中で、水井さんに「映画監督になりたい」という思いが芽生えたのだろうか?

「うーん……映画を監督することになったきっかけは……ないです(笑)」

えっ?

「映画業界にいて、優秀な人たちの活動を見ていたら、『自分も映画作りたいなあ』『自分も映画作れるかも』というテンションになることがあります。何回か、西村さんに『自分で映画を撮りたい』と話したことはあるんですよ。でも、西村さん自身の仕事が忙しかったりして、実現はしなくて」

しかしついに、実現の時が訪れた。

「2013年秋、西村さんが『やればいいじゃん?』というので、『じゃ、やります』ということになったんです」

そして水井さんは4ヶ月間で、自らも経験した拉致暴行をテーマとした映画【ら】を制作した。10代の頃からの友人の一人(ICT企業経営)が制作費の多くを出資するなど、数多くの協力者に恵まれて完成した【ら】は、2014年2月「ゆうばり国際ファンタスティック映画祭2014」で公開され、すべての上映で立ち見客が出るほどの好評を博した。

全国各地の映画館での【ら】の上映は2015年に終了しているが、イベント等での上映は現在も続いている。

今週末の2016年11月20日(日)には、東京都墨田区において

「映画『【ら】』上映とシンポジウム 性暴力被害に対する第三者の向き合い方 ―報道やネットによる二次被害防止を考える―」(主催:女性とアディクション研究会)

が開催される。水井さんも、シンポジストの一人として登壇する予定だ。

次の作品は?

【ら】に続く作品が期待されている水井さんは、次回作と自らの今後を、どう考えているだろうか?

「……よく『次、どういう作品を撮るんですか?』と聞かれるんです。でも、撮れないんじゃないか? と思ったりするんです」

えっ?

「映画を作る以上は、面白いものを作りたいんです。役者としてでも、映画の裏方としてでも、監督としてでも。それを続けていけるんだろうか? 続けてきたプロフェッショナルの人たちと同じようにやっていけるんだろうか? いろいろと悩んでいます」

水井さんが映画の世界で生き残っていけるのか、これからも成長していけるのか、それは誰にも分からない。

ただ、一つの作品を作り出した後のスッカラカン状態・スランプ・自分では「惰性で仕事を続けているだけ」としか思えない時期は、何かを作り出す営みには「付きもの」だ。次に作り出されるのが何であるかはともかく、必ず、肥やしとして生きるだろう。

後編では、【ら】のテーマとなった拉致暴行に関する水井さんの思いを紹介する。

後編に続く)