なぜ、拉致と性犯罪をテーマに? 映画【ら】・水井真希監督に聞く(後編)
加害者は軽い気持ちでも、被害者には一生消えない傷が残るこかもしれません。(写真:アフロ)
現在、性犯罪とされる行為の範囲・対象・刑罰の見直しが進められている。
被害者自身にとって、性暴力犯罪とは何なのだろう?
自身の拉致暴行被害体験をテーマとした映画【ら】を監督した水井真希さんに、自らの経験と性暴力犯罪への思いを聞いた。
(前編より続く)
他人の痛みは、見た目では分からない
前編で紹介したとおり、水井さんは10代後半のある日、拉致暴行被害を受けた。
「駅から実家に歩いて帰る途中、後ろから近づいてきた車が停まって、男が出てきて、刃物を突きつけられて、脅されて。抵抗できないまま動けなくされて、車に乗せられて……。翌日、実家の近くまで車で連れて行かれて、解放されましたが」
その体験、その思いについて、水井さんは多くを語らない。
実は、水井さんと私は、10年以上前からの友人だ。濃い付き合いというわけではなく、会って話すのは数年に一回程度だが、ゆるく長く関係が続いている。
私の目の前にいる水井さんはいつも、オシャレで生き生きした若い女性だ。その時その時に、夢中になっている何かがあって、キラキラと輝いている。しかし話を聞いてみると、私がはじめて水井さんと出会ったのは、水井さんが拉致暴行被害を受けた直後だったということだ。
私は大きな衝撃を受けた。目の前にいたオシャレで生き生きした少女が、何を抱えさせられ、どう苦しんでいるのか、全く分からなかったということに。
もちろん私が何かの被害者だったとすれば、痛みや苦しみを積極的に誰かに見せようとすることはないだろう。むしろ、さらなる痛みや苦しみを避けるための戦術戦略として、ことさらに明るく楽しそうに振る舞うだろう。
苦しいけれども、苦しいと言えない。勇気を奮い起こして口にすれば、さらに苦しむことになるかもしれない。そしてしばしば、「さらに苦しむ」は現実になるのだ。
私自身、そういう状態を「わがこと」として知らないわけではない。でも、水井さんに対して「そうかもしれない」という想像力は、まったく働いていなかった。

いつか、拉致被害体験を書きたかった
水井さんは、前編で紹介したとおり、中学を卒業した後は小説家の養成コースで学んでいた。
「もともと、文章を書く人になりたかったんです。拉致に遭った時も、『将来、自分の体験を本にするかなあ』と思っていました」
しかし、体験記が執筆されることはないまま、十年以上が経過した。
「その時、初監督映画を撮ることになって(前編参照)。制作期間は4ヶ月しかないし、基本的に自主制作なので制作費もかけられません。セットや小道具やキャラクタを作る準備が必要な映画は作れないし……ドラマ系しかないかなあ? と考えていたときに、『あ、今が、あの拉致の話で映画を撮るタイミングなんだ』と」
ほぼボランティアで協力したプロのスタッフたちや出資者などの協力もあり、映画【ら】は無事に完成した。そして、「ゆうばりファンタスティック映画祭2014」で上映されて好評を博し、オフシアターコンペティション入選という結果となった。また海外でも、米国のボストンアンダーグラウンド映画祭16th コンペティション(2014)で入選 、フランスのモーベースジャンル映画祭 海外長編コンペティション(2014)で入選と、好成績を残している。全国の劇場での上映も、概ね好評だった。
好評、しかし「売名」という批判も
具体的には、どのような反応があったのだろうか?
「映画業界内での評価は、概ね好意的でした。ただ『話がリアルすぎる』という、賞賛とも批判とも取れない反応もありました」
自らの実体験があればこそのリアリティではないだろうか?
「映画の中には、自分が体験した会話を使っている部分もあります。でも自分の体験の中には、映画としてはつまらない、撮っても仕方がないものもあります。警察でのシーンとか、裁判とか。そういう部分は比喩にしました」
オーディエンスの反応は、さまざまだった。自らが緊迫感のもとで体験した会話をそのまま使った部分が「退屈」と評されたり、「リアリティが足りない部分がある」と評されたりすることもあった。ある程度の悪評や予想外の反応がありうることは、作品の作り手としては想定済みだ。
しかし反応は、作品そのものに対するものだけではない。
「一番言われたのは、『売名』とか『注目を集めたかったんでしょ』とか、です」
それでも、映画【ら】のインパクトは、思いもよらないところに及んでいった。
「国会で質問に引用されたんです。重徳和彦議員(衆議院・民進党)の、性犯罪に対する取り扱いの提言で」
国会でも注目された映画【ら】
やや長くなるが、【ら】に関する国会での議論を紹介したい。
2015年4月15日に開催された衆議院法務委員会(会議録)で、重徳議員は
「二割司法の最たるものは、恐らく、泣き寝入りをしてしまっているケースで、特に、性犯罪、児童虐待といったものについては、司法の世界で本当は裁かれなきゃいけない加害者がそこらじゅうにいるのではないか、こういう認識でおります」
と、映画【ら】を紹介した。さらに重徳委員は、拉致と性犯罪による被害そのものの残虐さに加え、被害者がPTSDに苦しむことを述べ、
「男性にとっての性犯罪に対する受けとめ方とそれから女性にとっての受けとめ方、これは全然違うと思うんですね。だから、私は男性ですから、PTSDを描写した場面なんというのも、そういう映画を見て、性犯罪の被害を受けた女性というのはこんな思いになるんだなということを感じるわけであります」
と、加害者と被害者の受け止め方の違いに言及した。また水井さんのインタビュー記事を紹介し、捜査にあたって被害者が「たらい回し」にされて苦しんだこと、ワンストップセンターの必要性についても述べ、
「水井さんは、とにかく、被害に遭った方に、あなたは何も悪くないんだということを伝えたいんだということをおっしゃっています。被害者が悪いのではない、全ては性犯罪を犯した加害者側が悪いんだということ、これをまさに社会が認めること、これが裁判での有罪判決だと思うんです」
「(水井さんは)インタビュアーが、なぜ彼らは性犯罪に走ってしまうのかと問いかけたことに対する答えとして、性犯罪が犯罪であることを知らないんだと思いますと言うんですね。テレビのニュースで、強制わいせつ罪のことを痴漢とか、未成年者へのレイプをいたずらと表現することもあるじゃないですかと。その言い回しが性犯罪への意識を低くさせていると。(略)女性に対して性的な暴行をするのは罪が軽いと思っている、男イコール人間、女イコール人間以下と思っている人が多いと私は思いますとおっしゃっています。これはいじめでも同じだと(略)。加害者側と被害者で非常に意識が違うんじゃないかと」
と、女性が被害者となった性犯罪に限定されない問題点を指摘した。
上川陽子法務大臣(当時)は、重徳議員の質問を受け、
「性犯罪の被害者の皆さんの今置かれている状況につきましても、よくよくその声に真摯に耳を傾けながら、運用の改善については、手続の改善も含めまして、丁寧に対応していく必要がある」
「社会の中でどういう言葉が使われるかということについて、今、いたずらというような表現がありますけれども、それは、受け取る相手がどういうふうに考えるかということを想像できる力を持つということが非常に大事ではないかというふうに思います。(略)簡単に使われていくような言葉では語れない実態があるということについては、それぞれ一人一人が想像力をしっかりと働かせていくような、お互いに思いやることができるような社会になってほしい」
と答えている。
互いの思いやりで性犯罪や「セカンドレイプ」が解消するかどうかはともかく、水井さんが拉致暴行被害に遭ってからずっと抱えていた思いは、映画【ら】で形となり、国会での議論の中で取り上げられ、世の中へと影響を及ぼしつづけている。
性犯罪厳罰化は問題を解消するのか?
しかし水井さんは、このところ取り沙汰されている性犯罪厳罰化に対しては、効果を疑問視している。
「厳罰化すれば、ほんの少し、性犯罪は抑制されると思います。でも必要なのは、厳罰化というより、『犯罪』とする範囲の拡大だと思います。異性間だけではなく、同性間でも性暴力被害は起こりますから」
その上、日本には「イヤよイヤよも好きのうち」という言い回しがある。不本意な性的行為を受け入れさせられた上に、この言葉に悔し涙を流した女性は、日本に何百万人、いや何千万人いるだろうか?
「暴行・脅迫を伴わないと、ケガをさせられないと、強姦罪にはならなかったりするんです。その意味での拡大が必要です。今、NPO『しあわせなみだ』を始めとする『刑法性犯罪を変えよう!プロジェクト』が、change.orgで署名運動を行っています」
参考:「イヤよイヤよは嫌なんです」性暴力被害者が前向きに生きられる日本に!
そもそもの背景は、刑法にもある。1907年(明治40年)に成立した刑法で定められた強姦罪は、その後100年以上にわたり、そのまま生き永らえてきた。「当時、女性に人権がなかったし、『女性が拒否する』という前提がなかったわけですから」と水井さんはいう。
性犯罪を予防するために、何が出来るか?
性犯罪被害は、単に「身体が傷つけられた」では済まないものを含んでいる。
意に沿わない性的な接触や性行為を暴力的に強制されること、あるいは拒めない状況を作られた上に「なあなあ」で半強制されること、それらに対して「イヤだった」と言挙げできないことがどれほど、被害者を傷つけ苦しめるか。自分の身体、自分の意志、自分の言葉が、そこでは「ないもの」とされ、あるいは相手に押さえつける快感を与えてしまう。さらに、安全を確保した後で「泣き寝入り」しない勇気を発揮しようとすると、世の中全部が自分を攻撃し軽蔑する存在と化す。この苦痛は、相手が処罰されようがこの世から消えようが、何十年経っても生々しく残り続ける。確信をもって書けるのは、私にも経験があるからだ。
そうした被害の後に最も望んだのは、自分が二度とそういう目に遭わないことだった。しかし、そのために、どうすればよいのだろうか? 「自分に性犯罪をもたらす可能性のある人を自分に近づけない」ということが現実に可能であるとは思えない。そんな私に、水井さんは言う。
「被害者のための団体は、今、少しはありますよね。本当は、加害者になりうる人に対するアプローチの方が大切なのに。それで私は、『ホワイトリボン』を支持しています」
「ホワイトリボンキャンペーン・ジャパン」は、「Be A Fair Man -『フェアメン』になろう -」をスローガンとし、「男たちの非暴力宣言」を掲げて活動している。
「根本的な解消というより、もう大人になってしまった40代・50代の人に対する対症療法にすぎないかもしれませんが、男性から男性に『女性に暴力をふるっちゃいけない、人権侵害だ』と、『男としてカッコよくない』と示す意味で、期待しています」
私は50代女性として、同世代・やや年少世代の男性が本気で「女性への暴力は悪」と主張していることに、かなりの居心地悪さを感じる。喜ばしいことであり、歓迎すべきことであるのは間違いない。でも世の中に、本気でそう思っている同世代男性がいるのなら、自分が「男性」だと思っているものは何なのだろう? 「男性は暴力で女性を従わせたいと思うもの」と想定し、警戒し、遠ざけても、時には我が身を守れないこともあった自分のこれまでは、何なのだろう? たぶん今後も、私が警戒を解くことはないだろう。
「アクション俳優がみんな、ホワイトリボンを着けるようになったらいいなと思っています。『本当に強い男は、女性に暴力をふるったりしない。暴力は映画の中だけなんだよ』というメッセージが広がったらいいな、と」
しかし大人になってからでは、「手遅れ」感が否めない。それに、性犯罪の加害者になりうる可能性は、性別と無関係に、人間全員にある。どうアプローチすればよいのだろうか?
「根本的には、性教育を充実させる必要があると思います。私が小学生のとき、性教育は2時間くらいしかなくて、妊娠のシステムについての説明があっただけ。性行為や、『こういうことは性暴力です』ということについては教えられませんでした」
1970年代に小学生だった私が受けた性教育も、似たりよったりだった。2016年現在は、文科省や各都道府県の性教育に関する資料を見ると、小学校低学年から性教育は意識されている。しかし、何を促進して何を抑制するために何を教えているのか、さっぱり理解できない。
水井さんは、この状況を憂慮している。
「ヨーロッパはすでに、異性との関係の作り方を性教育に入れていて、年間で数十時間を割いています。でも、日本は触れないまま。ちゃんと教えないから、親も教師も知らないところで、子どもが情報を得ることになります」
1970年代や1980年代から、何も進歩していないではないか。ため息が出る。そんな私に、水井さんは言う。
「自分の身を守るための教育プログラムがあります。CAPプログラムなど。PTAが学校で講習会やセミナーを開催したら、希望者は受けることができます。でも学校として行ってくれないと、受けられる子と受けられない子の差が出てきます。そういう意味でも、性教育を充実させてほしいです」
性というものを大切にすることは、自分も相手も他人も大切にすること。そのためには自分の心身を守ること。それを日本の常識にするためには、気が遠くなるほどの時間と労力が必要そうだ。少しでも動かすために、メディアは重要な役割を負っている。
しかし水井さんは、現在の日本のメディアに対して、小さくない不満を抱いている。
「報道による二次被害・二次加害の防止が、まったく不十分だと思います。1980年代のロス疑惑で、加害者の人権を見直す動きがありました。ニュース報道での容疑者呼び捨ても、1980年代に一斉になくなりました」
当時、無職の容疑者に対して「◯◯無職」と肩書きをつける滑稽な報道もあったが、そういった混乱は数ヶ月で見られなくなった。
「被害者に対する人権の見直しは、なぜ、なされていないのかと思います。ごく最近の少女拉致監禁事件の時も、有名芸能人の息子の芸能人が女性を暴行したとされている騒動のときも、何も進歩していないんだなあ、と思いました。イギリスでは、報道するときに『してはいけないこと』の協定があり、厳格なルールとして運用されているそうです。でも日本では、ルールではなく、マナーのレベルでしかありません。実名と顔写真は出さないにしても、何をされたかを事細かに報道したりします」
それは読者の「知る権利」で正当化出来てしまうし、スクープ競争から下りる判断は難しい。
さらにインターネットが普及し、誰もが発信者となれる時代が来た。
「現在、行方不明になった子どもに関するメディア報道は、捜索の段階では名前と写真を出しますが、保護されたら出さないルールが出来ています。でもSNSや各種まとめサイトでは、『過去に出てるんだから、いいじゃん?』と出され続けるんですよね」
いわゆる「バカッター」と同じノリで、被害者のことを書いたり、写真を掲載したりしてしまう。「コンビニの冷凍庫に入った」「飲酒運転した」の露悪ならば自業自得とも言えるが、犯罪被害者の人権侵害は、そうはいかない。
水井さんは
「メディアの仕事についている人の意識が向上したらいいなあ、と思っています。明日(2016年11月20日(日))のシンポジウムでも、報道やネットによる二次被害の問題を考えます」
という。このシンポジウムは、ロードショーが終了して上映機会が減少した【ら】を鑑賞する貴重な機会でもある。詳細は主催元・女性とアディクション研究会のWebページを参照していただきたい。水井さんも、シンポジストの一人として登壇する予定だ。
被害者の救済、加害者の更生、幼少期からの性教育、成人してからの社会教育、メディアのあり方……。
水井真希さんと映画【ら】からの深く重い問いを、受け止めて少しずつ答え続けることが、男女を問わず、すべての人に求められているようだ。