「イタリアの精神医療は素晴らしくて、日本の精神医療はダメ」は本当なのか? 

旧刑務所の写真。理由や名目がなんであれ、隔離と閉じ込めは治療ではありません。(写真:ロイター/アフロ)

2015年10月31日・11月1日の2日間、東大・駒場キャンパスに、精神科医・心理士・精神保健福祉士など130人が全国から集まりました。

1960年代から、精神科病院の解体と精神障害者の地域生活意向を推進してきたイタリア・トリエステ市の実践について聞き、日本での実践について語り、互いに対話するためです。

以下、共催団体の一つ「180人のMattoの会」によるイベント内容(抜粋)です。

「対話 トリエステ精神保健局長 VS 日本の精神科医」

   ~精神病棟を使わずにクライシスと対峙する道~

講師 ロベルト・メッツィーナ(トリエステ精神保健局長・WHO調査研修コラボセンター長・精神科医)

ファシリテーター 伊藤順一郎(精神科医)・大熊一夫(ジャーナリスト)

「クライシス」への対応は精神医療の核心部分です。

日本では,クライシスの当人は多くの場合,精神科病院への入院を余儀なくされています。

ところが35年前に精神科病院と完全に決別したイタリア・トリエステでは,地域精神保健サービスがクライシスを柔らかく受け止めています。

今回の歴史的対話では,トリエステと日本の精神医療の違いをはっきりさせます。

「当事者の市民生活を壊さない精神医療」へのパラダイムシフトについて,議論します。

貴重な機会です。ぜひご参加ください。

出典:「180人のMattoの会」イベントページ

「クライシス」と書かれている状態は、日本でいうところの精神疾患の急性期と似ていますし、重なっています。

平たく言えば、本人の周辺にいる家族や近隣の人々が、本音では「入院して、当分出てこないでくれると嬉しいんだけど」と望んでしまうような時期のことです。

日本では、周辺の「入院して、当分出てこないでほしい」が、容易に叶えられてしまいます。そして日本は、世界トップレベルの精神科入院率と長期入院患者数を誇って(反語)います。

そして精神科入院は、本人の人生から数多くの機会を奪うだけではなく、大きな社会的コスト要因となっています。

(参考)拙記事:精神科病院のインチキ「退院」・患者さんのインチキ「地域生活」は高くつきますが、いいんですか?

40年以上前に精神科病院を解体したイタリア・トリエステ市では、どうしてきたのでしょうか?

日本の精神科医たちは、どういう取り組みをしているのでしょうか?

……というわけで、セミナーにプレスとして参加させていただきました。

以下、セミナーのプログラムによらず、イタリアと日本で何がされてきて現状はどうなのかを概観します。

イタリアはよくて日本は悪いのでしょうか? 逆に、日本はすごくてイタリアは実はダメなのでしょうか?

イタリア・トリエステ市では、なぜ精神科病院が解体されたのか?

きっかけは1960年代、精神科病院に赴任した精神科医のフランコ・バザーリアが、閉鎖病棟に潜入して患者たちの悲惨な様子を目の前に見て衝撃を受けたことです。バザーリアは理解者を増やし周囲を巻き込み、粘り強く、精神科閉鎖病棟の解体と患者たちの地域生活を支援する活動を続けました。1970年代にはイタリア全体の動きとなり、1978年には精神科病院を廃絶する法律である「180号法」が制定されました(参照:Wikipedia「バザリア法」)。

この180号法のもとでも、本人の意思によらない強制治療・強制入院は否定されていませんが、日本に比べると「強制入院させる」のハードルは非常に高く、期間も最長7日間です(延長はできますが、延長にも高いハードルがあります)。

イタリア・トリエステ市の精神医療の現状

入院患者数が少ないわけですから、単科の精神科病院は必要なく、公立総合病院の中に精神科病室があります。病床数は、人口1万に対して概ね1床(日本は人口1万に対して約27床(参照))。強制入院を含めて入院に至る人が少ないので、スカスカということです。「経営のために満床にしておかなくては」といったことが起こらないように、制度面でも目配りと手当てがなされています。一言でいえば、経営を心配しなくてはならない私立精神科病院が存在しないようにするということです。国公立病院だったら「精神科入院病棟が使われなくてスカスカでした」を「地域精神医療の成果!」と誇ることが可能です。ちなみに日本ではいまだ、精神科病院の約90%が私立病院です(参照)。

精神医療を主に担っているのは、地域の精神保健センターです。

精神保健センターには、精神科医・ソーシャルワーカー・心理士・事務・運営など多様なスタッフがおり、フラットな関係のチームを作り、そのチームで地域の精神障害者たちを支援しています。自宅を訪問し、ふだんの暮らしの様子を知り、対話をし、必要な支援があれば行い、処方薬を届けることもあります。もちろん、人間関係づくりを拒む人も、医療不信から住まいの中にスタッフを入れない人もいます。ドアの外から「生きてるかどうか心配だから様子を見に来ました、また来ます」と伝えるためだけの訪問が続くこともあるそうです。

日中の精神保健センターは、ダベリング・交流・レクリエーション・生活訓練・社会訓練・就労を望む人に対する就労支援など、多様な活動の場となっています。

日本の障害者作業所や精神科デイケアとの違いは、ベッドがあり泊まることもできるということです。前述の「クライシス」状態に陥った精神障害者本人が、自発的に「泊めて」と来ることもあります。スタッフが訪問して「クライシス」に陥っていると知って、センターに泊まることを勧める場合もあります。そこから精神科病院への入院という選択肢もありますが、その選択がなされることは多くありません。

トリエステで精神保健センターを見学したことのある精神科看護師によれば、センターに泊まった精神障害者の1/3は、開いているドアから勝手に自宅に帰ってしまうそうです。来るのも泊まるのも帰るのも本人の自由ですから。もちろん、帰ってしまった精神障害者の自宅に、あとでスタッフが訪問して声をかけたり様子を聞いたりするということです。

「クライシス」、つまり精神的な危機に陥っている患者は、自傷しようとしていたり、稀に精神保健センターでは対応できないレベルの他害行為が起ころうとしていたり(その場合の対処システムもあります)、激しい混乱を示していたり、感情を爆発させていたりします。「薬を飲んでもらって鎮静してもらって症状を消す」「迷惑なので病院に閉じ込める」が日本での普通の対処でしょう。

しかしイタリアでは、バザーリア改革以来、「クライシス」は乗り越えるべき危機であり、何かを見直すきっかけであり、乗り越えて成長するチャンスと捉えられています。だから、そういう場面でこそ、日常の場や日常の人間関係から切り離すことなく、日常の家族や隣人や仲間たちと一緒に、必要ならば日常の地域の中にある精神保健センターで客人として「おもてなし」を受けながら過ごしたりして、コミュニティで「共に」乗り越えるというアプローチが取られています。本人への提案や働きかけはされますが、基本的に「強制」はありません。

イタリアの精神医療は成功しているのか?

イタリア・トリエステ市が成功例なのかどうかは、評価の分かれるところでしょう。

日本からのネガティブな見方の代表例は、概ね「精神保健医療の改革研究ページ:海外の情報:イタリア」の末尾近く、「イタリア精神保健システムの苦悩」「まとめ イタリアから何を学ぶか」にまとめられています。そこに指摘されていることがらは「なきにしもあらず」です。イタリアから来た講師のメッツィーナ氏も、事実を隠すことはありませんでした。

現地に行ってみた人々は、私の周辺で10人近くに達しており、中には精神障害者本人もいます。現地の話を聞くたびに「人によってこれほど見方が異なるものか」と驚かされます。

もちろん、日本の精神医療がこのままで良いわけはありません。多数の長期入院患者が存在する状況は「精神科病棟を居住施設ということにする」といったゴマカシ((参考)拙記事: なぜ、精神科病棟を居住施設にしてはならないのか?(1/3) - 「病棟転換型居住等施設」の背景と経緯)によらず、地域生活の推進によって解消すべきです。少なくともイタリアは、その点においては大成功しています。法的に「精神障害者といえば病院や施設の中にいるもの」ではなくなった1978年から30年以上が経過し、社会のマインドも「精神障害者は、自分と同じご町内で、支援を受けながらフツーに暮らしているもの」と変わってきています。

しかしながら「イタリアの精神医療は何もかもうまくいっており、日本はダメ」というわけではないのは間違いありません。今回のセミナーでも、会場から質問を受けたメッツィーナ氏が、声と口調に露骨な不快や緊張をにじませた場面が10回以上はありました。その多くは、日本人参加者たちの理解不足や誤解、日本の精神医療の現状を前提として肯定したいという意図に「イラッときた」でしたが、2-3回、「ああこれは、聞かれたくない・答えたくないところを突かれてしまったのかな?」という場面もありました。

とはいうものの、イタリアの精神医療が、精神障害者の脱施設化と地域生活を推進し、とにもかくにも実現しており、さらに次のステップを目指しているという事実はあります。

外国人に対して答えたくないこと・知られたくないこと・できれば隠しておきたい矛盾や不足や失敗の数々も含め、「ぶっちゃけ、イタリアの精神医療って、どうなの?」を突っ込むような取材が、これから求められているのかもしれないと私は思いました。同じ轍を踏まない努力が、後発の日本には求められるでしょう。日本には後発であるゆえに、先行例に学び、より失敗やトラブル少なく進めることが可能というメリットがあります。

日本の現状はどうなっているのか?

2010年代の日本には、いまだ30万人を超える精神科入院患者がいます。3ヶ月を病院の中で過ごすと「シャバに戻る」のハードルは高くなると思われますが、3ヶ月以上入院している患者さんが入院患者の約75%。同じく40%は5年以上入院しています(参照)。「地域に受け皿がないから退院できない」という現状はありますが、だったら地域移行に予算等のリソースを回して本気で取り組み、受け皿を増やすべきでしょう。

とはいえ、日本の精神医療が、地域医療に対して何もしてこなかったわけではありません。地域医療の重要性を認識して積極的に取り組む精神医療関係者も少なくはなく、「Assertive Community Treatment (ACT) 」のような取り組みも継続されています。ACTとは「重い精神障害を抱えた人が住む慣れた場所で安心して暮らしていけるように、様々な職種の専門家から構成されるチームが支援を提供するプログラム」(「ACTIPS」Webページによる)です。北海道・浦河町には、精神障害者たちが町の中に住んでいるという既成事実を作り上げた「浦河べてるの家」があり、すでに30年以上の実績があります。また、これらの取り組みを支える制度的な裏付けも、極めて不完全ながら整備されてきてはいます。

しかし、イタリアの精神医療で大切にされている「精神障害者である本人の主体性を中心に」「精神障害者である本人が、いつどのような状況下においても、基本的には自分についての主権を持っていることを忘れない」「医療の特権性が問題だったのだから、それはなくす」「患者を医療の道具にしない」といったことの重要性が、日本でも同等に考えられているかどうかについて、私はかなり疑問を感じています。

メッツィーナ氏のお話から2点

最後に、今回のセミナーのためイタリア・トリエステ氏から来られたロベルト・メッツィーナ氏(トリエステ精神保健局長・WHO調査研修コラボセンター長・精神科医)のお話から、2点を紹介します。

メリットの問題ではなく、哲学

ある日本人精神科医が、「どういうメリットを世の中に訴えていけば、地域移行の重要性を認識してもらえるでしょうか?」という内容の質者をしました。

メッツィーナ氏は、やや厳しい表情で

「メリットがあるかどうかではなく、哲学の問題です。バザーリアは精神科閉鎖病棟の長期入院患者を見て、人間がこんなふうに扱われるべきではないと考え、精神科病院の解体と入院患者の地域移行を進めました。すべての人間は一般社会で、日常の場から切り離されずに暮らすべきだ、という哲学があって、そのためにはどうすればよいかを考えて実行しているのです」

と答えました。精神医療関係者の一部に見られる「精神科病院は地域にあるんだから、入院患者も地域生活している」という主張も、「日常の場から切り離して閉じ込めておいて、それが地域生活?」と一笑に付されました。

これらのやりとりを聞いていた私は、心のなかで「^^;」と思いました。

生活保護費総額の約半分は医療扶助で、医療扶助の25%は精神科入院。精神科入院を極限まで減らせば、生活保護費全額のうち約12%程度は浮くことになります。おトク感満載です。といいますか、これだけあれば、2013年以後削減された生活扶助や住宅扶助を元の水準まで戻せます。

損得でしか動かない人には、損得を訴えるしかない。その現実はあります。

でも自分自身まで、それに引きずられて、本来あるべき姿を「人間」「社会」から考えることを怠ってはいけません。

なので、私は内心、「^^;」となったのです。

身体医療との統合の可能性は? 身体医療の「強制治療」の是非は?

セミナー終了後、お疲れのメッツィーナ氏に拙い英語で質問させていただきました。

イタリアの精神保健を取り入れたWHOが、「本人の健康への権利を守る」という名目で強制医療を正当化しようとしているという見方が、障害者運動の一部にあります。まさに、そのキーパーソンであるメッツィーナ氏に、その点を尋ねました。

以下、やりとりです。

みわ:このシステムは身体の医療にも必要なのではないかと思いますし、一人の患者が身体疾患と精神疾患を持つことだってありえます。身体の医療との統合のプランはありませんか?

メッツィーナ:もちろん、プランはあります。一人の精神障害者が身体疾患を持ったら、精神障害者と身体疾患の患者さんの2人に分かれるわけではないですし、そんなことは不可能です。精神疾患を脳の病気と考えるとしても(注:「だから薬を使って本人を生物学的に治療する」という考え方は、イタリア精神医療の中心におかれていません)、脳は身体の一部ですから、身体の健康は極めて重要です。

みわ:でも身体の医療では、時に緊急事態があり、そのとき本人の意思確認ができない場合もあります。たとえば私が交通事故に遭って意識を失っていたら、誰かが救急車を呼んでくれるかもしれません。そして自分の意思によらず治療されるわけです。これは非自発的医療ですが必要です。同様に、精神科でも「非自発的医療だけど緊急に必要」がありうるのではないですか?

メッツィーナ:それは「緊急事態」、Emergencyですよね。身体の医療だと、その意味の「緊急事態」がありえます。でも精神医療には、同じ意味の「緊急事態」はありません。

みわ:えええええ?

メッツィーナ:精神医療にあるのは「クライシス」です。「緊急事態」とは違います。「クライシス」は、ご本人にとっての危機であり、家族あるいは周辺のコミュニティにとっての危機であり、関わっている精神医療スタッフにとっての危機であることもあります。でも、何度も繰り返し言ったように、「クライシス」は、乗り越えて成長するための機会です。その場面で、強制的に何かをする必要はありません。だから精神医療に強制医療はあるべきではなく、必要であるとしても最小限にされるべきなのです。

みわ:たいへん良くわかりました。

メッツィーナ:でも、いつの日か、「精神が」「身体が」と言わない、患者さんその人に対する医療が実現されたら、とは思いますね。質問してくれて、ありがとう。

みわ:こちらこそ!

というわけで、メッツィーナ氏と次にお目にかかる機会を、楽しみにしています。

セミナーで行われた対話の詳細についても、これから時間のあるときに、少しずつ記事化していこうと思います。