離職した元総合職女性たちは、今どこに? - 「男女雇用均等法」成立から30年の節目に
職場にいる女性は、仕事を続けるにあたっての問題が比較的少ない女性です。(写真:アフロ)
1985年に男女雇用均等法(以下「均等法」)が成立したとき、私は21歳。昼は半導体の研究所で実験補助の仕事をし、夜は大学夜間部に通って物理学を学んでいました。
職場と大学のどちらでも、「均等法」の話をしたことはありません。職場にいた女性たちは、そもそも「均等法」の恩恵に与れると考えていない事務職の女性たち10名ほどと、「均等法」などなかった時期に研究者になれたスーパー女性ごく少数。最初から、話題にも上りませんでした。といいますか、職種も志向も背景も違う女性たちが集まっている場では、自分の将来・仕事・家庭観について話すことには、なんとなくタブー感がありました。何を言っても誰かが傷つき、誰かが感情的に反発を覚える、たいへん難しい話題という感じでした。
予備校時代の同級生女子たちのうち何人かは、法学部に通っていました。彼女たちは「均等法」に対して、「最初から骨抜きにされてるけど」と言いながら期待していたり、「期待はするけれども」最初から骨抜きにされていることに憤っていたりしました。
それから、早くも30年が経過しました。
「均等法」は、効果を評価すること自体が難しい法律だと思います。しかしながら、この30年で、「女性が仕事を持って働き続ける」に対する世の中の見方は、ずいぶん変わったものだと実感します。
30年前の大学生女子周辺の就職観
30年前、20代前半で大学生や大学院修士課程の院生だった私は、「女性は家庭に入るもの」「働き続ける女性は物好き」「働き続けなくてはいけない女性は、幸せな結婚をできなかった気の毒な人」といった意見に苦しめられました。そういう意見は、親世代・年長世代が持っていたわけではなく、大学の同級生男子、ときには女子にも根強く見られました。
教職の生物学実験で同じ班になった非常に優秀な女子学生は、打ち上げに参加した男性教員に対して
「優秀な成績を収めて、資格を多数取得して、その能力を家庭の中で活かしたい」
と語り、その男性教員に
「でも、結婚生活が幸せとは限らないよ。幸せな結婚をしてもダンナさんがぽっくり死んじゃうかもしれないし。いつでも働けるように、一度は就職して社会を経験しておいたほうがいいと思うけど?」
と諭されていました。
いずれにしても、女子の就職は、理工系でもそれほど容易ではありませんでした。1985年前後だと、最も優秀な女子学生たちのうち「大学での専攻を活かしたい」という志向を持つ人たちは教員または公務員になることが多かったです。研究者という道もありえますが、大学が私立だったため、もしも親に理解があったとしても、大学院は行けて修士まで。何らかの幸運に恵まれて学費問題と進学先問題が解決されれば、博士号を取得して研究者になることができる場合もある、という感じでした。
大学在学中に、理工系の世界でのキャリア形成に見切りをつけ、まったく無関係な職業に就く選択をする女子学生たちもいました。男子学生たちが大多数の中で、時に熾烈なハラスメントにさらされる経験をした彼女たちは、
「大学でこれなら、就職したらいったいどうなるのか」
と考えたのです。それはそれで、賢明な選択の一つのありかただったと思います。大学を卒業できればまだしも、大学から黙って消えていった女子学生たちも何人かいましたから。
大学での専攻と無関係な就職をした女性たちは、志向も就職先もさまざまでした。大好きなイタリアで働くために、イタリアと取引のある輸入業者に就職した女子学生もいました。デパートの販売員になり、お見合いを繰り返して3年ほどで結婚して専業主婦になった女子学生もいました。
「均等法」成立直後、その恩恵と見ることの可能な就職をした女子学生は、そもそも学年の5%程度しかいなかった女子学生のうち、さらに10%か20%程度ではないかと思います。1学科の1学年に1人いるかいないか。
「バブル経済」の追い風に乗って
ところが1980年代後半、バブル経済の膨張により、「女性でも外国人でもいいから、とにかく採用しなきゃ」という企業が増えました。
当時、大学で就職活動を開始する学年の男子学生の住まいには、なぜか住所を知った就職産業から、ぶ厚い会社案内パンフが送られてくるものでした。私のところには、送られてきたことが一度もありませんでした。たぶん大学院の院生の名簿を入手していたであろう就職産業が、「女子だから送っても無駄」と思ったのかもしれません。
しかし1990年に大学院修士課程を修了した私には、かつての職場であった研究所の先輩たちを通じて、数多くの就職のお誘いがありましたので、自分のしたい分野の仕事をさせてくれそうな電機メーカを選んで就職しました。仕事内容に関する希望は、65%くらいは叶いましたので、大きな不満はありません。
同期の高専卒・大学卒・大学院卒は、400名。女性総合職と外国人は合わせて40人くらいはいたと記憶しています。イスラム教の外国人のために、合宿研修ではハラール食が用意されていました。また、電機系ではいち早く、結婚して戸籍名が変わった女子社員が社内で通称を使用することを認め、そのことを大々的に外向けにアピールしていたりしました。同期の出身大学もいろいろで、偏差値でいえば30台から70台まで。「入試難易度の低い大学に不本意に入学したけれど、意志を強く持って勉学に励んだ」という優秀な努力家もいました。
ガチガチの男性社会で日本的ムラ社会そのものの企業でも、「とりあえず目先の人手不足解消のためには、『ブランド大学出身の日本人男性』とか言ってられない」と考えれば、25年前には、その程度の対応は既にしていたのです。もしも好況が1995年や2000年まで続いていれば、日本の企業社会そのものが、かなり変わったのではないかと思います。
バブル崩壊、そしてその後
ところが1991年、バブル経済が終わり、「失われた10年」あるいは「失われた20年」へと突入。多くの企業で、人員削減の嵐が吹き荒れました。
私の勤務していた企業でも、最初は中高年から、ついで研究所など「目の前のカネ」にならない部門の女子社員から、会社を去っていきました。1992年から1994年にかけてのことです。私は「目の前のカネ」につながっている事業部付属の研究部門にいたのですが、「次はこっちに来るだろうな」と思っていました。
1995年、案の定といいますか、私も退職勧奨の対象になったようです。それまでは男性社員と同様に与えられていた研修などの機会は、情報さえ回ってこなくなりました。ありとあらゆるタイプの嫌がらせがはじまり、だんだん激化していき、1999年には横領の冤罪までされそうになりました。女性を活用しているアリバイが欲しくて私を配属してもらったはずの上司たちは、家庭の幸せや母親になる幸せを説教するようになっていました。本社の国際部門で活躍していた同期の女性が、事業部の経理へと人事異動されたりもしていました。
1995年ごろから、「この会社に長居はできまい」と考えていた私は、転職活動も行いましたが、当時、電機連合に属している電機メーカの間では申し合わせがあり、同業他社への転職には大きな制約がありました。外資系も考えましたが、ちょうど「日本の半導体産業があまりにも不調なので、日本法人をたたもうとしている」というようなタイミングでした。
結局、退職した2000年時点で成功していたのは、モノカキ稼業だけでした。そこでとりあえず、著述業に当面は専念することにして、2015年現在に至っています。
1990年に入社したとき、事業部は確か2200人規模、女性社員は工場などの現業も含めて300人でした。
2000年に退職したとき、事業部は1500人くらいまで人員を削減しており、女性社員は10人まで減っていました。
退職のとき、300個以上のロッカーが並んでいた女子更衣室で、名札のないロッカーばかりが並んでいる風景を見て、溜息が出たのを鮮明に記憶しています。
職場から消えた総合職女性たちは、その後どうなった?
「均等法」直後のバブルの追い風で就職はできたものの、その後、同じような成り行きで職場を去ることになった総合職女性は、電機に限らず、金融・保険などあらゆる業種に多数いたはずです。
ICT系では「2000年問題」による人手不足があり、また2000年代前半のICTバブルもありましたから、職業人キャリアを少し引き延ばすことができた女性もいました。中には、現在もキャリアを手放さずにおられる方もいます。私もそれに近いルートの変形版を辿ったのかな? と思っています。
しかし圧倒的多数は、
「社会に出た時には女子総合職で、現在も若干の変化はあったけれども総合職的キャリアを継続している」
ではない「その後」を辿られたのではないかと思います。
私が淡い接触のあった方から聞いたエピソードには、このようなものがありました。
- 専業主婦になって子どもにも恵まれたけど、公園デビューなどで、高校・短大出身で就職していた時期には一般職や派遣だったママたちとの人間関係に、いちいち苦労。仕事に使っていたエネルギーは子どもの教育に向けた。
- 職業生活に見切りをつけて寿退社。子どもに恵まれたところで夫が精神を病んで休職。自分と子どもの精神衛生面、世帯収入のある程度の維持を考え、託児所のある「ヤ◯ルト」で飲料配達の仕事を始めた。夫の復職後は「130万円の壁」を超えないように就労継続。
また、現在の子育て世代である20代・30代女性、特に職業と育児の両立になんとか成功している女性からは
- バブル期に総合職になれたくせに、自分から家庭に入り、自分たち世代に「恵まれすぎ」「甘え過ぎ」「ベビーカーで電車なんて」という悪意敵意を一番辛辣にぶつけてくる世代。許せない。
という意見を聞いたこともあります。
私自身、職業キャリアを断念して家庭に入る選択を余儀なくされ、今、ボランティアや社会活動などで世の中に「再デビュー」を果たそうとしている同世代の女性に、
「ちょ、ちょっと、私、あなたに何もしてませんけど、それなのに?」
と言いたくなるような意地悪をされたことがあります。
どちらかといえば不幸な出会いによってしか存在を意識しにくくなってしまった、ほぼ同世代の、バブル期には職業人であった、しかし離職してしまった女性たち。
このところ、「彼女たちは離職後、どのような人生を歩んだのだろう?」と考えるようになりました。
今、離職した総合職女性についての調査が必要なのでは?
とにもかくにも会社や職業にしがみつき、手放さないことに成功している女性たちが、苦労して頑張っているのは事実です。
でも、そうではない女性たちにも、会社や職業を手放さざるを得なかったゆえの苦労や、それゆえに強いられた頑張りがあるはずです。
さらに、いったん会社を去り職業を手放すと、自分自身の現役時代の収入という面でも、老後の年金という面でも、生涯にわたって経済的な不利がついてまわる人生を歩むことになります。
総合職に就き職業キャリアを継続できた幸運な少数の女性、「努力できる才能に恵まれた」「頑張りでなんとかなる状況に恵まれた」も含めて「幸運だった」としか言いようのない少数の女性に対しては、存在を発見して状況を知ることが可能です。
同じように職業生活を総合職として開始したものの、離職を余儀なくされた女性たちのその後と現在こそ、今、最も知られるべきことではないかと思っています。
そこには、日本社会が抱えるありとあらゆる問題が、どのように女性の上にふりかかっているのかを知るための貴重な手がかりの数々があるはずです。
たとえば結婚生活や育児や介護は、働いていれば確かに大変です。しかし「専業主婦だったらラク」なのでしょうか? たぶん、そんなことはないだろうと思います。
あるいは、家庭や家族との生活に幸福を感じることができるかどうか、ある程度の満足をすることができるかどうか。組織人・職業人としてのアイデンティティを手放したことは、家庭や家族に対する満足度を高めるのか低めるのか。
今、40代後半から50代前半の年齢にさしかかり、自分のこれまでの歩みをふりかえって、自分でどう思っているのか。何を後悔し、何を誇りに思っているのか。
もしもバブル崩壊がなかったら、どういう人生を歩みたかったか。そこから、現在はどれだけ隔たっているのか。
職業キャリアと引き換えに何を得たのか。得たものについてどう考えているのか。
かつて、学校や職場で近くにいたはずの彼女たちが、離職してその後、どういう人生を歩み、今、何を考えているのか。
正直なところ、まったく想像がつきません。
離職した皆さん、どうぞ、ご自分の言葉で語ってください
日本最初の女医・荻野吟子など歴史に名を残した女性たちに見るとおり、どのような逆境苦境の中でも成功し、まあまあの成功を生涯にわたって維持できる女性は存在します。
状況が厳しければ出現確率は減りますが、ゼロにはなりません。
でも、そのような極めて優れた、なおかつ極めて幸運な人々は、どこまでも特殊な事例、レアケースでしかありえません。
氷山の真の姿は、水面より上の「氷山の一角」ではなく、水面下にあります。
「均等法」とバブルの追い風のもと、比較的好条件の下で総合職として社会人生活のスタートを切った女性たちのその後は、おそらく数多くの気づきやヒントを日本社会にもたらすであろうと思います。
そして今、誰でも気楽に発信できる時代が到来しています。
その方々がご自分の言葉で語り、その言葉に虚心に耳を傾けようとする男性女性多数の姿のある近未来を、心から待望します。