熊本地震から一ヶ月:いち九州出身・東京在住者の「どう考える? どう行動する? これからどうする?」

2015年4月23日、沖縄県・恩納村文化情報センターにて。特設展示。

2016年4月14日に熊本地震が起こってから、本日5月14日で1ヶ月です。

亡くなられた方のご冥福を祈り、被災された方がなるべく早く日常に戻られることを願いつつ、自分がこの1ヶ月、熊本地震についてどうしていたかを振り返ってみます。

遠隔地にいて、出来ることが限られている中で、自分には何が出来るのか。全く思い悩まなかった方は、ほとんどおられないでしょう。

私もそうでした。

隣の福岡県で生まれて20歳まで過ごした私は、小学校の修学旅行で熊本城を、中学校の鍛錬合宿(中高一貫校で、中学の修学旅行はありませんでした)で久住山に登った帰りに阿蘇山・草千里を訪れています。

熊本に在学・勤務していたことのある血縁者・友人・知人も、少なからずおります。

また出身地の福岡県も、熊本・大分に比べれば弱いとはいえ、地震に見舞われています。福岡県には血縁者・友人・知人とも、多数います。

私は東京に住み始めて32年目になりますが、それでも感覚的には「ご近所の大事」「出身地の大事」でした。

熊本地震翌日から、奇妙な疲労感が

翌日4月15日(金)、私は前々から予定されていた仕事のため、福岡県出身の情報科学研究者に会ってインタビューしました。2回目のインタビューでした。福岡県出身であること(しかも、双方の実家は直線距離で5km程度)は、既に互いに知っていました。

前夜の熊本地震のことも、少し話題になりました。同席していた編集者さんたちから話題にされたのかどうかまでは、はっきり覚えていません。その研究者の方のご血縁や親しいお友達は、皆さんとりあえずはご無事だったということ。私も尋ねられて、

「まあ、震度4ですからね。福岡県は、2005年も震度6が来てますからね。震度4なら生命身体の心配はいらないかなあ、と。SNSで福岡の友人たちの書き込みを見てても『ちょっと揺れたねえ』くらいの感じで、むしろ熊本の方々への心配の方が大きい感じですよ」

というふうに答えた記憶があります。

もちろん出身地の福岡には、血縁者・友人・知人がたくさんいます。同世代より下の友人知人は、ある程度はSNSで状況がわかり、心配していませんでした。でも、SNSに参加していない高齢の血縁者は、心配にはなりましたが、電話をするのは憚られました。寝ているかもしれない時間帯です。相手が電話されて大丈夫な状況であるかどうかは、わかりません。なので「震度4なら、少なくとも生命身体は大丈夫だっただろう」と考えるしかなかったわけです。

4月15日は夜まで缶詰で仕事しました。インタビュー自体が、かなりギリギリのタイミングでしたから。仕事自体は、それほどハードというわけではありませんでした。インタビュー1.5時間程度、打ち合わせ30分、原稿2本(合計5000文字)。前日が連載「生活保護のリアル~私たちの明日は?」の締め切りではありましたが、通常なら原稿執筆に3時間はかからないはずです。特に調べ物が必要なわけではなく、比較的良く知っている内容です。

しかし、その原稿2本を書くのに、私は6時間程度を必要としました。ふだんのペースから計算すれば、長く見積もっても3時間くらいで終わるはずなのに。「あれっ?」と思いました。さらに、終わった後、異様な疲労を覚えました。帰宅し、そのまま倒れこむように寝ました。

翌4月16日(土)、私はどうしても午前中に起き上がることができませんでした。同居している7歳の猫は、あの手この手で私を起こしてフードを出させようとしましたが、私が起き上がれたのは午後遅い時刻でした。

猫にはフードを出して「ごめん、ごめん」と謝りました。自分は体力気力とも脱力、なぜか消耗し、グダグダになっていました。なんでもいいから口に入れる必要があるとは思うのですが、何をする気力もなく、なんとか外に出て、野菜たっぷりの定食が食べられる顔なじみのお店で食事して帰り、そのまま倒れこむように眠りました。

4月17日(日)は、お昼から午後、人に会う用事がありました。その日の私の体力気力は、日常動作プラスアルファが通常どおりに可能な程度には回復していました。

翌々日の4月16日に「ニュースに接するのは最小限にする」判断を

少し回復した状態で、4月15日・16日の自分の消耗ぶりを振り返ってみました。思い当たるフシは、大いにありました。たぶん、震災報道に接したからです。

私は残酷・悲惨といったものが、大変苦手です。小学生の時は「死」という文字を見るのもイヤなので、小学4-5年の時は、

「片手に不透明な定規を持ち、新聞の『死』という文字がありそうなあたりを読む前に予測して隠し、大丈夫そうな周辺から読んでいく」

という対策を”開発”して、社会面も含め新聞を読んでいたくらいです(「新聞を読んで何かをする」という学習課題は、小学4年から、通っていた公立小学校で始まっていました。最初は「分からない言葉を調べる」「読めない漢字を調べる」でした)。

しかも、ちょっと衝撃を受ける出来事があると、すぐ「食事が出来ない」レベルで食欲がなくなります。2011年の東日本大震災では、震災後3週間で5kgの体重減。2013年5月、生活保護法改正案が国会に提出されてからは、2週間で5kgの体重減がありました。美味しい食物や酒が大好きで、健啖家ぶりを良く表しすぎた体型をしている私をご存知の方は、信じられないかもしれませんが、本当にそうなのです。

ふだん生活保護問題で、政府や厚労省や与党に対して歯に衣着せず、非難コメントを山のように頂戴しても平気へいちゃら(と見られている)、まるでバリケードのような私からは、けっこうデリケートな部分を想像していただくことは難しいかもしれません。でも事実としてそうなので、対策しないわけにはいきません。

自分の心身を守り、アウトプットを続けるために、私は熊本地震のニュースについては「最小限に見る」を心がけることにしました。

見れば、私は感情的に巻き込まれてしまい、「ご飯食べられない」を含む何らかのダメージを受けてしまいます。

それは、熊本・大分で被災された方々に対して、何のメリットももたらしません。

ダメージ受けて仕事できなくなるくらいなら、ダメージ受けないようにして仕事すべき。

できれば余分に稼いで、少しでも寄付すべき。

できればなるべく早期に、現地に行き、自分の立場だからこそ、より良く事実を把握し伝えやすいことを世の中に伝えるべき。

とにかく「ニュースを見てヘバる」はやめる!

そのように決意しました。

以後、熊本地震のニュースは、1日1回、最長5分間に限ってチェックするようにしています(記事を書くために参照する場合などは、この限りにあらず、ですが)。

日常は日常のまま、遊びも何もかも「自粛」しない

翌週は、もともと沖縄行きを予定していました。

目的は、4月23日に開館1周年を迎えた「恩納村文化情報センター」に行くこと、さらに貧困問題と対策への取り組みについて「日本最先端」と思っている沖縄で、さまざまな方々に会ってお話を聞き状況を知ることでした。

恩納村文化情報センターには、開館準備段階から縁あって関心を寄せ始め、2015年4月23日の開館後は、概ね3ヶ月に1回訪れています(訪れることが可能なように、他の仕事と同時に……などの工夫は、最大限に行っています)。

今回の沖縄には4泊5日で行きました。もちろん、恩納村文化情報センターも訪れましたが、取材等はふだんの60%程度にペースを落とし、なるべく「ぼんやりする」「遊ぶ」を心がけました。熊本地震による「食欲ない」などのダメージが、まだ断続的にあったからです。

といいながら、けっこう仕事はしていましたが、それでも海開きした翌日のビーチで泳ぎ、ショップの方々の素晴らしい「合理的配慮」のもと、海の沖合で人生初シュノーケリングも楽しみました。そのことはツイッターなど、SNSに積極的に書き込むようにしました(私はもともと水泳が得意です。車椅子を必要とする筋力の問題はありますが、水に入れば姿勢維持のために筋肉を使わなくて良く、比較的自由に動けます。また「関節は反対側には曲がらない」をうまく使えば、泳いで前に進むこともできます。水泳が不得意な健常者より速いかも)。

「自粛」「不謹慎」は、少なくとも被災地の方々には何の役にも立ちません。自粛への圧力や「不謹慎」という非難を「自粛」していただくためにも、小さくとも一石くらい投げておかなくては、と考えました。

たぶん、非被災地での通常の経済活動は、感情の問題を度外視すれば、被災地に最も役立つことの一つです。被災地支援の財源にもなるのですから。

沖縄県・恩納村文化情報センター(図書館)で行われていた企画展示「がんばれ熊本!」
沖縄県・恩納村文化情報センター(図書館)で行われていた企画展示「がんばれ熊本!」

現地に行くまでもなく分かることも多数

阪神淡路大震災・東日本大震災では、多数の障害者が犠牲になりました。同じように地域全体が被災する中、障害者はより被災しやすく、逃げにくく、死にやすく、避難所等での支援につながりにくい傾向がありました。このことは多数のデータによって明らかになっています。

また、そもそも生活基盤が脆弱であったり、まぎれもない貧困状態にある人々は、障害がなくても、より厳しい状況におかれるでしょう。東日本大震災に関しては、その後、生活保護を利用している方々・ケースワーカーの方々・支援者の方々など多くの方が、現在も継続する深刻な影響を語っておられます。

おそらく今回の熊本地震でも、放っておけば、同じなりゆきを同じようにたどるしかないでしょう。過去の事例を調べ、関係者の話を聞き(近過去ですから可能です)、その後どうなり、現在はどうなのか。良くない成り行きを途中で止めたり方向を変えたりするために、いつ、何が出来たか。「これから起こる」を待たなくても、調査し報道することができます。

私には、自分が車椅子を利用していることに加え、「自動車の運転免許を取ったことがなく、もちろん持ってもいない」といった、現地で取材するにあたって大きなハンデとなる問題が多数あります。そこで最初から、ただでさえ大変な時期に、ただでさえ大変な移動と現地滞在をすることは断念しました。時間・体力・気力などの資源は、自分が東京にいて、26年間在住している地域に根を張っているからこそ出来ることに向けることにしました。

しかし、「遠くない将来に行ってみなくては」という思いはあり、機会と方法と時期について検討しています。

東日本大震災のときは、5ヶ月後の2011年8月に北海道浦河町(防災対策に極めて積極的に取り組んできた自治体の一つ)、7ヶ月後の2011年10月に仙台市に行き、いずれの地域でも、特に障害者の被災とその後について取材したり、ボランティアの一員として被災地障害者センターで少しだけ活動したりしました。もちろん、震災の爪跡は、5ヶ月後や7ヶ月後にも容易に見いだせました。

しかし「震災に襲われている」状況そのものを、何ヶ月も後になってから生々しく現場で知ることは、不可能です。

直後に行けないのは仕方ないとして、なるべく早く行き、過去の大震災の経験を踏まえて改善されたのは何か・過去の経験によっても改善されていないのは何か・今回新しく見つかった問題は何か・そこで障害者たちは何を経験し、感じ、思っているのか。

まず、私自身が知る必要はあるでしょう。伝える必要のあることがらは、私自身が遅ればせながら知ることがらのなかに、必ずあるだろうと考えています。

個人にできることは、たとえ報道の立場でも、あまりにも小さい

東日本大震災の「その後」は、取材され報道されてはいますけれども、5年以上が経過し、震災そのものへの関心が薄れてきています。どうしても関心を惹きにくいテーマになっている現状があります。

また時間が経過し、復興の枠組みが数多く設けられています。その枠組みに乗りやすい方は復興のレールに乗っています。その一方で、そもそも存在が知られにくい・地域コミュニティの中にいることが忘れられている・復興の枠組みが想定していない困難を抱えている方々は、さらに見えにくくなり、さらに忘れられる傾向にあります。背景そのものへの関心が薄れる中で、さらに困難をこじらせて一人で苦しんでおられることも、多々あります。

もちろん、私自身、お話を伺い、状況を拝見し、伝える努力はしています。しかし、充分ではないと思っています。

個人レベルで可能な最大の貢献は、現実を知り、政権に関心を向け、政策を動かす努力

では、誰がいつまで、どのような関心を持ち続ければ十分なのでしょうか? 関心だけでは足りません。そこで必要とされる有形無形の資源を、誰がどう確保して供給すればよいのでしょうか? 責任主体としてカネをはじめとする資源を確保して供給するとなると、少なくとも都道府県、大災害では国家レベル以上の話になるでしょう。

個人に出来ることは、あまりにも些少です。

次から次に起こる災害に、少額といえども募金するだけでも、一般の家庭には大きな負担となるはずです。出来ても一時的でしょう。

このことを、どう考えればよいのでしょうか?

2010年、宮崎県で口蹄疫が発生したとき、私は「80%は回復したといえるまでに20年かな」と考え、20年間続けられる何かを20年続けることにしました。

当時の私は、これまでの人生で最悪の時期のまっただ中でした。仕事は、ほとんど出来ない状況に追い込まれていました。「障害をきっかけとして就労その他に困難を抱え、努力し、あがいたけれども、結局は生活保護しかなくなった」という「中途障害者あるある」ルートの、生活保護しかなくなる3歩くらい手前にいたと思います。私だけがそう思っていたわけではなく、周辺にもそのように見られており、そのように言われたことが何回もあります。

当時の私が「これなら、今後20年間続けられるかも」と思ったのは、

「新宿に行くとき、宮崎県のパイロットショップで必ず何か買ってくる」

でした。今も続けています。

私も含め、多くの方々にとって、こういったことが精一杯ではないかと思います。

でも、そんなささやかな「貧者の一灯」は、現地の現実の問題に対しては、あまりにも「焼け石に水」です。

それ以上の何かをしようとしても、出来ることの最大限は、

  • 災厄に見舞われて受けたダメージがまだ引きずられている中で闘い続けなくてはならない人々のことを、忘れず、関心を持ち続ける
  • その人達のダメージと困難を、金額としてイメージする
  • 必要な金額の何かが、その人達に必要な現金その他の何かをもたらしているかどうか、政権に関心を向け(「監視する」と言うほうが適切かもしれません)、政策を動かす努力をする
  • その人達が自ら声をあげて訴えるのを応援する

程度かと思われます。

こんなことを考えながら、新宿に行くたびに、私は宮崎県のパイロットショップで、大好きな干しタケノコを買っています。干しタケノコのストックが十分だったら、鮎の干物とか。これからの季節なら「冷や汁」用の味噌もいいですね。

私自身、宮崎県は未踏の地で、口蹄疫問題のその後について、何の貢献もしていませんが……。

これからのために、そして次の大災害のために

では、熊本・大分、その他過去の大災害・大災厄の被災による影響が未だ続いている地域のために、もう少しマシな「貧者の一灯」を捧げることは、できないでしょうか? 

「国レベルよりは小さいけれど、地域レベルよりは大」の動きを作ったり応援したりすることなら、出来るかもしれません。

発災直後の被災地への連絡、もう一考を

「発災直後に被災地に電話しない」は、そろそろ常識になりかけてきた感があります。

電話でなく携帯メールなら、「本人が見たら返事くれるだろう」ということで、少しはマシではあるのだろうと思います。

しかしSMSやメールの一部は、東日本大震災の時、被災された方に思いもよらぬ迷惑をかけていたようです。

通信が復活して以後、被災地の方々は携帯電話やスマホで、機種によっては大量の未読メールを受信する必要がありました。携帯電話やスマホのバッテリーの、ただでさえ乏しい電力が消費されたため

「気持ちはありがたいけど、殺意を覚えた、泣きたかった」

という話も聞いています。簡単に充電出来る状況でもなかったはずですしね。

また、災害用伝言ダイヤルの範囲を、被災地そのものだけではなく、周辺地域にも拡大してほしいとも思いました。

熊本震災時の私には一人だけ、福岡県に、すぐ状況を尋ねたい血縁者がいました。しかしその血縁者には、2013年秋以後、携帯メールを送れない状況になっています。

電話は可能なのですが、夜分のこと、相手の状況がわからない以上は、なるべく遠慮したいところです。

そこで災害用伝言ダイヤルは使えないかと試してみましたが、福岡県は対象外でしたので、諦めました。

その血縁者に、通常の電話連絡が出来たのは、1週間近く後になってのことでした。

「いくらなんでも『電話すること自体が回線を逼迫させて迷惑』といった問題は消えているだろう」と判断できたからです。

もし福岡県でも災害用伝言ダイヤルが使えていれば、と今でも思います。

そうして悪い理由があるのかなあ? とも思います。

周辺の被災が軽い地域・被災していない地域でも災害用伝言ダイヤルが使えれば、「ふだん使い慣れておく」が可能になるでしょう。

非常時に「良くない」とわかりつつ、被災地に電話しようとする人は、何も回線を機能させなくしたいわけではなく、ただ心配で心配で、一刻も早く連絡を取りたいだけであることが多いだろうと思います。

その時に代替手段を思い出してもらうためには?

ふだんから、ときどき、その代替手段を使ってもらうのが一番ではないでしょうか?

「災害用伝言ダイヤルを利用可能にするとき、被災都道府県の周辺都道府県も」という運用をすれば、可能になります。

結局はふだんの備え

2011年8月、北海道浦河町を訪れたことには、理由がありました。

浦河町ではその何年も前から、

「災害時の行動を、重度精神障害者を含むあらゆる人々に提供し、理解していただき、行動に結びつけるにはどうすればよいか」

という検討・環境整備・実行が、浦河町・浦河べてるの家・国立リハビリテーションセンター研究所合同で行われていたからです。

東日本大震災では、このプロジェクトの有効性が「みなさん無事だった」という形で確認されたわけです。

避難経路・「ここは海抜◯メートル」という表示などは、浦河町では東日本大震災前に整備されていました。

このプロジェクトが始まったきっかけは、浦河町に済む精神障害者が「津波が不安で眠れない」という状況に陥ったことでした。「その人が安心して眠れるようには?」という問いが、町全体のふだんの防災の備えを向上させたのです。

この経緯は、2011年に記事化しています。ご関心ある方はご一読ください。

掛け声は「4分で10メートル!」 障害者たちが巨大津波から全員無事に避難完了“地震慣れした過疎の町”北海道浦河町の教訓 災害に強い町づくりを、過疎の町と障害者たちに学ぶ【前編】

まず、個より始めよ――被災障害者の過酷な現実から考える防災のあるべき姿災害に強い町づくりを、過疎の町と障害者たちに学ぶ【後編】

これからも「見えていないものごと」に関心を

熊本地震の今とこれからについては、たとえば「個人の職業と経済」に限定しても、「何か想定外があるに決まっている」という意識が必要でしょう。影響は熊本・大分にとどまらず、少なくとも九州全域に及ぶ可能性があります。

地域的に、どこまで拡がっているのか。時期的に、いつまで引きずらざるを得なくなるのか。

そういった意識のもと、引き続きのご関心を、隣の福岡県出身者としてお願い申し上げます。