「乙武洋匡氏が5人の女性と不倫していた」という報道に対し、数名の著名人が「介助を含んでいるのではないか」という視点からのコメントを発表しています。
異性による介助は、障害者にとって何を意味するのでしょうか?
まず、乙武氏不倫騒動に関する私見
正直なところ、
「よそんちの亭主の浮気なんて、どうでもいい」
です。
パートナーさんが怒らずお詫びを発表したことに対しても、「保守の支持層には受けるんだろうなあ」とは思いますが、ご夫妻それぞれが「それでいい」と思っているのなら、お二人の問題です。他人がとやかくいうことじゃないと思います。
もしも、職権を利用して立場の弱い女性に性的関係を強要したというのなら話は別ですが、報道されている限りにおいて、そういうことはなかったようです。
政界入りして自民党から出馬する可能性が高いという乙武氏に対し、「許せない」と思うなら、本人あるいは擁立政党に投票しなきゃいい。当選したら、その後は、仕事ぶりと結果から評価したらいい。
私は、そうしか思っていません。
「介助を含む」とする著名人コメント
2016年3月26日、社会学者の古市憲寿氏は、下記の連続ツイートを行いました。
忘れている人がいるかも知れないけど、乙武さんには手足がありません。だから自分では服を脱ぐこともできないし、相手の服を脱がせるなんてとてもできない。そして、多くの人と違って一人で欲望を処理することもできません。(若い頃は試してみたらしいけど…)(1/4)
「不倫」については、TVで知ったであろうお子さんのことを思うと胸が痛むし、庇う気はありません。
ただ…今回の現場で起こっていたことは、普通「不倫」と聞いて想像する光景とは、かなり違っていた気もするんです。(2/4)
「不倫相手」がしていたことは、愛情表現としての実質上の介護に近いものだったろうし、奥さんは3人の子育て中だった。
確かに「不倫」には違いないんだけど、当事者しか知らない、何か別の名前で呼んだほうがいい関係がそこにあったんじゃないのか…?そんな風に想像してしまいます。(3/4)
いま僕が間違いなく言えるのは、乙武さんが奥さんや子どもたちと離れたくないってずっと思っていたし、今もそうなんだろうということ。(4/4)

ううむ。
「愛情表現としての実質上の介護」が性的な何かを含んでいたとしたら、もっと問題が大きいんです。
不倫に「服を脱がせてもらう」「お風呂に入れてもらう」が含まれていたということは、障害者であろうがなかろうが起こりうることです。
その範囲の話を、なぜ「介護」と呼ぶ必要があるのでしょうか?
障害者に対する通常の「介護」とは
公的障害者福祉には、「居宅身体介護」というメニューがあります。障害者の入浴・洗身・洗髪・排泄・爪切りなど、文字通り身体にかかわる介護です。
介護を行うのは、契約した介護事業所から派遣されるヘルパーさんです。
障害者は、ヘルパーさんを指名してはいけないことになっています。派遣されたヘルパーさんに不満があるときは、介護事業所に苦情を申し立てたり変更をお願いしたりすることはできます。その後に起こることは、何の連絡もなくヘルパー派遣を停止されたり、真偽の確認のしようもない理由で契約を停止されたりすることである場合も(いずれも経験あり)。
自分の家に入って自分の身体に触れる人が、自分で選ぶことのできない良く知らない誰かであることは、それだけでストレスフルなことです。「自分で(あるいは、仲間の障害者数人と)介護事業所を営業する」という方法で、自分でヘルパーさんの面接・採用を行っている障害者もいますが、誰にでも出来ることではありません。
自分で「付き合いたい」「エッチしたい」と思った相手に、ホテルでエッチのために必要なこと(服を脱がせてもらうとか)をお願いできるという状況は、障害者が「介護」という言葉から連想するものではありません。
異性介護は人権侵害のシンボル
1970年代までの重度障害者は、生活の場として「家族のもとか、施設か」のどちらかしか選べませんでした。家族介護、親が老いたり亡くなったりしたら施設に、ということです。
施設の中では、女性の重度障害者に対して、体力筋力の面から、男性の介護職員の介護が多くなりがちです。といいますか、施設に入れられた障害者が介護や介護者を選ぶことは無理です。1960年代や70年代の女性障害者の手記には、
「浴室に並べられ男性介護職員に芋を洗うように洗われた」
といった記述が、屈辱感や、ときには性的なものを含む暴力とともに見られます。
「家でも施設でもなく、地域で」という動きは、1970年代、脳性まひの新田勲・(三井)絹子兄妹による運動をきっかけとして障害者の間に広まりました(参照:「介護保障の原点―府中療育センター闘争と新田勲」(大野更紗))。家を追われ、施設に入り、施設を出た障害者たちは、義務教育さえ受けていないことが多く、また障害も重く、就労が可能な状態ではありませんでした。生計の手段として利用できる唯一のものは、生活保護。
障害者たちは、この後、生活保護を文字通り「生存の基盤」として利用し、肯定的に意味づけしていきました。最初はボランティア頼みだった介護を職業として成り立たせるために、生活保護に「他人介護料」というメニューを設ける働きかけもしました。これが日本における最初の、「公共から出される介護の給料」です。
いずれにしても、居宅介護においても、やはり体力筋力の問題から、「どうしても男性介護者のほうが」という場面は発生します。
施設の中でも、地域においても、「選べなくてしかたなく異性に介護される」という状況は、今も発生し続けています。
身動き取りにくい女児や少女が男性介護者に、同じく身動き取りにくい男児や少年が女性介護者に、「大切なところ」を含む身体を預けざるを得ない状況を、考えてみてください。
もしもすべての障害者が、充分な経済力をもっており、介護を受ける相手と場所を自由に選ぶことができ、「異性」というオプションもあり、もちろん選ばない自由もあるのなら、異性介護をことさらに問題にする必要はないのです。
一部にはそういう障害者もいます。充分な経済力や家族のバックアップのもと、積極的に男性介護者を選ぶ女性障害者もいます。
しかし障害者全体の現状は、あまりにも「選ぶ自由」から遠すぎます。
「異性介護にNo」も言いづらい女性障害者の事情
女性障害者が「異性介護はイヤだ」といえば、介護者は女性となります。
介護労働につく女性は多いので、「介護者がいない」という問題はありません。
しかし体力筋力の問題で、女性介護者が身体を痛めがちです。
すると、女性介護者の健康と労働環境を守るためにという視点から、
「女性障害者は、異性介護がイヤなら、管理・介護しやすい施設へ」
という主張も起こるのです。
このような「究極の選択」を避ける動きはありますけれども、十分な力を持てていません。
現在は、以上の状況をふまえ、女性障害者に対する男性の介護だけではなく、異性介護自体が「原則、なくすべきもの」と考えられているのです。
「介護」という言葉を性に関して使うのは時期尚早
性や恋愛のからむ問題に対し、安易に「介護」という言葉を使わないで欲しいと私は思います。
不倫を「介護を含む」と言わなくても、いいじゃないですか?
すべての障害者に充分な経済力があれば、性も擬似恋愛も自費で購入できます。時には、「美女あるいはイケメンによる異性介護とセット」で、ということもあるかもしれません。
でも、多くの障害者にとって実態はそうではなく、むしろ
「実質的に拒めない異性介護に、実質的に拒めない人権侵害がついてくる。ときには、いらない性的行為までついてくる」
が珍しくないのです。
なぜ現状がこうなのか。改善して何がいけないのか。
乙武氏の不倫騒動をきっかけに、どうぞ、大いに考えていただければと思います。