「地下鉄サリン事件」のサリンガスに刺激臭があった件など
1995年3月の「地下鉄サリン事件」から、20年が経過しました。
当時、サリンよりも危険なガスが数多く使われている半導体の職場にいた私は、世の中とはかなりズレた感慨を抱いていました。
もちろん自分が地下鉄に乗っていて、あるいは地下鉄の駅で、有毒ガスの被害に遭いたくはありません。
自分の大事な人々、自分の身近な人々も。
不幸にも被害に遭われ、生命・健康・社会生活など数多くを犠牲にされた方々やそのご家族に対しては、いまだに「言うべき言葉を持たない」が正直なところです。
「霞ヶ関? どこだっけ?」
当時の私の職場は、東京都と山梨県の県境近くにある、電機メーカーの半導体事業部の敷地内にありました。敷地内には、量産工場・試作工場・中に実験設備を持つ研究所などがありました。私のいた部署は、事業部づきの研究部門でした。
今でこそ、私は生活保護問題を中心に厚労省にはしばしばお邪魔しており、所属している記者クラブが有楽町にあったりもするので、
「霞ヶ関方面への定期券を買ったほうがいいかな?」
と思うほどなのですが、当時の私にとって、霞ヶ関は
「東京都心部のどこかにある省庁街らしい」
以上の何でもありませんでした。
「霞ヶ関で毒ガス中毒者が多数発生しているらしい」
というニュースには、勤務先で昼休みに接したのだったでしょうか? もはや、記憶あいまいです。
理科系学部しかない都心部の大学で学部・修士の6年間を過ごし、しかも勤労学生で、平日は職場と住まいと大学の移動でドタバタ。休日は休日で「大学の次」を視野に入れたさまざまな活動で多忙。そんな学生の行動範囲に、「霞ヶ関」は入ってきませんでした。
就職後は東京23区の西端から、東京都の西端への通勤。やはり、「霞ヶ関」は入っていませんでした。
ただ、一次上司・二次上司は東大出身でした。同級生やかつてのサークルの仲間が官僚になっていたりもする彼らにとっては、地下鉄サリン事件は、「身近な誰かが巻き込まれているかもしれない大事」であったようです。
私のかつての同級生には、官公庁に就職した人・高卒で官公庁に就職した後で大学に入学していた人もいたのですが、全員が気象庁や大学の技官でした。「そのとき霞ヶ関駅にいたかも」という可能性は非常に低かったわけです。
大きな被害を生んだ大事件であることは認識していたものの、「我が身・我が近辺にふりかかった大事」という感じはしていませんでした。
以下に紹介する感慨は、そういう立場、他人ごとであるから言えることばかりだと思います。
「ん? サリンが臭った?」
ニュースに接した頃には、サリンガスであることが既に判明していたような記憶があります。
「なにそれ?」と思った私は、職場の図書室(研究部門があるので、図書室もあります)で化学物質一覧を調べた……のだったでしょうか。帰宅してからパソコン通信で、化学の専門家である友人に教えを乞うたのでしたでしょうか。このあたりも記憶あいまいです。
いずれにしても
「サリンとは、殺虫剤の開発の過程で発見された神経毒ガスで、非常に強い毒性を持ち、無臭、産業界で応用の可能性があるわけではなく、用途はほぼ化学兵器のみ」
は、その日の夕方か夜までに判明したように記憶しています。
その頃には、「刺激臭がして中毒症状が出た」という被害者の声が報道されていたりもした気がします。ん? 無臭のはずなのに? 臭ったとは? 臭う不純物が混じっていたりしたのかな?
「臭ったことに助けられた面もあったのでは?」
私は、
「臭ったことに助けられた面もあったのでは?」
と思いました。
危険物が「てんこ盛り」の世界に、1985年からどっぷり浸り続けていた私の感覚は、世間一般と激しくズレていたと思います。
その感覚をクドクドしく説明すると
「臭いを知ることができ、しかも『臭いに気付いたらすぐ死ぬ』というほどの毒性ではなく、従って、どの範囲の濃度が比較的高いのかを特別な用具によらずに知ることができ、どこが高濃度らしいのかが臭いで判明するためサンプル採取がしやすく、正体を明らかにしやすく、しかも解毒剤が存在。正体を知ることができて対処方法もあって、まだ助かったのでは?」
です。もし本当に無臭だったら、どれほど被害が拡大していただろうかと思います。
半導体工業の世界では、
- 臭いのない毒ガス
- あまりにも毒性が強く、臭うような濃度なら即死するため、臭いが判明していない毒ガス
- 揮発性が高いため、濃度の高い状態が維持されにくく、正体を明らかにしにくいガス
- 解毒剤の存在しない毒ガス、あるいは、ダメージがあまりにも激烈なため解毒剤があっても間に合わない毒ガス
といったものが、非常に多く使用されています。
一般的には「硬いもの」というイメージのある半導体工業ですが、かなりの部分が化学工業に近かったりします。
以上のどれかに該当する、サリンよりも恐い毒ガスのいくつかが、半導体工業では比較的「ふつう」「馴染み」のものであったりします。
工場や研究施設に入ると、そういったガスのボンベが廊下にあったり、壁や天井に配管があったりします。
もちろん「ちらり」とでも漏れたら大惨事です。ですから、毒ガスのボンベが廊下に転がっていたりすることはなく、専用の容器に収められ、厳重に管理されています。
また配管のあちこち・ガスを使用する装置の中には、地震等の緊急時にガスの流れを遮断する仕組みが取り付けられています(1995年の阪神淡路大震災のとき、近畿地方にあった半導体工場では、それらが完全に動作したようです)。
どっぷりその中に浸っていると、「厳重に管理されているんだから大丈夫」と思います。そう思わないと、怖くて職業生活を営み続けられません。でも、2000年に半導体業界の「中の人」をやめた後は、
「ああいうものが身近にある環境で平気だった自分って、やっぱりどこか、おかしかったよね」
と思うようになりました。半導体業界の展示会で、もと技術者だった営業の方とそういう話をして
「お互い、よくあんな現場に平気でいられましたよねえ」
と盛り上がることもありました。
なぜ、オウム真理教が、VXガスやサリンガスをわざわざ合成することにしたのかは知りません。化学兵器として実績のあるガスへのこだわりでもあったのか? とは思いますが。
サリンガスが臭ったあたりを見るに、何か不純物の混じるような合成だったのでしょう。
当時
「一流大学の修士課程を修了したエリートなのに、カルト宗教に参加してテロ攻撃の武器を作るなんて!」
と騒がれた土屋正実氏は、そんなに実験が上手な人ではなかったのかもしれません。
私は今でも、オウム真理教の人々が
「わざわざ合成するのではなく、つてをたどって半導体製造用の毒ガスを入手して使う」
という発想をせず、あまり上手ではないけれどもサリンガスを合成し、臭う不純物を除去できなかったことについて、
「その浅知恵のおかげで、被害が小さくなったという面もあるかもしれない」
と考えています。
「こんな構造の地下、最初から作ったらいけない気が」
その数年後、私は霞ヶ関に通勤する身となりました。
ご縁があって、半導体界隈のパートタイム・エンジニアとして、ドキュメントエンジニアリング(という職種があります)・テスト・プログラム開発の一部を担当することになったのです。ただ、だんだん、よくあるパターンで、ドキュメントエンジニアリングの比率は小さくなっていき、担当する業務のほとんどがプログラム開発になっていきましたが……。
そして、あるとき、
「ああ、ここが、あの、地下鉄サリン事件の霞ヶ関」
と気づきました。
しばしば言われる
「官公庁が集中しているからテロの対象として狙われた」
は事実だったのでしょう。でも、それ以上に
「複雑でわかりにくい構造で、被害が広がりやすく、対処が難しく、避難が難しくなりそうな構造だから狙われた」
ということもあったのではないかと思いました。
1984年までを福岡市で過ごした私は、天神地下街が新規に建築され、地下鉄一号線が開通した時期をリアルタイムで知っています。天神地下街は太く長い一本の地下街で、地下鉄路線と接続された後も、比較的シンプルな構造を保っています。もともと、東京に比べて大きな道路が多かった福岡で、地下街・地下鉄がなかったところに新しく作ったからこそ、出来たことです。
同じことを、ビジネスを継続させながらの開発が延々と続いている東京都心部で実現させるのは無理でしょう。
しかし、
「最大の危機管理は、危機管理の難しい構造を作ることを最初から避けることでは?」
という疑問を持ち、現在に至っています。
以上、世間とかなりズレていた人間が、「地下鉄サリン事件」に関連して抱いた、世間とかなりズレた感慨です。
表明されていないだけで、多様な背景を持つ多様な方の多様な感慨が、当時も今もあることでしょう。
「当時思ったことがあったけれども、とても言えなかった。20年が経過した現在なら言えるかな?」ということも多々あることでしょう。
本記事が、そういう思いや意見が数多く語られるきっかけになれば、と思います。