入試の夜、子どもにどう声をかけたらよいのか? - 受験経験から、親の年齢になった立場から

センター試験も終わり、いよいよ本格的に入試シーズンに突入。

試験を終えて帰ってきた子どもは、親にどう接して欲しいのでしょうか?

子どもだった立場・子どもはいないけれども親の年齢になった立場から、考えてみました。

「入試に落ちたら時計を買ってやる」と言った花森安治さんの父

花森安治さんは、「暮しの手帖」を創刊し、1978年に亡くなるまで編集者として関わり続けていました。優れた編集者であり、グラフィックデザイナーでした。

生前のエッセイの中に、確か旧制中学受験の経験について書かれたものがありました。花森さんが亡くなったとき、私は中学2年か3年くらいでしたから、それ以前の「暮しの手帖」ではないかと思われます。

入試直前のあるとき、お父様が花森さんに

「もし落ちたら、ほしがってた時計を買ってやるよ」

と声をかけたのだそうです。

通常なら「成功したら賞賛(ご褒美)、失敗したら叱責(何もなし)」といったところでしょう。

「成功しなくてはならない、失敗は許されない」と子どもにプレッシャーをかけることも普通に行われているでしょう。

花森さん自身、お父様がどういう意味で言ったのか解せなかったそうです。

私はそこに、お父様の

「失敗したからといって人生が終わるわけじゃない、でもとりあえず、ベストは尽くしておいで」

というメッセージを読み取りました。

「どうだった?」と聞かれるのが一番辛かった、受験生時代の自分

私は「落ちても公立中学校があるさ」と呑気に構えられる中学受験のあと、高校には事実上のエスカレーター進学だったため、6年間「入試」というものを経験せず、高校3年でいきなり「落ちたら行き先のなくなる受験」に向き合うこととなりました。学校の定期試験とも資格試験とも、過去に経験してきたどの試験やコンテストとも性格の違う大学入試に、たいへん緊張していました。

私は3人きょうだいの一番上だったので、両親にとっても初めての「子どもの大学入試」です。私には「下のきょうだいのモデルとなるように」というプレッシャーもありました。私が良い成績・誇れる進学をすると、下のきょうだいが「見習う」のだそうでした。下のきょうだい2人はお勉強にあまり適性を持っていなかったので(それぞれ、別の才能に恵まれましたが)、私は内心

「見習うどころか反発するんじゃないかなあ」

と思っていましたが、入試で結果を出すことは他ならぬ自分のためにも重要です。

でも、そもそも進学校に行けてないんです。私の卒業した高校には、当時はまったく進学熱がありませんでした。入試のためのトレーニングやサポートは高校ではほとんど受けられず、頼りになるのは「大学入試ラジオ講座」だけ。隣の部屋の弟から「バカみたい」と言われながらラジオにしがみつき、高校3年の秋から現役クラスの特待生として通い始めた予備校でやっと受験勉強らしい受験勉強が始められたという状況。それでも共通一次(現在のセンター試験の前身)は700点台(1000点満点)の真ん中くらいでしたか。理科で、解くのに夢中になって途中からマークを忘れ、70点くらいの失点をしたのがイタかったです。それでも今から見て「あの環境でよくやった」と思える成績ではありました。しかし両親、特に母親が強く進学を望む九大は難しい成績でした。

理科の大失点には、提出のときに気づきました。親の期待するような結果が出せないのは明白でした。帰宅した私に、玄関で迎えた母親は

「どうだった?」

と声がけしました。

私はなんと答えるべきか分かりませんでした。「できた」と嘘は言えない。でも本当のことを言ったら親の期待に応えられない。モゴモゴしていたら、母親は

「なぜ、『大丈夫』と自信を持って言えないの」

と怒り始め、母親の弟(故人)が九大を受験した時の話をしました。その話は何十回も聞いていました。非常に学力優秀な努力家だった母親の弟は、入試のあと「よく出来た」と満足して帰ってきたとのこと。合格発表の日、ラジオで名前が間違って読み上げられてしまったのを聞いて「あれは自分だ」と平然としており、あとで訂正があって、やはり本人だったということ。

ちなみに母親自身には、大学受験の経験はありません。女子の四年制大学への進学がほとんどなかった時期なので、それは普通ではありましたが。

共通一次(当時)の失敗を3月まで引きずり、浪人決定

私は共通一次の失敗による精神的ダメージから早く立ち直りたいと思いました。でも、気持ちを明るく保とうとして明るい表情になっていると母親が「自分の心配している気持ちがわからない」と怒り、暗い顔をしていると「不合格だったら……」とやはり怒るのです。

母親は、

「とにかく長子に大学入試で結果を出させなくては」

という気持ちでいっぱいだったのだろうと思います。

しかし混乱してしまった私は、家の中での表情作りや立ち居振る舞いで消耗してしまい、1月、2月と心身とも疲弊していき、すべり止めの私大受験にもことごとく失敗し、3月の二次試験を迎えました。

国立では九大以外の大学を受験することが考えられない家庭環境だったので、九大に出願したのですが、二次でひっくり返せるほどの学力はなく、浪人確定。予備校の浪人クラスの特待生試験に合格していたのは不幸中の幸いでしたが……。

入試を特別視するのは良くないのでは?

その後の私には塾や予備校で、あるいは家庭教師として、中学・高校・大学受験の指導をする機会が何回かありました。

東京理科大の夜間部の学生に受験指導を依頼する親は、今ならいないかもしれません。でも当時は、

「銭湯で知り合った寿司屋のおかみさんが、私が教職課程を取っていると知って、娘の定期試験の指導を依頼。報酬にはお寿司がプラスされる」

といったことが結構ありました。また職場の大先輩に「うちの娘を指導して」と頼まれて家庭教師を請け負ったことも何度かあります。大学院に入ると、昼間部出身の同級生と同様、ごく当たり前に塾や予備校で教えられるようになりました。その時には教員免許も取得していましたし。

それらの経験から、私は

「入試を特別視しすぎるのは、かえってよくない」

と確信しています。

場合によっては、

「人生がかかっている」

というプレッシャが、確かにあります。

でも、不合格でも人生は続きます。

「諦める・断念する・挽回する・次の機会を狙う……」

といった判断と、その判断に基づく次の行動を起こさなくてはなりません。

これは、大人が仕事で日常的にやる「PDCAサイクル」そのものです。

受験準備と受験計画が「Plan」、入試は「Do」、入試結果は「Check」、その後の行動は「Action」。

もちろん、「その日の勉強をする」「模試を受ける」といったところにも、さらに小さな単位の「PDCAサイクル」があります。

私は高校1年で大学入試を意識し始めたときから、「これは将来、職業人となるための訓練」と考えていました。そう考えた経緯はよく覚えていませんが、今は、「たぶん正解だったんじゃないか」という気がしています。

「入試」という特別な機会や特別な経験があるわけではなく、おそらくは0歳台から局所的に始まっている

「自分の人生を考え、軌道修正しながらも最後まで歩み、作り上げる」

の一部として入試を捉えるならば、親の振る舞いはどのようになるでしょうか?

ちょっと緊張度は高いけれども、入試の今日も日常の一日

私には人間の子どもを持つ機会がなかったのですが、もし受験年齢の子どもがいたら、受験準備時期には家事など「家族の一員としての役目」を、なるべく免除しないだろうと思います。

入試は特別なことではありません。

大人は外で稼ぐ仕事をし、家では家の仕事をし、家族として過ごす時間を持ちます。

18歳、大学受験年齢は、もう「プレ大人」なのですから、大人の世界にありえないことは「プレ大人」にも許すべきではありません。

役割として、あるいは日課としての家事には、もう一つ、重要な意味があります。

家の仕事での役割を果たしている子どもは、入試結果がどうであろうが、家庭に具体的な貢献をしている人間としての価値までは失いません。

毎日同じように繰り返し、少しずつの向上や慣れによる効率アップを見ているであろう家事の日課を「今日も同じようにこなす」ということは、入試結果やその影響による気分の変化を最小にするために役立ちます。

たとえば夕食の皿洗いが毎日のノルマだったら、

「今日もこんなに手早く、きれいに皿を洗える自分エライ!」

と思えるでしょう。もしも万一入試の結果が全く思わしくないものであったとしても、夕食後に皿を洗えば、「それで人間として否定されたわけじゃない」と実感できるでしょう。

この考え方は、なにも家事に限ることはないと思います。

「いつもと同じようにTVを見て、いつものように会話する」

でも似たような効果はありそうです。

もし私に、今年受験学年の子どもがいて、今日、センター入試から帰ってきたら。

「今日も、昨日と同じような一日。子どもに入試という出来事はあるにはあったけれども、日常の一日」

と自分に言い聞かせるでしょう。

たぶん、昨日の朝から言い聞かせているでしょう。

子どもは、入試の分だけ疲れてはいるでしょう。帰ってきたら、私はまず、

「おかえり、お風呂沸いてるから入っといで」

と言いたいです。もし日頃、お風呂沸かしは子どもの仕事であったとしても。

お風呂が済んだら食事。

入試結果は、本人から話さないようなら、「ああ、話しにくいような出来だったんだな」と解釈して聞きません。

本人が話してくれるなら、成功でも失敗でも歓迎します。

あまり疲れているようだったら、夜の家事ノルマは免除できるように考えます。

夕食後は、お友達とのSNSでの会話でも、「ニコ動見まくる」でも、なんでも好きにしてもらいます。

親として、絶対にかけておくべき言葉は一つだけ。

「あんまり遅くならないうちに寝なさいよっ!」

そして親は親で、いつものように音楽を聞きながら晩酌を始めたりなどします。だって日常の一日なのですから。

……たぶん、これで良いのではないか、という気がするのです。