阪神淡路大震災、非被災者の記録 - 関西の半導体業界からの話を、遠く離れた東京で

1995年1月17日の阪神淡路大震災、激甚被災地・被災者に関しては報道も記録も多数ありますが、そうではない地域や人々の記録は多くありません。

当時、半導体業界にいた者として、何があったのか、知っている範囲で書き留めておきます。

夜になって「大変な災害だ」と気づく

当時私は、高尾にあった沖電気工業(株)の八王子事業所(当時)におり、事業部づきの研究部門にいました。シミュレーションが一応は専門でしたが、実際には何でも屋に近く、計測装置のメンテナンスから社内ネットワークのお守りまで、いろいろやっていました。この背景には当時よくあった性差別の問題がありますけれども、その話はさておきます。

出社して「関西で大地震」というニュースに接しました。周囲の関西出身者は動揺を隠せずにいました。当然だと思います。

夜、帰宅する時、キオスクで売られていた夕刊が全部、神戸の惨状の写真を大きく掲載していました。

帰宅してパソコン通信にアクセスし、まだ長田区の火事が続いていることを知りました。大変な災害だったようだという実感を持てたのは、その時でした。

メンテナンス技術者がつかまらない!

阪神淡路大震災で私が直後困ったことは、装置メーカーのメンテナンス技術者がみんな関西に行ってしまっていて、担当の装置が故障したとき、なかなかつかまらなかったことです。保守契約が「三営業日内」でも、無理なものは無理。事情が事情なので、待つしかありませんでした。社内で代替のきく装置でしたし、生産の「できる」「できない」を直接左右していたわけでもありませんし。

震度7、しかも直下型が来た時に半導体工場や研究施設で何がおこりうるかは、同業者として想像がつきます。

1995年2月か3月か、やっとつかまった装置メーカーのメンテナンス技術者は、関西に何週間か行ってきたとのことでした。そこで、話を聞きました。もう本当に、中はぐっちゃぐちゃだったそうです。

ちなみに半導体仕様の免震土台や免震定盤が「そうしないと」「そっちのほうがいいよね」と認識され始めたのは、阪神淡路大震災の後でした。実際に売れ始めたのは今世紀に入ってから。工場の建て替えとか、大規模な装置入れ替えとかの機会じゃないと購入は難しいんですよね。

当時の私が一番気になってたのは、半導体工場等での死者負傷者が「労災ではない」と隠されてないかということ。そのメンテナンス技術者によると、幸い、死者は本当にゼロだったとのこと。負傷はやっぱり若干の労災隠しがあったものの、でもせいぜい、擦り傷切り傷打撲程度だったとのことです。不幸中の幸いでした。

三菱電機伊丹工場(当時)の記録は、

阪神・淡路大震災における三菱半導体開発部門の被害と対策

など、若干は残っているようです。

現在読んでも、大いに参考になる示唆がたくさんです。

自分の後で道路は通行止めに

もう一つ、京都・滋賀での話を紹介します。

滋賀県在住、京都にある研究所に勤務していた知人の半導体研究者の話です。

地震で目覚め、ラジオを聴いたら京都は震度6ということで、6時には車で自宅を飛び出して職場に向かったそうです。職場がどうなってるか、とにかく現状確認しなくちゃいけないし、対応も必要かもしれません。

「公共交通機関を使うには早朝すぎるし、どうせ正常に動かないだろうし、早くしないと道路も通行止めになるだろう」

と判断してのことでした。

京都の職場に向かう間のカーラジオには、いま自分が通り過ぎてきたばかりの箇所の新規通行止め情報が流れ続けるという状況だったとのこと。職場の被害はそれほど深刻ではなかったものの、道路通行止めなどの影響で数日帰れなかったそうです。

埋もれやすい「周辺」「軽い被害」も、記録が必要なのでは?

周辺の「命までとられたわけじゃなし」という被害、「まあ無事でよかった」で済むようなことがらは、このような激甚災害では埋もれがちです。でも若干といえども被災していることに変わりはないので、記録しておく必要があるんじゃないかと考えています。

記憶している方、これからでも、どうぞよろしくお願いします。