「子どもの貧困」に関する極私的体験メモ(1) 格差に気づき始める(小学校入学まで)

日本の格差は拡大を続けています。なかでも深刻と考えられているのは、子どもにまで広がる貧困です。

日本社会の今について考えるにあたって、子どもの貧困を無視することは不可能だと思います。

人間の子どもを持ったことのない私は、子どもの貧困に関する適切な書き手ではないと思います。

すでに子どもの貧困には、数多くの方々がご自分の思いのもとに真剣に関わっています。その中には、「こういう部分にはとてもついていけない」と思う人もいれば、「この側面がセットでさえなければ」と思う活動もあります。正直、その「ついていけない」「これがなければ」を遠ざけるためにも子どもの貧困と関わりたくない、と思う場面もあるほどです。

しかし、その困惑も乗り越えさせてしまうのが、子どもの貧困という問題の深刻さだと考えています。というわけで「ダイヤモンド・オンライン」で連載中の「生活保護のリアル」でも、過去何回かにわたって、子どもの貧困問題を取り上げてきました。書かないわけにはいかない、と思うのです。

昨日公開分(2014年11月14日)も、子どもの貧困をテーマとした作品「神様の背中」を連載開始した漫画家・さいきまこ氏のインタビューでした。

「神様はなぜ背中しか向けてくれないの?」 漫画家さいきまこ氏が描く“壮絶な子どもの貧困” ――政策ウォッチ編・第85回 生活保護のリアル

この記事には、多数のコメントが寄せられました。その多くは、作品・テーマ・さいき氏に対する肯定的なコメントでしたが、このようなコメントもありました。

今度は子供をダシにするか。 > 「神様はなぜ背中しか向けてくれないの?」漫画家さいきまこ氏が描く“壮絶な子どもの貧困” 生活保護のリアル みわよしこ(略)

出典:モフ皆伝  @Mofu_Master 17:27 - 2014年11月13日

社会的弱者の状況を伝える記事は、常に「社会的弱者をダシにした貧困ビジネスの一種」という見方ををされる可能性と裏腹です。その覚悟はあります。

しかし私が「ダシ」にしていようがいなかろうが、子どもの貧困が問題であるかどうかには大きな差はありません。

まず、本人である子どもにとって、「格差」はどのような問題なのでしょうか?

貧困状態にない子どもにとって「自分は関係ないから幸せ」と言えるようなことなのでしょうか?

今回は、私自身の5歳までの経験から述べてみます。

私が「ダシ」にしているのかどうかは、読んだ方に判断していただけばいいと思います。

生まれた町の「貧困」を中学校の図書館で知った私

私は1963年、現在の福岡市中央区長浜に生まれ、5歳までそこで育ちました。豚骨ラーメン発祥の店であるかどうかの議論や跡目争いに関する話題の絶えない「元祖長浜屋」のすぐそばです。5歳まで住んでいたアパートは現在もまだそこにあるようです。

あまりにも小さかったので明確には覚えていないのですが、当時の長浜には、まだ戦後の引揚者の方々が作ったスラムが残っていたようです。そのことは、中学生のときに学校図書館にあった書籍で知りました。その書籍はおそらく、堀江正規「日本の貧困地帯()」だったのではないかと思いますが、これまた、はっきり覚えていません(さっそくアマゾンユーズドで注文しておきましたが)。

よく知っている長浜の町が「取り残された貧困地帯で荒廃している」という文脈で出てきて驚いたことを良く覚えています。

モノの貧困はほとんど経験していない幼少期

しかし私は、物質的・経済的な意味での「貧困」とは無縁に幼少期を送っていました。

私は母方では初孫だったので、母方祖母は何かと、物心ともの支援を惜しみませんでした。住んでいた小さなアパート(2K、両親・私・弟+ときどき母方叔母が同居)に無理なく飾れた、小さな雛人形セット。同世代の他の子どもの多くが持っていそうで、なおかつ私の喜びそうな玩具。2歳くらいのときにピンク色の「ひょっこりひょうたん島」のビニールボートが贈られたのは、祖母が私の船好きを知っていたからではないかと思います。長浜で住んでいたアパートは漁港のすぐそばにあり、私は大小さまざまな船が港に出入りするのを飽きずに眺めていましたから。

父方祖母も私に愛情と関心を示してはいましたが、いかんせん私の母親との関係が険悪だったので、長男の子たちである私とそのきょうだいには、あまり関われなかった感じです。6歳からは同居していましたし、いくつかの幸せな記憶はあるのですが、圧倒的に多いのは父方祖母と母親の関係の険悪さに関する記憶です。

今にして思い返してみると、母方祖母から「おもちゃを買ってもらう」という場面で、欲しくないもの・本当は嫌いなものを押し付けられて感謝を示さなくてはならない場面は一度もありませんでした。「リカちゃん人形」は持っていませんでしたが、それは、私が人形遊びにほとんど関心を示さない子どもだったからでしょう。

母方祖母は、いつも私の「おねだり」にはニコニコと耳を傾けてくれていました。私の「ニーズ」はよく知っていたはずです。4歳以後だと明確に記憶に残っているものが多く、それらは日常的なニーズの聞き取りと絶妙にタイミングをはかってのプレゼントによって贈られ、私はもちろん大喜びしました。頻度でいえば、一年に一回か二回、多くても三回くらいのことです。両親が、母方祖母のプレゼントに表情などで苦渋を示すことはありませんでした。関係は概ね良好でしたし、それなりの「根回し」がされていたのでしょう。

祖母は大正期に生まれ、昭和初年ごろに結婚して4児をもうけました。上が大学生、下は中学生だったときに夫を急病で失いましたが、十代だった4人の子どもたちを育て上げ、その後も家庭だけではなく地域でも重要な役割を担い続けていたようです。明治・大正期に生まれた女性は、「専業主婦」であったとしても現在の「養われる」というイメージとは相当にかけ離れており、「男は外で働き、女は家で働く」という言葉そのままで、実質的に共働きと大差ないところがありました。そういう環境だと、女性であっても、多岐にわたる社会的能力や実務能力が培われる機会もあったのです。現在50歳以上の方には、自分の祖父母世代とその前後の世代に、「ああ、そういう人、結構いた」と思い出される存在が結構ありそうです。

しかし私に数多くのプレゼントをしてくれた母方祖母は、その一方で、おねだりを諦めさせることも上手でした。聞き取ったニーズの全部を叶えるなんて無理ですし、可能であったとしても、叶えることが教育的見地から見てどうかという問題もあります。何回か経験して記憶しているのは、デパートや書店で玩具や本を「欲しい」と思って、それを表明したとき、母方祖母は

「今日はお金持ってきてないから(他に「荷物がもういっぱいだから」など)、またこんどにしようね。おばあちゃんは、このオモチャ(本)のメーカー(出版社)を覚えておくから、ヨシコちゃんは名前を覚えておきなさい」

というふうに言い、何回か読み合わせをしながら帰るのでした。その後「欲しい」が再燃するかどうかと回数と程度で、母方祖母はニーズの切実さと程度を判断していたと思われます。私の方は「欲しい」を聞いてもらったところで90%くらい満足した気持ちになっていましたから、実際に買ってもらえなくても不満は全く残りませんでした。

父親は福岡市中心街に勤務するサラリーマン、母親は専業主婦でした。終戦時に小学生、高度成長期に結婚して主婦となった世代です。父親の勤務先の業種は、当時としては新興の産業に近いところがありました。父親は、その企業が創業してから3年目くらいに入社した世代です。サラリーはゼイタクができるほどではないけれど、悪くはなく、高度成長の波に乗って所得はどんどん増えていっていたようです。勤務先の貧弱だった福利厚生も徐々に整備されていき、私が5歳になるころ、持ち家取得のための融資制度が用意されたということです。上限額は、そのときの本人の退職金と同額。その融資を利用して、両親は福岡市の南側にある町に建売住宅を購入し、転居しました。

時代の流れ、さらに両親が当時のサラリーマンや専業主婦として「真面目」「ふつう」であったおかげで、私は切実な経済的苦労は経験せずに育った、と理解しています。

しかし、モノはあっても、機会の貧困は抜きがたく存在

しかし私は、文化的な刺激や知的な刺激に、いつも飢えていました。

いわゆる「言葉の早い子」だった私は、2歳でひらがなの読み書きをコンプリートし、5歳で教育漢字をコンプリートしていました。教えられてそうなったわけではなく、自発的に面白がってやっていたらそうなっていた、という感じです。しかし、読める文字に相当する読み物は与えられていませんでした。唯一の例外は、折り紙の本でした。

小学校に入ると同時に、読める文字にふさわしい内容の小学高学年向けの書籍にアクセスすることが(学校の図書室で)可能になったわけですが、就学以前の私が読むことを許されていたのは、家や幼稚園にあった幼児向けの本のみでした。私が年齢不相応に文字を読み書きすることを、母親が非常に嫌がったからです。背景には、もと小学校教員で若干インテリ肌の父方祖母(といっても最終学歴が高等女学校で教員資格は持っていなかったはずです。どういう資格や形態での雇用・勤務だったのかは知りません)を母親が非常に嫌っていたこと、その父方祖母が、私の言葉や文字の早い発達を大変喜んでいたことがあったようです。

それでも私は、母親不在のときに、父親が高校生のときに使っていたアマチュア無線の教本などを引っ張りだして眺めたり読んだりしていました。読みの分からない漢字はとりあえず記憶しておき、その後、TVCMなどで出てきたときに「ああ、こう読むのか」と理解していました。たとえば「技術の日立」という文字が画面に出てきて「ぎじゅつのひたち」と読まれていたら、「の」が読めれば、「技術」が「ぎじゅつ」、「日立」が「ひたち」であることは推測できます。他の機会に「技術」は「ぎ・じゅつ」、「日立」は「ひ・たち」と切れていること、それぞれの文字に別の読みもあることを知るなどして、私は読みこなせる漢字を増やしていったような気がします。もう45年以上前のことなので、はっきりと覚えてはいませんが。そして時折、母親に年齢に不相応な文字を読めることを知られてしまうのでした。「技術の日立」は母親の目の前で起こり、他の家族も見ていたようですので、特に問題にはなりませんでした。でも同じ方法で、約900文字の教育漢字を制覇したわけです。そのほとんどは、母親の与り知らない場所で覚えた、のだろうと思います。そしてバレると母親は「(父方の)おばあちゃんにそっくり!」と怒り……これ以上は書かずにおきます。

お金がある家庭でも、書籍などを含めてモノを与えられるだけの経済力のある家庭でも、同居していない親族を含めた家族関係・考え方・偏見・希望などによって与えられない機会があります。

もちろん、子どもにとってより深刻なのは「存在を知ることもできない」「手を伸ばしたくても月や太陽ほどに遠すぎる」というタイプの機会損失です。でも「目の前に見えており、アクセスが不可能ではないはずなのに、アクセスできない」「目の前に見えているのに、アクセスを許されない」「目の前に見えており、アクセスできることになっているのに、自発的に諦めることを陽に暗に要求される」というタイプの機会損失の辛さ・苦しさ・悲しさは、「望みたいという状況にさえ至れない」という機会損失に対して、どちらがより辛いかを比べられるようなものではないと思っています。

行ってはいけない場所、見てはいけない人、遊んではいけない子ども

長浜のアパートは、目の前の交通量の多い大通りを横切らなければ最寄りの公園にも行けないような場所にありましたから、子どもどうしで公園その他の場所に遊びに行く機会は非常に少なかったです。遊びも「おつかい」も、アパートの中や至近距離の商店で済ませていました。

母親が近所に買い物に行くとき、「ここに行ってはいけない」「ここの人を見てはいけない」「ここの子どもと遊んではいけない」というようなことを言っていたのを、かすかに覚えています。子どもにとっては見た目が大変面白い仮設建築物のようなものが立ち並んでいたような。もしかすると、そこが長浜に残っていたスラムであったのかもしれません。

4歳になった私は、バスで15分ほどの場所にある幼稚園に通うようになりました。今なら送迎バスがありそうなものですが、同じアパートから同じ幼稚園に通う3人ほどの子どもと一緒に路線バスに乗っていました。母親は、同じ幼稚園に通っていない子どもと私が遊ぶことに難色を示しはじめました。幼稚園に通うようになる前は、ときどきは一緒に楽しく遊んでいたのに?

私が通っていた幼稚園は、特に「クラス」と関係があるような幼稚園ではありませんが、キリスト教の幼稚園でした。

「幼稚園を選ぶかどうか」「わざわざ選んでキリスト教の幼稚園に通わせるかどうか」

といったあたりで「クラス」を表現したい若い母親たちがいた、ということでしょうか? 

今でも、あまり理解できない話です。そもそも、もしも自分に子どもがいたら、働き続けるカーチャンである私の子どもは保育園・保育所一択になるわけですから。

子どもだった私にとっては、さらに、まったく理解できない話でした。何回か、母親に説明を求めてみたことはあるんですが、説明してもらえた記憶はありません。母親が「口答えをする!」「親の言うことが聞けないなんて!」と怒った記憶ならあります。4歳の私は、よくわからないまま、母親に説明を求めることを断念したようです。

存在することは間違いないとしても、誰も理由や正当性を納得させられない格差に、子どもは納得いかないまま巻き込まれざるを得ません。これもまた「機会の損失」の一つの形と考えるべきではないかと、現在の私は考えています。

「鉄腕アトム」がどうしても弾けないトイピアノから、本物のピアノへ

5歳までの私にとって文字と同等に切実だった「機会」が、もう一つあります。「黒鍵のある鍵盤」です。

「鉄腕アトム」放映開始の年に生まれた私は、再放送で「鉄腕アトム」を何回も見ています。主題歌を覚え、トイピアノで弾いてみようとしました。ところが、どうしても弾けませんでした。どう転調しても弾けませんでした。

そのトイピアノには、黒鍵はありませんでした。白鍵に黒く印刷されていただけでした。だから冒頭の「空を超えて」で早速弾けない、というわけです。

遊ぶことを許されていた同年齢の女児がいた近所のNさんというお宅に、オルガンがありました。そこには、黒く盛り上がった黒鍵がありました。すると難なく「鉄腕アトム」の主題歌のメロディが弾けてしまいました。3歳くらいの時のことだと思います。

「聞いて覚えた曲を弾いて、自分の手から音にする」の面白さに目覚めた私は、どこに行っても黒鍵の盛り上がった鍵盤を見ると、しがみついて離れない子どもになってしまいました。Nさんのお宅には、たいへんご迷惑をおかけしたと思います。4歳で幼稚園に通い始めると、幼稚園のピアノにしがみついたら離れない子どもでした。

見るに見かねた母方祖母は、本物のピアノを買い与えることを検討してくれていたようです。両親が建売住宅を買って引っ越すと、間もなく、アップライトピアノがやってきました。ヤマハのU3です。楽器に関する知識の豊富な人が誰かいたら、価格がそれほど大きく違うわけではない銘器UXを選択していたかもしれませんが、U3も悪い楽器ではありませんでした。

「ピアノのレッスン」という機会を引き寄せる

さて、5歳で引っ越した先で通い始めた幼稚園にもピアノがありました。3歳からピアノを習っていたという同級生・マリちゃんが、ブルグミュラーの24の練習曲などを華麗に弾きこなしていました。私は、マリちゃんの弾く曲を聞き覚えて家に帰っては、家のピアノで弾いてみました。

両親も、何らかの素質の存在を感じ取ったようです。バイエル・ブルグミュラーなどの曲集を買い与えられました。私はそれらを独習して、読譜を習得しました。ピアノの練習にも我流で励みました。しかし、少しも上達しないのです。鳴らすべき音は、楽譜に書いてありますから分かります。どの指で弾くべきかも分かります。でも手の動かし方がわかりませんでした。

「先生に習わないと上達しないようだ」

ということに気づいた私は、それから約半年、「ピアノを習いたい」と両親に訴え続けました。訴える機会は慎重に選び、「プレゼン」と「根回し」をセットにする、といったことも試みました。なにもかも「ピアノうまくなりたい」の一心からです。

半年後、ついに両親は、私をピアノのレッスンに通わせてくれました。私は貪欲にレッスン内容を吸収し、家では特に「練習しなさい」と言われることなく練習に励み(練習のやりすぎを母親に叱られたことはあります。家の手伝いもしないで2時間ぶっ通しで弾いてたりとかしましたから)、1年後、小学1年のときの初めての発表会でベートーヴェンのソナチネ1曲の全楽章を暗譜で弾いて大人たちをびっくりさせました。

そして「格差」の存在に目覚める

「ピアノのレッスンに通わせてもらう」は、私が自分の意思と努力と工夫で引き寄せることに成功した、最初の機会です。

こんなこと、子どもが望んだからといって叶うとは限りません。

そのタイミングで、ピアノを置ける家に転居したこと。

孫娘にピアノを贈ることのできる母方祖母がいたこと。

目指すことの可能な目標(幼稚園の同級のマリちゃん)が身近にいたこと。

幼稚園児が一人でレッスンに通うことの可能な範囲に、ピアノの先生がいたこと(今だと「幼稚園児だけで」はありえないかもしれませんが)。

全部、私の努力によってではなく、偶然に私が恵まれた機会であり状況です。

それでも現在の私は、自分の意思と能力を目覚めさせ発揮させることに成功した5歳の自分を、「よくやった!」と褒めてやりたいです。

5歳当時の私は、「やったー!」と手放しで喜ぶことはできませんでした。「したくてもできない」という状況にある同世代の子どもたちのことは、なんとなく、頭や意識の片隅にありました。交流はなくても、同じ地域にいました。「ピアノの努力ができる」という機会に恵まれた私は、何を対価としてその機会に恵まれたのだろうか? と考え始めました。

そして翌年、「したくてもできない」子どもたちと、私は町立の小学校でクラスを共にすることになりました。

ますます、私は達成を喜んだり誇ったりできなくなりました。

その状況は、去年あたりまでは続いていたように思えます。

何があれば、すべての子どもが自らの毎日や小さな達成や小さな成功を心から喜べるのでしょうか?

何があれば、少しくらいドス黒い感情を抱く場面はあるとしても、互いに互いの日常の幸せや達成や成功を喜び合えるようになるのでしょうか?

この問題意識は、小学校に入る前後から、私を捉えて離さなくなっていました。

(続く)