「子どもの貧困」に関する極私的体験メモ(0) 考え始めるために
参考:
「子どもの貧困」に関する極私的体験メモ(1) 格差に気づき始める(小学校入学まで)
日本社会の現在を考えるにあたって、子どもの貧困を無視することはできません。
しかし、何がどのように問題であるのかを調べることだけでも容易ではありません。
さらに、どのように解決されればよいのかを考えること・そのために必要な資源を確保すること・年単位~十年単位での実行を続けることは、大変な難題です。
そこで現在、世の中にありがちな論点、私が本シリーズで考えてみたい論点をまとめてみました。
「子どもの貧困」とは何か、何が問題なのか
貧困の定義をどこに求めるか
貧困に「相対的貧困」「絶対的貧困」の二種類があること、それぞれに世界共通とされている定義が存在することは広く知られています。
とりあえず、貧困の基準や内容については、一般的な定義(Wikipedia:貧困線)によってよいのではないかと思います。
万能ではありませんが、大きく外しているわけでもなく、したがって広く使用されています。また、長期間にわたって見直しを行いつつ使用されてきている指標の数々に従わなければ、年次推移を捉えることもできません。
世帯の貧困と個人の貧困
ただし、世界的にも日本国内でも、「収入や所得として把握される数値は世帯のもの」ということに注意が必要です。
子どもの貧困も、「子どものいる世帯の貧困」からしか明らかにされていません。
「世帯全体が貧困状態にあるというわけではないけれども、(特定の)子どもが貧困」
というパターンは、特に女の子を中心に珍しくありません。
この問題は
「進学も就職もせず、『家事手伝い』という形で介護を担っている10代後半~30代の娘がいる家庭」
という問題、その女性のその後(結婚も就労も困難、DV被害や不安定就労の果てにさらなる貧困へ)の問題にもつながり、実はかなり深刻です。
しかし数値で明確にできるほどの調査は行われておらず、研究段階の調査でも「始まったばかり」といったところです。
絶対的貧困・相対的貧困・それぞれの引き起こす問題
「いや、日本には深刻な絶対的貧困はないし、あっても非常に少ないから」
という意見がありそうですが、ここにも注意が必要です。
絶対的貧困がほぼ問題にならなくなった社会で問題になるのが、相対的貧困です。
だから、日本の絶対的貧困が非常に少ないとするならば、「相対的貧困が問題になっている」というべきなのです。そこで「絶対的貧困はないから問題ではない」というのは非常におかしな話です。
現在の日本にある「貧困」では、少なくとも下記の4つの問題は考える必要があるかと思います。
- 絶対的貧困状態(一日あたり1.25ドル=約140円、一ヶ月あたり5000円)にある人(現在のところ多数ではない)の、文字通り生きるか死ぬかの問題
- 相対的貧困状態(概ね、一人あたり年収が貧困線以下の状態にある人(2010年の貧困線は112万円))の「生かさず殺さず」状態による問題
- 相対的貧困の存在による問題(基本的には「比較」が問題→格差社会化の進行によって目先の「解決」がされうる)
- 絶対的貧困状態と相対的貧困状態の混合による問題(悲惨どうしの比較→「上見て暮らすな下見て暮らせ」との親和性が高そう)
生活保護との関係
現在の日本では、概ね「貧困線=生活保護基準」ですが、もし今後、生活保護基準が下がるようだと、貧困線も引きずられて下がることになります。すると、現在の主として相対的貧困が問題となっている状況が、絶対的貧困が問題となる状況へと移行することになります。
現在、自分の幼少期をふりかえってみて、通っていた公立小学校に生活保護世帯の子どもがいなかったことを不思議に思っています。「貧困」と呼ばないわけにいかない環境にある子どもたちは少なくありませんでしたが。
「生保世帯の子どもはいたけれども、子どもたちが知らされていなかった」
「生保世帯の子どもはいなかった。背景は、根強いスティグマなどにより親世帯が申請しなかったため」
のどちらかでしょう。
子ども自身にとっての貧困
子どもにとって、貧困はそれほど辛いものなのか?
「自分は貧乏な子ども時代を送ったけれども、そんなに辛いと思わなかったし、立派な大人になれた」
という話は多いです。しかし、それが可能であったかどうかは、時期・地域・状況によって全く異なります。
少なくとも、目の前の貧困状態の子どもに対して、そういう話は全く役に立たない可能性を考えておく必要があるかと思います。
漫画家・さいきまこさんの新作「神様の背中」(参照:「ダイヤモンド・オンライン」の拙記事)第一話には、給食以外に食事の機会のない子どもがスーパーで食料の万引きを繰り返しているエピソードがあります。それを見て、一つ気づいたことがありました。
都市部で貧困状態にある子どもの場合には、家で食事が出来なければ容易に「給食以外に食物を口にする機会がない」ということになり、さらに「だから万引き」がありうる、ということです。
いずれも、私が小学生時代を送った地域では「ありえない」に近い状況です。
その地域は、現在は完全に福岡市のベッドタウンと化していますが、当時はまだ「新興住宅地が農業生産地域に食い込み始めていた」という状況でした。というわけで、「家でご飯食べられなかったら、外で食べればいい」がありえました。出荷できない野菜や果物をくれる農家がありました。小学校も高学年になれば、焚き火をして焼き芋するくらいのことはできます。空き地もふんだんにありましたし、焚き木の調達も容易でした。小学校高学年で火を扱えない子どもはいなかったと思います。ですから、それほど深刻な問題にはなりませんでした。
逆に、万引きは非常にやりにくかったはずです。クラスメートのお母さんとおばあちゃんが店番している個人商店で、万引きができるでしょうか? それどころか、食事を与えられていない懸念のある子どもに売れ残りの惣菜とご飯くらい食べさせる小売店の女性は、珍しくなかったです。ますます、万引きには至らないでしょう。スーパーは存在しましたが、小学生のとき、校区内には一つもありませんでした小学3年の時までは、校区内には一つもありませんでした。校区内に小さなスーパーが初めて出来たのは小学4年のときです。それ以前にも、スーパーは校区外のアクセス可能な場所にいくつかはありましたが、規模は大きくなく、個人商店と大差ない世界でした。クラスメートのお母さんがパートで働いてたりもします。もしも万引きするつもりで行ったとしても、「あら○ちゃん、いらっしゃい、おつかい?」と声をかけられて手が出せなくなったでしょうね。コンビニは、まだ校区内には全く存在していませんでした。「万引きできるお店」がなかったわけです。少なくとも私の小学校在学中、児童が文房具や玩具ではなく食料品を万引きした話は、一度も聞いたことがありません(「親が買ってくれない飾りや模様のついた文房具を万引き」といった話はありました。といいますか、間近に見たことが一回あります)。
時期・地域・状況による違いを丁寧に見ていかないと、何もわからないのではないかと思います。
差別は、あってはならないものなのか?
差別は悪だとは思います。悪だから「あってはならない」でよいのだとも思います。でも、なくすことができるとは思いません。
差別の源は、「自分と同じ人は他にいない」という、誰にとっても当たり前の事実にあると考えているからです。
他人と自分との差異を認めること、一言で言えば多様性を認めることは、簡単に差別に結びつきます。差異に対して全く優劣をつけずにいることは、あらゆる人間にとって、おそらく無理でしょう。そして、優劣と結び付けられた差異は、容易に差別へと転化します。
ではせめて、優劣を持ち込まない場を作ることは可能でしょうか? これもまた「限定された範囲で可能なこともあるが、難しい」というべきではないでしょうか? たとえば、学校で習得度や到達度の評価も行わないでいることは可能でしょうか? 成績に結びつけるかどうかは別として、評価とフィードバック自体は教育に必須です。相当の注意を払わなければ、その評価、そのフィードバック一つ一つが、差別のきっかけとなりえます。
ただ、「差別をなくそうとしても、なくすことはできない」という事実と、「差別はあってはならない」という価値判断は別にしたほうがいいとは考えています。
少なくとも小学校で、クラス担任たった一人でも「差別はあってはならない」という態度で毅然と差別に立ち向かっていれば、差別される側の子どもにとっては非常な救いとなるでしょう。たった一年か二年だけでも、そういうクラス担任のいるクラスで過ごせる期間があったかどうかは、その子どもの将来を大きく左右すると思うのです。
地域コミュニティが、子どもの貧困を救うことはできるか?
これについては「ムリムリ絶対無理」と思っています。
地域コミュニティにできる最大限は、「ときどきご飯食べさせる」「ときどき、おやつをあげる」「ちょっとだけ乳幼児の面倒を見る」「ひどい親にちょっとだけ釘を刺す(あまりひどかったら通報する)」あたりかと思われます。ないよりマシ。でも本質的解決は無理。
子どもの貧困を「救う」、言い換えれば「一人の子どもが貧困状態から脱する」を可能にするのは、「養子・養女にする」「里子として成人まで面倒を見る」レベルの資源投入があって可能なことです。日本でそれを可能にしているのは、生活保護と就学援助などの経済的支援です。
せめて「最小限度だけど健康で文化的な生活」の経済的裏付けが地域コミュニティに負荷を与えない別の形で行われていない限り、「地域コミュニティで子どもの貧困を救う」は無理でしょう。
貧困は、再生産されてはいけないのか?
私自身は「貧困が再生産されてしまう状況はなくすべき」と考えていますが、「貧困の再生産、なんと便利なものだ」と考えている層が日本には確実に存在すると思います。
明治維新以後の日本の産業構造の変化は、ほぼ、再生産される貧困によって支えられてきました。最初からキャリア構築が不可能な状況にある人々を都合よく低賃金で使い回し、老後はホームレス状態に。そしてそうなったら、ホームレス状態であることを理由に切り捨てる。これが過去100年以上にわたって続き、「日本の伝統」「日本になくてはならないもの」と化しつつあるのではないでしょうか。
その強い流れに抗するだけの説得力が必要なのだと、日々痛感しています。しかし現在の私は、そんなものは持てていません。
選択肢を限定される子どもがいたら、何が問題なのか?
貧困の再生産は、最初に子どもに対して、さまざまな機会や選択肢の制約として出現します。
選択肢の制約そのものは、貧困が再生産されていようがいまいが、どうしようもなく起こってしまうことだと思います。地域コミュニティや家族に対して「子どもの選択肢を制約しない・させない」という方向での対策は非常に困難かと思われます。
しかし、ある時期に選択肢を制約されていたとしても、その後への接続、接続されたあとでの新たな選択が可能であれば、かなり救われるのではないでしょうか。それが可能であったかどうかが、深刻な問題であるかどうかの分かれ目になっているのだと考えています。
たとえば
「昔は、中卒で大工の親方に弟子入りして、働きながら夜間高校を卒業して、立派な親方になったりする人がたくさんいたもんだ」
というような話は、その「接続ができた」「接続後の新たな選択が可能であった」ということを示しているのではないでしょうか?
私自身、過去の取材で、このような問題に対する感受性が低かったことによる誤解を引き起こしかけたことがありました。
ほぼ同世代(現在50代前半)で千葉県の貧困家庭に育った男性のお話を聞いていたら
「中学を卒業した後は製材所に就職した」
と語られました。
私は「技術の習得」「自信」「誇り」といったものにつながるのだろうと思いながら、さらにお話を伺いました。
ところが、その男性が引き続き語られたことは、全く面白くない単純労働の辛さと惨めさでした。具体的に話を聞いてみると、
「合板を指示通りにカットする」
というだけの仕事と周辺の雑用(清掃とか)が延々と続くだけ。将来? それを40年繰り返して定年。
私が育った町にも製材所はありましたし、中卒のお兄さんが就職していたりもしました。でもそこでは、丸太を仕入れて加工し、時に高い付加価値をつけて販売するような仕事がされていました。合板のカットも時々は行われていましたけど。若い年齢でそういう職場に入ることは「技術の習得」「自信」「誇り」、さらに「家庭を持つ」といった展開にもつながる可能性が高いものだったのです。
「同世代」「大都市近郊」という共通点があるからといって、油断はできません。ましてや現在の若年層であれば……と、自分自身、反省することしきりです。
では、どう解決されるべきなのか?
私が一人で考えられるような問題ではないので、「考えるべき」と思われることを列挙するにとどめます。
「子どもが権利を保障された状態」とは?
「子どもが権利を侵害されている状態」は、虐待などの場合には、明白にそれと示すことが可能です。そうではない分かりにくい「侵害」もあるので話がややこしいのですが、何らかの形で「権利を侵害されている(いた)」を示すことは可能なことが少なくないかと思われます。
では、「子どもが権利を保障されている状態」の方はどうでしょうか? 実は明確ではないんじゃないでしょうか?
そして「子どもが権利を保障されている状態」が明確でないので、その子ども自身(多くの場合で親にも)に対して、何をどれだけ補えばいいのかを明らかにすることもできないのではないでしょうか?
親の教育権との整合は?
親の「子どもに良い教育を受けさせたい」という思いは、一概に否定できないと思います。いろんな親が、いろんな「良い教育」を考えて実行することは、子ども世代の多様性の担保にもなりえます。
しかし「子どもの権利を侵害しない」あるいは「子どもが権利を保障されている」と、親の教育権の間には、どのような関係があるのでしょうか? この関係は、それほど明らかにされている感じがしません。
「格差拡大」「子どもの貧困の拡大」の背景にあるものは?
格差が存在する状態、多様性の一部が「格差」という形で目に見えている状態は、そこにいる人々にとって快適な状態ではありません。下位には被差別の辛さがあり、上位には嫉妬をぶつけられる辛さがあり、中位には板挟みの辛さがあるわけですから。
格差がもたらす辛さに「耐えられない」、もたらされる数々の問題での消耗を「無駄」と考えること自体は、大いにありうることだと思います。というか、私自身、耐えられなかったです。そういうことで消耗させられた時間とエネルギーが無駄だったとも思います。
では、どうすればよいのでしょうか?
個人レベルでは、中位以上にあれば、進学・就職・結婚などの機会で「上」に逃れることが不可能ではありません。子どもを持った時に、「小学受験や中学受験や越境入学をさせる」という形で、少しでも「上」に逃れることも可能かもしれません。しかし下位では、逃げる方法も手段も限られています。
「格差がありすぎるのは辛い」という事実、その辛さから逃れたいと考えた人々の個人レベルでの選択が皮肉にも格差の拡大へとつながったことは、無視できない背景かと思います。
結論:「平等」「公平」志向というより「公正」志向へ
子どもの貧困を放置しておくことは、力も選択肢も与えられていない子どもに対する一方的な人権侵害や収奪という不公正であり、犯罪的行為というべきかと思います。これに関してはっきり「いや、許されるべき状態であり、一定範囲で存在すべき状態」と言う人は、いても多くはないかと思います。
であれば、「公正」が実現した状態を明確にすることからスタートするしかないのではないでしょうか?
「公正」な状態とは何なのか、何が実現すれば「公正」になるのかが明確にされない限りは、現在存在する人権侵害や収奪に対し、現状の確認も程度の評価もできません。ましてや、その状況をただすために何が必要なのかの全体像も明確にできません。
しかし、この「何も明確でない」という状況で足踏みを続けているのが、日本の現状かと思われます。
少なくとも、機会の平等・選択の自由の実質的平等が必要なのは間違いないでしょう。では、何をもって「平等である」とすればよいのでしょうか? その「平等である」という状態のため、誰が、いつ、何をしなくてはならないのでしょうか? 費用は、どのくらい必要なのでしょうか?
今は、日本の社会全体で、こういった問題を議論することへの合意を丁寧に作っていく必要がある段階かと思われます。議論の前提にも立てていません。
その議論以前の段階で、格差は拡大しようとしています。「格差の下位にあたる」という運命を与えられてしまった子どもたちは、多様な機会を奪われたまま、子ども時代の貴重な時間を過ごすしかありません。
私は幸か不幸か、人間の子どもを持った経験がありません。ですので、現在進行形の子どもの問題の切実さや生々しさは、よくも悪くも自分自身の問題ではありません。
だからこそ、じっくりと、「公正」とは何か、「公正」のために必要なのは何か、子どもの貧困の解決にどう結び付けられるべきかを考えていきたいと思っています。