雑誌「手をつなぐ」(全日本手をつなぐ育成会)2014年9月号に執筆した「社会を支える」「社会に支えられる」に関する拙稿を、発行元のご了承のもと、若干の再編集を行い、こちらに掲載します。

「社会を支える人」と「社会に支えられる人」?

人間は二種類に分けられます。社会を支える人と、社会に支えられる人。

社会を支える人とは、税金を払う人です。

社会に支えられる人とは、税金から何かを受け取る人です。

社会に支えられる人は、貧しくとも清く正しく勤勉である必要があります。そうでなくては、社会を支える人が納得せず、税金も払ってくれなくなります。

……そうでしょうか?

「働けるのに働かない」の背景は?

2011年9月に放映されたNHKスペシャル「生活保護3兆円の衝撃」は、「働けるのに働かずに生活保護を利用している人々」を取り上げ、大きな反響を呼びました。

主に問題視されていたのは、若く健康で働けるはずの多くの人たちが「働けるのに働かない」ということです。この人々の多くは、2008年のリーマン・ショックをきっかけに失職し、2011年にもまだ就労していませんでした。

番組の中では、人間が「社会を支える人」「社会に支えられる人」に二分されていました。何のためらいもなく。

私は、言葉にしづらい引っ掛かりを感じました。

「社会を支える人」になるためには資源が必要

リーマン・ショックの影響で失職した人たちの多くは、それ以前も良い条件で就労していたわけではありません。多くは派遣・アルバイトなどの非正規雇用。たまたま人手不足が続けば、就労を継続することはいくらか容易ですが、就労の基盤はもともとグラグラしています。簡単なきっかけで、その基盤は簡単に壊れます。その人の「資源」が少なすぎるからです。

「資源」は簡単には作れません。大きな問題はない家庭で、充分な愛情と配慮のもとに生育すること。大きな不足のない学校教育を受け、知識・能力・社会性などを発達させること。職業生活を送り、職歴と技能を積み上げること。それから健康、可能ならば若さ。いずれも、本人の努力によって得られるとは限らないものです。

自分自身の「資源」を持てず、育てる機会にも恵まれなかった人たちは、小さなアクシデントで簡単に困窮します。でも、「資源」不足の原因は、その人の「自己責任」でしょうか? 誰が、親や家庭を選んで生まれて来たでしょうか?

自分自身は高校を卒業して以後、大学生・大学院生時代も含め、ほぼずっと働き続けています。中年になってから精神障害と運動障害のため中途障害者になりましたが(2007年に障害者手帳取得)、その後も職業を手放していません。障害による経済面への影響は小さくはなく、納税額は些少であったり非課税であったりすることが多いのですけれども。

私がその程度にでも「社会を支える」を行い続けることができているのは、一言でいえば、恵まれてきたからです。必ずしも「自助努力」「自己責任」によらず、有形無形のさまざまな資源を持っているからです。

「生活保護3兆円の衝撃」は、若くて健康な「働けるのに働かない」人たちの資源不足に、ほとんど踏み込んでいませんでした。残念です。

障害者にとっての「社会を支える」「社会に支えられる」とは?

納税額が「社会を支える」「社会に支えられる」の境界となるのなら、現在、障害者の多くは「社会に支えられる人」です。その背景には、さまざまな問題があります。教育機会、地域生活での理解不足、差別、偏見……。障害者に「あなたたちは、私たち納税者に支えてもらってるんだから」という視線や言葉を向ける健常者もいます。まことに腹立たしいことです。しかし、一面的すぎる社会観・労働観や誤解を解きほぐしていくことは、容易ではありません。

もちろん、「支えられて、何が悪いの?」と切り返すことはできます。乳幼児期や高齢期の「社会が支える」「社会に支えられる」を否定したら、社会は成り立ちません。障害者自立生活運動がすべての人の生存を切り開いてきた経緯を紹介して「一方的に『社会に支えられる』人なんかいない」と言うこともできます。

著作を仕事とする私には、仕事を通じて訴えるという道がありますけれども、一人のライターの力など微々たるものです。それでも「一生かかっても無理かな?」という悲観と、「今日、目に見えないけど何かを変えられるかも」という楽観をないまぜにしながら、私は日々の仕事に向かいつづけています。