勝間和代さんは別に外してません。けれども……リスク評価を政策に反映する難しさ
御嶽山災害に関し、20082010年の事業仕分けで勝間和代氏が削減を主張していたことが問題となっています。
本記事では勝間氏発言から、リスク評価と政策反映の関係、そもそも「評価」することの難しさを考えてみます。
勝間氏の発言そのもの
こちらの3:49ごろから始まります。
この動画の冒頭で、予算をディフェンスする立場からの発言として
「どのくらいの頻度で、火山に対してどういう監視をすれば十分なのかは、未だに火山学の課題」
という内容の発言があります。
引き続いて勝間氏の発言がはじまり、まず
「(ある山では)300年間に9回の小規模な水蒸気噴火しかなかった」
とか
「大規模な噴火は数千年前にあったと言われている(でもはっきりしない、というニュアンス)」
というふうにコメントされています。
私はその段階で違和感を覚えます。
日本の陸地での「数十年に一回の小規模噴火」「数千年前の大規模噴火があったらしい(でも文字での記録はない)」は、地球スケールでいえば「つい最近起こった、近所のオオゴト」ですから。
しかし勝間氏は、この時間軸の感覚に「その認識を非専門家も持たなくてはならないのか?」と軽くコメントし、
1.起こる確率の低いものにまで備えなくてはならないのか?
2.他国との費用比較では?
を問題にしていきます。
この動画、ディフェンス側の方が非常にまっとうな、火山学の現状で可能なこと・これまでにわかっていることを踏まえた主張をなさっていらっしゃいます。しかし顧みられることなく、予算削減となりました。
勝間和代氏側の弁明
今回、話題となっていることを受け、勝間和代氏の事務所が「2010年の事業仕分けにおける勝間和代の発言について」という声明を発表しています。
一部を引用します。
「大規模噴火は数千年に1度なのに24時間の監視が必要か」
そして、今回の噴火について、「この仕分けがなければ、今回の被害は防げたのではないか」という文脈で、勝間和代の責任を追求し、SNSなどを通じて質問や非難を寄せています。
しかし、この当時の発言の真意は、「費用削減のためには、火山が噴火して人が死んでもいい」という意味ではもちろんありません。
火山の噴火を人工的に止める手段がない上、いくら精密に監視をしても噴火を100%予測することは不可能である以上、噴火による被害を減らすために、産学連携などで噴火予測により効果的な費用配賦方法があるのではないかという問題提起です。この点をぜひ誤解なきようにお願いいたします。
それは、「勝間氏にはそう主張する言論の自由がある」という意味において、アリだと思います。
しかし末尾の
予算をつぎ込んだ分だけ噴火予測の精度が確実に上がるのであればそれは素晴らしいことです。しかし、残念ながら地震や噴火などの地殻変動を完璧に予測するシステムは確立されておりません。1980年代から地震予知は研究されてきましたが、東日本大震災を予測することはできませんでした。今回の噴火予測も全く同じ技術的な壁にぶつかっているようです。これは気象庁のコメントに端的に表れている通りです。
登山者への噴火被害をゼロにするためには、完璧な噴火予測を追い求めるより、より厳しい入山規制などソフト面での対応こそが重要であると思われます。前掲の勝間の発言はこれらの論点を踏まえた上での発言です。この点について、くれぐれも誤解のないようにお願いできれば幸いです。
を読んで、私はブチ切れそうになりました。
その「ソフト面での対応」のために、まず観測が必要なんですよ。
危険な予兆を予期してもいないのに入山規制ができるわけありません。
常時の入山規制をすればいい?
もしかしたら、中規模・大規模爆発かもしれないんですよ。すると、入山規制では足りませんよ。
観測していても予知はしきれません。だから、「せめて観測くらいはしておかなくては」なんです。
この成り行きを見る限り、どんな批判を受けようが、「非専門家の有識者による評価だから」という理由で主張を受け入れることはできませんね。私が主要な対象としている社会保障についても同様ですが。
ブチ切れと脱線はこのあたりにして、話を本題に戻します。
「民主党人災説」について
正直なところ、民主党政権は官僚を動かすことに失敗し続けていたと思うのですが、それでも時の政権であった以上の一定の責任は、免れられないかと思います。
2014年9月29日、民主党の福山哲郎氏が、ご自身のブログで「民主党人災説」に反論しています。森口朗氏の記事「民主党政調会長の態度は素晴らしい」も合わせ、この問題については、まず事実関係を慎重に確認したいと思います。
では、勝間氏の主張はおかしいのか?
しかし勝間氏が主張している内容、まとめると
「発生した場合の影響は非常に大きいけれども、発生頻度や発生確率が非常に低い事象に対して、常時の備えを行うことは妥当ではないかもしれない」
自体に対しては、
「別におかしくないんじゃないの? リスク管理のセオリーだよね」
と思います。
リスクは、発生確率と影響の大きさで評価します。
「発生確率は小さく、影響は小さい」という性格のリスク、たとえば「歩いていて犬の大便を踏む」に対しては、「時にはそういうこともあるさ」が対策です。
「発生確率はそれなりに大きく、影響も大きい」という性格のリスクに対しては、日常的な対策が必要です。たとえば「東京における震度4以上の地震」は、多くても年間数回ですが、これを十分に「発生頻度が高い」と考えることに異論のある方はおられないでしょう。
。
微妙なのは
「発生確率は高いけれども、影響は小さい」(例:「秋、枯れ葉が飛んできて顔にぶつかる」とか)
「発生確率は小さいけれども、影響は大きい」(例:東日本大震災)
です。
勝間氏は、火山爆発を
「発生確率は小さいけれども、影響は大きい」
と考えておられるようです。それが、事業仕分けでのご発言と、事務所の声明なのでしょう。
たとえば、「危ない山には近づかない」という「ソフト面での対策」は、確かに対策になります。
入山規制をして近寄らせないようにしておけば、爆発のリスクは、リスクでなくハザードになります。ハザードは「わざわざ近づく」によって発生する種類の危険です。それにしても「入山規制で十分なのか?」という問題は残るのですが。
発生確率や発生頻度も、人間界の感覚では、確かに「小さい」「少ない」だろうと思います。地球の感覚では小さくも少なくもなく、「小さいとする」「少ないとする」という判断が出来るかどうかさえ現在進行中の課題なのですが、勝間氏は現在も過去も「小さい」「少ない」とされているようです。それを日本の人間社会が支持した結果が現状です。このことの是非は、容易には評価や判断のしがたいことだと思います。
もう一点、海外との比較においては、海外に適切な比較対象がないということを考慮する必要があります。
日本のように、火山国であり、かつ人口密度が高く、地震や火山爆発の影響を受けて事故につながる可能性もあるもの(原発とか新幹線とか)がたくさんあり、その上に農業などの第一次産業まで行われている先進国は、他にありません。
この日本の狭さと人口密度と産業密度を考えたとき、火山に警戒しなくてはならないのは当然だと私は考えています。
海外と比較して、日本の対策費用を削ることには、まったく妥当性がありません。
(参考:イタリアの火山学者が予知に失敗したことをもって有罪判決を受けた件(2012年)こちらなど)
「御嶽山の爆発は、大きな事件なのか?」を考えてみる
最後に、リスク管理の観点からみたとき、御嶽山の爆発が備えておくべきであった大きな事件であるのかどうかを一考しておきたいと思います。
まだ、影響の全貌は、犠牲になられた方の人数も含めて明らかになっていません。現在判明しているだけでも、一度に数十名の犠牲者が発生した山岳事故として、もちろん決して小さな出来事ではないと思います。
一方、ここ数年の日本では毎年、餓死と考えられる死者が約1500人、結核での死者が約2000人、交通事故での死者が約4000人~5000人、自殺者が2万人~3万人、発生し続けています。
もちろん、亡くなる方の人数によって、死に至るリスクをランク付けするのは適切ではありません。
しかし、日常生活・社会生活の中での発生確率と影響を考えたとき、数の問題を避けて通ることは不可能です。
結論:何もかも再考が必要
この問題は、
- 「十分に頻度が低い」とするにあたっての時間軸の設定
- 必要かつ「これでよい」と考えられる対策の設定と、結果を誰がどう評価するか
- 起こってしまった事象の大小を、誰がどう評価するか
など、まだまだこれからの課題を数多く提起しました。
煮え切らない結論ですが、事実に基づいて考え続け、事実と論理に基づいて議論を続けることが、現在できることの最大であろうかと思います。