「東大はやっぱり特別な大学だ」と思う瞬間 ー 北澤宏一氏の訃報に接して

2014年9月26日、元東京大学教授の北澤宏一氏が亡くなられました。謹んでご冥福を祈ります。

本記事では、北澤氏から、また東大教員の相当数から直接間接に感じた「凄さ」について書いておきたいと思います。

学生や部下にこそ丁寧で誠実だった北澤宏一氏

私自身は、北澤宏一氏との直接の接点はほとんどありません。以前、科学技術振興機構の仕事をしていた時期、ちょっとご挨拶したことがあるだけです。北澤氏は、ご著書「科学技術は日本を救うのか」を手渡して下さろうとしました。既に購入して読んでいたので辞退しましたが、闊達かつ丁寧な言葉遣いと物腰が印象に残りました。

北澤氏に、学生として、また部下として接したことのある方々にとっても、この点は同様だったようです。

「目下」から異論反論を受けたからといって感情を害するようなことはなく、むしろ、そういう相手と意見にこそ丁寧に対処されていたようです。

ご著書の内容から、社会的なご活動から、私自身がたった一度だけご挨拶したときの経験から、「たぶん、そうだったんだろうな」と思います。

「目上」に対してどうだったのかは知りようがありません。お年がお年、地位が地位、北澤氏の「目上」にあたる方は多くありませんから。どういう経緯で、そういうお人柄になったのか、私はたいへん興味がありますけれども。

「僕の物理をやらせてほしい」に答えた田中昭二氏

私は長く、半導体の物理に関わる分野の低レベル研究者だったので、北澤氏のご専門であった超電導とは若干の馴染みがあります。私自身は超電導にあまり関心がなかったのですが、直接の知り合いには超電導の研究者(「元」も含め)が何人かいます。

私が20代のときに仲良くしてもらっていた友人の一人に、北澤氏の(組織としての)一世代上にあたる故・田中昭二氏に指導を受けていた東大の院生がいました。非常に優秀で、今は名前を挙げれば「知る人ぞ知る」という存在になっています。

友人の話を聞く限り、田中昭二氏の研究室は、よくも悪くも封建的な色の強い運営がされていたようです。封建的であること自体は、「物性物理分野のふつう」でしょう。高価な実験装置をかなりの長期にわたって管理し、高いレベルの実験ノウハウを維持・継承するためには、他にありようがないのではないかと思います。ただ、封建領主にも良し悪しがあり、封建制度のもとにも善政と悪政はあるのですが。

大学院生になり、自分の方向性や関心が固まってきていた友人は、あるとき研究方針をめぐって

「なんで僕の物理をやらせてくれないんですか!」

と、田中氏と大喧嘩したそうです。研究者であった友人のお父さんが「辞めて実家に帰ってこい」というほどのぶつかり方だったようです。

しかし田中氏は最終的に、友人の希望をある程度は汲みました。友人はそこで学位を取り、その後も大活躍しています。

友人が優秀で「生きの良い」院生だったからこそ、という面はあったかもしれません。でも、あまり優秀でなく生き生きしていなかった学生・院生に対しても、そんなに違う態度は取っていなかったのではないかと思います。もし極端に態度を変えていたようだったら、そうした人たちからの陰口や恨み言が現在も絶えないことでしょう。

不肖の弟子を気にかけ続けていた、我が師・田中俊一

私は大学院修士課程で、東大を定年退職して東京理科大に来たばかりの故・田中俊一先生の研究室に所属しました。自分の師匠を記事等で紹介するときに敬称はつけないのが礼儀ですが、私は未だに「田中俊一」と書くことに大きな抵抗を感じます。敬称をつけさせてください(最近、批判を多く受けている存命中の同姓同名の方がおられますが、まったくの別人です)。

この研究室で、私は「新設の、まだ何もない研究室をゼロから作り上げて研究を可能にする」という得難い経験をさせてもらいました。

しかし私は、学業に専念することが可能な状況にはありませんでした。大学時代から結婚を前提に付き合っていた男性との結婚に両親が大反対したこと、大学時代の研究室での指導教員とのまったく円満でない関係が尾を引いていたことなどがあり、落ち着いて研究に向かうどころではありませんでした。それでも、なんとか研究を進め、それなりの結果を出すことができました。

修士論文は、九州に住む母親からの

「TVに出ていた白金のお菓子屋さんで、行列してお菓子を買って送るように」

という連日の電話に

「今、修士論文書いててそれどころじゃないから」

と答えて

「なんでお母さんのいうことが聞けないの!」

と逆上されて数十分間の説教……に苦しめられながらも、なんとかまとめて提出することができました。

田中先生は、私の大学院生としてはかなり問題のある状況に対して、全貌を知っていたわけではありません。といいますか、「全く知らない」に近かったのではないでしょうか。私も話したくありませんでしたし、田中先生に尋ねられたこともありません。尋ねたくても、おいそれと尋ねるわけにはいかなかったでしょうし。

ただ、背景と無関係に、できていないことについては非常に厳しく指導されました。

「何か事情があるようだけど、これについて叱らないわけにはいかないんだよ!」

と言われたことはありませんが、そういう配慮と関心は感じていました。

その後の私は、企業の研究者として10年間を送りました。2年目に上司が変わって以後は筆舌に尽くしがたい辛酸を舐めつつも、上司の妨害を必死で交わしながら、何回かの学会発表を行いました。論文も一本だけ出しています。

応用物理学会の全国大会では、田中先生とよく会いました。「偶然ばったり」という感じで、「やあ!」と声をかけられ、近況を尋ねられて報告すると、とても喜んでくれました。でも、光情報処理が専門の田中先生が、当時の私の守備範囲のセッションの付近に出現するのは、考えてみると不自然なことでした。「無関係」ということはありませんが、かなり離れた分野でしたから。

これは偶然ではなかったのです。先生が亡くなった後に奥様に聞いた話ですが、かつての弟子たち、特に「出来」に問題のあった弟子たちの名前をプログラムで見つけ、発表が行われる場所の周辺を可能な限りうろうろしていたのだそうです。

企業での状況が煮詰まった時、私は田中先生に進退を相談しました。「もう会社を辞めて文筆業で独立しようと思う」と。1998年ごろのことです。田中先生は

「修論のときから文才あると思っていたし、先日学会誌にちょっとした投稿を見つけて『やっぱり光るものが』とは思ったけど、でもこんな時代だから、できるだけ会社にしがみついていたら?」

と言われました。私は反対を押し切って結局は独立したわけですが、その後、ときどき記事の掲載誌をもって田中先生に見せに行っていました。田中先生は

「修士のときは『この子は将来どうなるんだろうか』と心配してたけど、今こんなふうにちゃんと仕事して成果を出していて嬉しい」

と言ってくださいました。お宅では奥様にもそう話されていたそうです。

ときどき思う「それは東大の学風でもあるのかなあ?」

私は大学進学以来、ずっと東京にいます。学部と修士は、口の悪い人に「東大の植民地」とも言われる東京理科大でしたから、どうしても国立大学の中では東大関係者・東大出身者と接する機会が多くなります。「他の一流(とされる)大学と比べてどうなのか」が比較できるほど、他の大学を良く知っているわけではありません。

ただ東大には、教育者として・研究者として・組織人として・一人の人間として尊敬できる「すごい人」が、「やっぱりたくさんいる」と感じる場面は多いです。規模が大きく、学生も教職員も多いので、それに比例する程度に「すごい人」がたくさんいるのは当然かもしれませんが。

もちろん、避けて通りたい東大出身者もたくさんいます。接する機会が多いということは、そういう人たちとも接するということですから。東大出身のひどい人に、ひどい目に遭わされつづけた末、東大が嫌いになっていた時期もあります。

でも今は、避けて通りたい人たちはなるべく避けて、「すごい人」たちがどのように育ち鍛えられていくのかに注目し、自分自身に応用できる部分は応用したいと思っています。