昨日、2014年9月27日に公開した記事「被害を受けても「被害者」になりにくい障害者の現状(改題)」は、数多くの真摯な、また実感ベースのご感想を頂戴しました。

本記事では、ご感想のいくつかを紹介し、答えるべきことに答えたいと思います。

「野放し」の知的障害者や精神障害者には何が足りないのか

「障害者の野放しは怖い」というご感想

ある漫画家の方がFBで表明されたご意見より。

前半はうなずけるところも多いのだけど、後半は知的障害者に対する虐待については微妙な・・・ 僕自身障害者の多い地域に住んでいて、近所の銭湯の前で銭湯のご主人と談笑していたら。 突然体格の大きい知的障害者が自転車で乗りつけ『お姉さんいる!?? お姉さん居る!!???』とのたまいながら女湯に突入しようとして 二人がかりで羽交い絞めにして阻止したという冗談みたいな経験が。。。 そんな人でも野放しなのに、もう精神病院に隔離されるレベルだと 虐待だの何だの言ってられる生易しい相手じゃないのではと思います。

これに対して、別の漫画家の方から。

障害が有るとか鬱病だとか健常だとか

罪の差は有るでしょうが何をしても許されるわけではない。

と言うか何をしてもいい訳ではない。

怖い。

私も、銭湯の女湯に男が侵入してくるなんてイヤですよ。

まあ、自分がそこにいたら、まずおもいっきりドスのきいた声で「うぉー」とがなり、それでおとなしくならなかったら湯桶を床面に投げつけて大きな音を立てます。それでも無理なら、湯桶を顔面に投げつけて「以上!」、それでおとなしくなってくれなかったら、大声で助けを求めつつ股間にも湯桶を投げつけて「わかったか、以上!」でおしまいかな、と思います。その間に、誰か来てくれるでしょうから。

問題は、「男が女湯に入ってくる」であって、その男が障害者であるかどうかではありません。

最初から「野放し」を良しとはしていません

昨日の拙記事でも、そのあたりは最初から書いています。

現在、健常者が得ている基本的な権利を「フルスペックの人権」とし、この「フルスペックの人権」に「フルスペックの社会参加」「フルスペックの責任」が対応するとするならば、障害者に健常者並みの社会参加と責任を求めるにあたっては「フルスペックの人権」の保障が必要なはずです。ここで「フルスペックの人権」は、障害者が、疾患に対する(自他ともに)適切と考えられる治療や必要な生活支援・行動支援を受けることを含みます。それがあって「訳の分からない犯罪をしでかす障害者」となることは、まずありえませんから。

でも、人権保障はまったく不完全です。その一つの現れとして、義務教育も受けられない障害児が現在もいます。特別支援学校での分離教育にも問題はありますが、その特別支援学校へ通学する手段さえ保障されていないのです。

まとめると

  • 適切な養育環境
  • 義務教育(+ほぼ義務教育化している高校での後期中等教育)
  • 生存権を含めて社会権の確保(生存・生活・社会参加)
  • 社会権を確保するために必要な資源の確保(費用・住居などのインフラ・生活環境・人的支援・病気があれば治療)

です。濃淡はあっても誰にでも必要なものが、障害者には少し多く必要ということです。

特に危険な障害者(が存在するかどうかはともかくとして)には、特に多くが必要ということです。

豊中市社協のソーシャルワーカー・勝部麗子さんのお言葉

「困った人は、困っている人」

を、障害者にも当てはめたら、まさにそういうことではありませんか?

現状、見出す努力も理解の努力も、必要な資源を割り当てる努力も足りなさすぎるので、不幸な障害者による不幸な犯罪が起こり続けるのではないでしょうか? 

さらに、相互の接触・同じ場に対等なメンバーシップで参加することを実現することができずにいるのではないでしょうか?

それが実現されていれば、障害者による犯罪は非常に起こりにくくなるはずなのですが。

障害者だけの問題でもない

障害者に限った問題ではないではないか、というご指摘もありました。

私はこれを読みながら、単に障害者にとどまらない問題ではないかという疑問が頭をもたげてきた。あまりに健常者と障害者という二項対立の軸を基本(前提)にしてしまっているのではないか。健常者と呼ばれる人たちの中にも「フルスペックの人権」が剥奪されている場合があるはずだ。ブラック企業しかり。正社員でもサービス残業を強いられたり、転勤を余儀なくされたり、実際にそういう人を知らなくても、健常者だからといって皆が皆「フルスペックの人権」が保障されているとは限らないと言って差し支えなかろう。みわさんは障害者を前面に出すあまりに、こうした問題へ踏み込まないところでの論稿となってしまっている。むろん、障害者が必要する「フルスペックの人権」なしに、責任能力うんぬんでコトを進める風潮に釘を刺す指摘であるし、あまり社会で認知されてない現状を世間に知らしめただけでも十分な価値があることに変わりはないが。

出典:TRAZOM@さるさる横丁 [1275]「健常者並みの責任を求めるならば、まず健常者なみの権利を。」(みわよしこ)

同感です。まったくその通りです。もし、非人間的な働き方をさせられている人々と障害者が連帯できれば、という思いは私にもあります。

しかし現在、いくつかの理由によって、「障害者だけの問題ではない」と声高くは言いにくいのです。

ざっと挙げてみると、このような感じです。

  • しばしば、無理解な(しかし本人は理解も共感もあるつもりの)健常者から求められる「障害者も健常者もない、みんな一緒に仲良くしましょう」という同化・同調の要求。たいていはは障害者の「いじられる」を伴います。特に医療・福祉関係者に多く見られます。
  • 「あの人は特別な障害者だから、障害ゆえにあれもこれも諦めなくてはならなかった私たち障害者の気持ちなんか分からない」という障害者からの感情
  • 現在、まだ何とか闘えている障害者にぶつけられる「障害者利権!」というやっかみ。これは介護保険の高齢者からも、しばしばぶつけられます。

こういうことが多々あるので、「連帯しましょう!」という呼びかけに対して無条件で「喜んで!」とは言いづらいのです。

いくらか安心して交流ができるとすれば、

「障害者ばかり(あるいは障害者多数+理解者)の場に、少数の健常者がやってきて対話や交流を行う」

というパターンでのことでしょう。

問題は、健常者社会に出て行けている障害者があまりにも少ないことにあり、その理由もまた、障害者がマイノリティであることにあります。

「共生」は、まだまだこれから

障害者(特に精神障害者・知的障害者)と健常者の共生だけを問題にしている限り、大きな進展はないだろうと思っています。

さまざまな個性や背景を持つ人々が、その個性や背景ごと尊重され、ともに幸せに暮らせることを目指すこと。その一環として障害者を考えること。

私は、タルくとも最も確実なこの方向性が実現されるように、力を尽くそうと考えています。