被害を受けても「被害者」になりにくい障害者の現状(改題)
2014年9月8日、埼玉県川越市で全盲の女子生徒が蹴られて負傷した事件は、9月12日、犯人とみられる44歳の男性に対する任意聴取が開始されて以後、報道が途絶えています。
障害者と犯罪加害・犯罪被害の関係は、今どうなっているのでしょうか?
結論からいうと、被害者になったときに「被害者」と認められることは少なく、自己責任論による攻撃にさらされやすく、もしも加害者になったときには大きな攻撃を受けやすい。これが障害者の現状です。
どういう事件だったのか
簡単にいえば「全盲の女子生徒が蹴られて負傷、加害者は逃亡した」という事件です。
加害者とみられる男性が特定されたものの、以後、報道は途絶えています。
この事件に対する関係者と自分のコメント
この直後、私はジャーナリストの池上直樹さんからコメントを求められました。このコメントは「サンデー毎日」2015年9月28日号の記事
「世も末…逆ギレ社会 白杖の全盲少女を足蹴に」
に引用されています。
この記事の中では、事件の事実関係につづいて、
- この事件を受けて女子生徒の通う特別支援学校に寄せられた電話やメールなどは、大半は励ましのメッセージであったが、中には「ぶつかった相手が転んだ気配を感じたのなら、謝っていれば、蹴られなかったのではないか」などという意見も7件あった。
- 特別支援学校の校長は、この直前に盲導犬が何者かに刺された事件について言及し「構造は同じです。見えない生徒に黙ったまま後ろから蹴るのは、無防備な相手に対する虐待、障害です。絶対に許せません」「私達の訴えが悪意に取られると、攻撃対象は子どもたちになってしまう。周りの方々に見守っていただいて、何かあった時は助けてくださいと言うしかない」と述べた。
- (社)全日本視覚障害者協議会の山城完治理事は「こうしたケースは酔っぱらいに多かったが、最近は一般の人も目立つようになった」「世の中が世知辛くなり、余裕がなくなっているように感じます。(視覚障害者は)後ろから人が来たり、大声を出されたりするだけで怖いのです」と述べた。
と、関係者たちの状況とコメントを紹介しています。
なお、この記事は、加害男性についての情報がいまだほとんどなかった時点で作成されていました。
(後記:起こった出来事に対する怒り・不安は、加害男性がどういう方であるかと無関係に全く真っ当なものだと思います)
見落としてはならない論点がたくさん
この事件は、背景やその後の展開も含めると、論説を何本も書けるほどの問題だと思っています。
私が特に重要だと考える論点は、以下の5点です。
- 障害者は被害者になりやすく、被害者として声を上げればさらに攻撃されやすい
- 障害者が被害者になった事故や犯罪は報道されにくく、知られにくい
- 障害者は刑事司法で「被害者」となることが難しい
- 健常者側にとっても障害者側にとっても、目先の現実的な対策は「隔離」となりがち
- さまざまな意味で障害者を「守る」仕組みが足りない
以下、それぞれについて述べます。
1.障害者は被害者になりやすく、被害者として声を上げればさらに攻撃されやすい
そもそも女性の障害者は、性差別+障害者差別の複合した差別の対象になりやすいのです。
被害を受けやすい上、被害を受けたときに声を上げることも難しく、「被害を受けやすい」という状況も改善されにくい構造ができあがっています。「被害を受けた」と言うことさえ難しいのですから。
声を上げれば、そのことをもって「本人にも問題が」「言い方が悪い」といったさらなる攻撃が開始されるという、まことに救いのない現実があります。この状況の中で、安心して被害を悲しみ、悔しがり、「こういう目に遭った」と言うことが可能かどうか。
このような実態については2012年、「DPI女性障害者ネットワーク」が報告書にまとめています。私も読みましたが、「あるある!」の連続でした。
2.障害者が被害者になった事故や犯罪は報道されにくく、知られにくい
障害者の暴力や事故などでの被害が健常者より少ないわけはないのですが、事件化しにくく報道もされにくいという状況があります。
2006年、シンドラー社のエレベータに高校生が挟まれて亡くなった事故は大きく報道されました。2012年には「アパホテル金沢駅前」で、シンドラー社のエレベータに作業員が挟まれて亡くなった事故が発生し、それなりの量の報道がされました。
しかし2006年8月、車椅子使用の障害者が職場のエレベータで重傷を負った事故をご存知の方は、どれほどいらっしゃるでしょうか? (本当はいけないのですが、記事全文を転載します)。
報道の問題では、どうも違和感を感じることが一つあります。
同じように全盲の方が被害者になった事例でも、川越市で蹴られた女子生徒の事例よりも、盲導犬の刺された事例の報道が圧倒的に多く、多くの人々の関心を集めています。障害者の被害よりも動物の被害。これはどういうことなのでしょうか? 公園で猫が惨殺される事件は大きく報道されるのに、非常な頻度で起こっている野宿者襲撃事件は報道されにくいことも、合わせて考える必要がありそうです。
本来ならば、川越の事例では加害者も障害者であったゆえに、より多くの、慎重な配慮にもとづいた報道が必要なのではないでしょうか?
3. 障害者は刑事司法で「被害者」となることが難しい
当然の話ですが、障害者には何らかの障害があります。この障害により被害を受けやすく、また被害を受けた際に事実関係の立証が困難になります。私は電動車椅子利用ですが、一般的な車椅子が横に動けないこと・階段を降りられないこと・頭の高さが低い位置にあること・操作用のジョイスティックが簡単に外力で動くことを悪用した嫌がらせには結構な頻度で遭っています。通りすがりの皆さん? 見てみないふりですよ、ほぼ100%。よほどのことがあれば撮影などを行います(そしてしばしば、カメラを出したとたんに逃げられて成功しません)。しかしこれは、「盗撮! プライバシー侵害!」と騒ぎ立てる第三者に咎め立てられるリスクとセットです。なお、第三者に咎め立てられるリスクについては、こちらもご参照ください。私の実体験です。さらに、やってもいないことまで「やった」と言挙げされました。
つまり、障害者は被害を受けやすく、被害を受けたという証拠を確かにすることも難しいのです。
この状況で、警察に被害届を出すことは極めて困難です。よほどのことがなければ、警察は被害届の提出を認めません。冒頭の女子生徒のケースでは、もし目撃者がいなかったら、相手の性別・年齢・身長・服装などに関する情報がまったくないことになります。膝の裏についた土くらいは物証になりうるかもしれませんが。その状況で捜査を行うことは不可能です。被害届を受けつける≒捜査を行う ですから、被害届は受け付けられないことになります。
さらに精神障害・知的障害などの場合には、本人の語る内容が「事実ではない」という可能性のもとに吟味されます。もちろん健常者も事情聴取の際には「もしかしたら嘘を言っているのかも」という扱いを受けるわけですが、健常者が加害者で精神障害者が被害者であるケースでは、まず「加害者が100%事実を語っている」という前提のもとに警察は捜査を行うようです。少なくとも、私が性的被害を受けた際の警察の動きはそうでした。警察は相手の言い分を100%信頼し、取り調べの最中に相手に電話をかけて取り調べの状況を知らせ、警官3名で圧迫して私に和解を勧め、私の精神科主治医のもとを訪れて「妄想が言わせている嘘」という証言をするよう迫り(医師は応じませんでしたが)、被害届の受付を断固として拒みました。
目に見える暴力被害においても、このような状況はあります。
この文章は、知的障害者に対する暴力事例についてのものです。
こちらの話には激しい「あるある!」感があります。
過去、私は知的障害者を主な対象としていた介護事業所からヘルパー派遣を受けていたことがあるんですが、
「他の人が私に話しかけているのに、ヘルパーが代わりに答える」
といった、介助の意味を考えたらタブーであるはずのことがしょっちゅうでした。下り坂で手動車椅子を押す手をいきなり離されたことも。誰も見る人のない居宅介助ではさらに凄まじく、「15分早くきて、『早く来たから』と30分早く帰る」「めった打ち(ただし平手で、背中など目立たないところに、しかも痕が残らない程度に)」「台所の食器用の布巾で床を拭く(その近くに雑巾があることを知っているヘルパーが)」といったことの連続でしたから。
4. 健常者側にとっても障害者側にとっても、目先の現実的な対策は「隔離」となりがち
かくして
「障害者なのだから、健常者多数がいるところにはなるべく行かない」
が、現実的な対策ということになってしまいます。
健常者が100人いたら、実際の比率は
理解者 5人
無関心 40人
好意的(本人申告) 30人
嫌悪 12人
敵対的 3人
といったところなのではないかと思います。その日出会う健常者が100人なら3人、1000人なら30人が「一触即発」の人であるというわけです。出会う可能性が増えれば、単純にリスクが増えます。だから「人混みには出て行かない」が正解ということになってしまいます。なお、ここで「好意的(本人申告)」を「無関心以下、嫌悪よりはマシ」と位置づけたことにも理由がありますが、話が発散するので今回は触れません。
これは健常者側の「混雑する時間帯に駅にいないでほしい」「混みあう電車に乗らないで欲しい」「街に出てきて自分に配慮や注意を求めないで欲しい」という潜在的・顕在的ニーズとも一致します。
かくして、隔離以外の方法は現実の問題として選択しにくい、ということになりがちです。
隔離していると、相互に理解が妨げられ、折り合うスキルが社会に蓄積されません。長期的には社会が損をしてしまうことになります。しかし現実の問題として、障害者の積極的社会参加より以前に「健常者多数の場に障害者も安全にそこにいられる」が現在の日本では困難なので、「出て行かない」が現実的選択ということになってしまいます。
かくいう自分も、休日・祝日に最寄り駅(JR中央線・西荻窪)に近寄ることは極力避けています。ユニークな街に遊びに来た、土地勘のない街で行きたいカフェやアンティークショップの情報収集に熱中する一方で周囲への注意は払いにくい方々が多数いるわけです。思わぬ事故やトラブルの可能性は、極力避けたいと考えるわけです。またスーパーにも寄らずに済むよう心がけています。休日・祝日のスーパーは家族連れが多いのです。子どもが車椅子に好奇心を持つことは正常な行動だと思いますが、ここ3年ほどで、近づいてジロジロ見たり後ろから触ったりする子どもを親たちがたしなめないことが増えました。「黙って子どもを引っ張って引き離す」さえ、めったに期待できない行動になっています。「すみません」と頭を下げられたら、「地獄で仏」といった心境になってしまいます。
では、平日ならいいのでしょうか? 人出が少ないので快適ではあるのですが、
「働かず昼間からぶらぶらしている障害者」
という目で見られます。実際にそのようなことを言われることも、かなりの頻度であります。
私は自分の仕事その他の必要な活動のために、使わなくてもいい労力は使わず、体力気力を温存しておきたいと思います。なので、休日祝日の外出を極力避けています。
外に出ないわけにはいかないので、平日日中に外出します。すると「働かず昼間からぶらぶらしている障害者」と見られます。
私は自分にとってやむを得ない「外出は主に平日日中に行う」という選択によって、「障害者=働かない」という偏見の強化に貢献してしまっているわけです。メガホンで「働いてるんです、働いてるんです」と叫びながら街を歩くわけにはいきませんから。
なんともやりきれない思いになります。
5. さまざまな意味で障害者を「守る」仕組みが足りない
冒頭の事例で蹴られた全盲の女子生徒が単独で通学していたことについてのコメントが全く見られないので、ここで一言書いておこうと思います。
この女子生徒はもう10代後半、社会への参入の準備としても本人の自意識の問題としても、可能な限り単独行動に慣れて
「行きたいところに自分で行く(人に道を尋ねたり誘導をお願いしたりすることを含む)」
をスムーズに行えるようにする必要があると思います。
しかし、もしも
「この事例が報道されたことによって、模倣犯が増加し、この特別支援学校の生徒全員が通学時に暴行を受けることが増えた」
といった事例に発展したら、まずは視覚障害のある生徒たちの学習の権利を守るために移動支援が必要でしょう。でも、現在の公的制度では、安全な通学手段の確保は義務教育レベルでも実現されていません(一部自治体が独自に実施している例はありますが、国の制度ではありません)。
公的制度での移動支援は長く、「通学・通勤・営業」への使用が禁止されてきました。「公金で障害者(児)の資産形成を行うことになるから」というのが、その理由でした。このうち通学に関しては、一部自治体の独自判断によって道が開かれてきてはいます。自治体によっては高校までの通学を保障していたり、大学への通学での移動支援使用を認めていたりもします。でもまだまだ不十分です。
障害者側の「自己責任」や「障害者利権」を言う前に、健常者側が自分の努力によらずに得ている(自己)責任能力や「健常者利権」について考えてほしいものです。
「小学校や中学校に、行く意欲があって学ぶ能力もあり、イジメに遭っていたわけではなく、引きこもりや不登校といった状況にもなかったのに、通学できないので行けなかった」
という経験を持っている健常者はいますか?
現在、健常者が得ている基本的な権利を「フルスペックの人権」とし、この「フルスペックの人権」に「フルスペックの社会参加」「フルスペックの責任」が対応するとするならば、障害者に健常者並みの社会参加と責任を求めるにあたっては「フルスペックの人権」の保障が必要なはずです。ここで「フルスペックの人権」は、障害者が、疾患に対する(自他ともに)適切と考えられる治療や必要な生活支援・行動支援を受けることを含みます。それがあって「訳の分からない犯罪をしでかす障害者」となることは、まずありえませんから。
でも、人権保障はまったく不完全です。その一つの現れとして、義務教育も受けられない障害児が現在もいます。特別支援学校での分離教育にも問題はありますが、その特別支援学校へ通学する手段さえ保障されていないのです。
義務教育への通学がこのような状況なのですから、その他は推して知るべき、です。
その状態が放置されている、少なくともはかばかしい改善をみていない現状で、障害者に「健常者並み(の就労・社会参加)」を求めるのは時期尚早です(後記:文科省は一応気にしているようです。こちらの文書に「○ 通学時の支援やコミュニケーション手段の確保について、教育・福祉の連携や社会的支援の整備等の支援の充実を図ることが望ましい」という文言を入れる程度には)。
障害者が加害者になった場合に健常者並みの責任を求めるならば、まず健常者なみの権利を。被害を受けた時に健常者並みに被害者となる権利を。たとえば、障害ゆえに「証拠が取りにくい」というハンディについては「身の回りの出来事の24時間録音録画を可能とする特例を設ける」などの対応を。
川越の事件の加害者となった知的障害のある男性に対しては、まずは心身とも安定した状態でいられるよう配慮された状況で日々を過ごしていること、理解できるように配慮した上で事実関係を確認されること、意思表示を間違いなく聞き取られること、やっていないことや思ってもいないことまで「やった」ことにされないことを望みます。
その上で、自分がしたことは何なのか・何が悪かったのか・なぜそういうことをしてはいけないのかを、時間はかかってもきちんと理解し、被害を受けた女子生徒に心から謝罪してほしいと思っています。