今、「責任能力を問えない人」の犯罪防止に何が足りないか(概略)

神戸の女児行方不明事件は、女児が遺体で発見されるという最悪の結末を迎えました。

容疑者として逮捕された男性には知的障害があるということです。

本エントリでは、対策について論じる前段として、概略を述べます。

0. 論じるにあたって

犠牲になられたお嬢さんのご冥福と、ご遺族が適切な支援を受けられて心の平安へと少しでも向かわれることを、心より祈っております。そのことを最初に述べておきます。

その上で、

「この悲惨な事件の犯人には、責任能力があろうがなかろうが厳罰を」

あるいは

「このような悲惨な事件が起こらないように、責任能力のない恐れのある人は施設等に閉じ込めておくように」

という既にネットで見られているご意見多数に対し、「やはり異議を申し上げなくてはならない」と考えます。

このような事件の再発を防ぐためには、これまで検討され、実施され、強化され、その割に効果が上がっているとは思えない「厳罰を」または「隔離を」のどちらかではない本質的な対策が必要だと思うからです。

1.現状

精神障害者や知的障害者の犯罪は

「被害だけでも悲惨なのに、加害者は補償もせず処罰も十分に受けない、だから許せない」

と考えられることが多いです。

悲惨な被害を受けた上、相手にはしばしば経済力がないため補償を求めることもできません。

相手が刑事罰を受けてくれればまだしも、責任能力を理由に無罪になったり減刑されたりします。

私から見ても、これは理不尽極まりない話です。

では、加害者側に何らかの利得はあるのでしょうか? 

稀に「あるのかなあ」というケースもありますが、一般的にそんなことはありません。

被害者は被害を受け、加害者も「罪を償う」で説明がつかない多大な損失を受けることになります。

理不尽というなら、この現状そのものです。

2.私見

心神喪失・心神耗弱・障害による責任能力喪失を理由とした減刑に対しては、私はもともと反対です。

「適切な治療や支援を受けて、侵されやすい権利の数々を十分に擁護され、したがって『責任能力がある』という状況で生活し、もし犯罪を犯したら『責任ある大人』として責任を取るべき」

が私の考えです。

私から見ると、障害者による悲惨な犯罪が起こるたびに実現されてきた施策のかずかずによって、

「どういう治療や支援が、このような障害を持つ人にとって必要かつ適切なのか」

を考えることが先送りにされ続けてきているわけです。

施策の数々を一言でまとめると「ひたすら隔離する」です。

3.知的障害・精神障害のある人が逮捕されたら、どういう扱いを受けることになるか

よく誤解されていることですが、「責任能力がない」とされて不起訴となったとしても、「無罪放免」となるわけではありません。ただ刑事司法の対象でなくなるだけです。

その後は医療観察法によって処遇されます。具体的には、精神科病院への強制入院(措置入院)です。医療観察法、あるいは精神保健福祉法での強制入院(措置入院)によって処遇されます。健常者でも不起訴になるような軽い犯罪であっても、精神障害者の場合は長期の強制入院となります。

退院できたとしても、ふつうの一市民として平和に暮らせるわけではありません。「触法精神障害者」としての監視が行われることになります。

もし「転び公妨」でこういう処遇が行われたら? 考えたくもありません。

重い犯罪の場合には、責任能力がないからといって不起訴になるわけではなく、司法と刑事罰の対象になります。この場合も「同じ犯罪を犯した健常者より軽い刑罰で済む」ということはありません。刑罰そのものは減刑されたとしても、その他の処遇を考えると、「同じ犯罪を犯した健常者以上に、実質的な刑罰を受ける」ということになります。

3. 犯罪を犯してしまった障害者たちには何が必要だったのか

生活の場における適切な支援と行動援護。その前段としての教育、それも統合教育(障害の種類や有無で分離しない環境での教育)。

これに尽きます。

4.「だから施設に閉じ込めろ」でよいのか?

現在のところ、知的障害があると伝えられている容疑者がどういう生活をしていたのかは、「独居」以外には全くわかりません。

しかし起こった事件から見て、適切な支援や行動援護がないまま独居していたのは間違いないのではないかと思われます。

(後記:報道内容を引用しておきます。支援者・援護者が日常的に近辺にいる環境で、遺体を腐敗するまで屋内に置いておけるということは考えにくいです)

(前略)容疑者ですが、一人暮らしで、車やバイクは持っておらず、警察は、遺棄した手段についても今後、調べを進める方針で、25日以降、家宅捜索を行う予定です。

出典:いつ捜査線上に? 黙秘続ける47歳女児遺棄容疑者(09/24 17:07)

「だから、施設に閉じ込めておけばいい」という声もありそうです。

しかし「分離教育」あるいは「施設に閉じ込める」は、一般的な社会生活を体験し訓練を重ねる機会を奪います。

だから生活の場は、地域でなくてはなりません。

問題は、何があれば「まあまあ」「ぼちぼち」の地域生活が送れるのかというところにあります。

5. 地域生活までも、地域生活開始以後も、何もかもが足りない

多くの障害者が、適切な養育環境と初等教育の機会を享受していません。社会に出て問題視される以前に、家庭で差別や虐待を受けていることが多いのです。

まず、人間として育つに必要な適切な養育環境と教育を保障される必要があります。

教育は、特定の種類の障害者だけ固められて受ける分離教育ではなく、統合教育である必要があります。

分離教育では、本人は、特別支援学校や施設からいきなり地域社会に出てきて、偏見や差別その他にさらされることになります。

地域社会は、「いきなり隣に障害者がやってくるなんて、イヤ」ということになります。

健常な子どもが社会に出て地域で暮らせるようになるまでには、概ね20年程度の学校教育があります。

障害のある子どもに対して、少なくとも同じ条件で同じ機会を提供しなかったら、つつがなく地域生活を送れるようにならないのが当たり前ではないですか? 

だから、あるべき機会を保障しなくてはならないのです。

その「あたりまえ」を20年か30年、地道に続けていくこと以外に、障害者による犯罪リスクを減らす方法はありません。

結論:

今回の事件をきっかけに

「知的障害者や精神障害者は施設に閉じ込めておけ」

という声がまた噴き出すのでしょう。

その方針にしたがって、現在も行われている数々の「隔離」を強化すれば

「あぶない障害者がいない安全な『私たち健常者』の社会」

が、一時的には出来るのかもしれません。

でも忘れた頃に、もっと強烈な反動が来ることになるのではないでしょうか。

これまで進めてきて、強化してきて、しかも成功に結びつかなかった方針は、さらに強化するのではなく根本的に見直すべきです。