生活保護のよくある質問に答えてみました(6) 続:なぜ、外国人の生活保護利用はなくせないのか
2014年9月22日に公開した
「生活保護のよくある質問に答えてみました(5) なぜ、外国人の生活保護利用はなくせないのか」
で、大事なことを一つ書き忘れていました。
社会保障を世界共通化する動きです。
言葉本来の、もう一つの「グローバリゼーション」
「グローバリゼーション」という言葉は、主に「国際的イイトコどり」という意味合いと文脈で使われています。
かつて「企業の寿命は30年」と言われていました。現在は10年や20年かもしれません。それぞれの産業の寿命が長くなくなっていますから。
でも、
「人件費の安い国でコストを押さえて生産し、人件費の高い豊かな国で高く売り、本拠は税金の安い国に置く」
という行動を、手を変え品を変え場所を変えて続けていけば、企業として利益を上げ続けて存続することは可能です。
でも、同時に、国境や情報や個人の移動も容易になるのが「グローバリゼーション」です。
個人が国境を越えて移動するとき、ある程度は各国共通の義務と権利が、その個人について回ります。
そうしなければ、世界を通じて人間社会の秩序を保つことは不可能になり、どの国も鎖国しなくてはならないことになります。
もちろん義務と権利は、各国にも課せられます。
このところの日本は排外主義や社会保障の縮小によって、これまで以上に国際社会での義務を逃れようとしているわけですが……。
「世界共通の社会保障」という動き
「どこの国にいても極端な損や得をしないように、『人間である以上は』という視点からある程度の世界共通化をしよう」
という動きは、16世紀に国際政治が実質的に発生して以後(それ以前は各国政治や地域政治でした)、ずっと存在します。
もちろん、この動きはどうしても
「自分の生まれた国や育った国や住んでいる国によって、極端な得をしたい」
という動きに先を越されてしまいがちなのですが、でもやはり
「これって、人としてどうよ?」
という動きに追いつかれることの連続でした。このことは、歴史を振り返れば明らかです。
もちろん、社会保障を避けて通れない近代国家においては、社会保障の共通化へとつながっています。
すでに、主に先進国の間で、2国間社会保障協定が数多く結ばれています。
このことにより、個人レベルでの「払い損」を防ごうとしているわけです。まだまだ不完全ですが。
日本の現状は、こちらのページでかなり分かります。
日本に在留していた時期があり、国民年金保険料を支払っていた外国人に対しては、払った年金保険料の払い戻しを受けられるという制度もあります。一定の条件はありますが、しばしば起こってしまう「払っていたのに受け取れない」という不公平に対する対策(不完全ですが)です。
一気には進まないけれども、長期的には必然の動きに対して
「世界共通の社会保障」、つまり「世界のどこに生まれ育っても、極端な損や得はない」を目指す動きは常に存在します。
現在は数多くの2国間社会保障協定で、主に老齢年金(一部で健康保険も)を対象としています。
しかし長期的には「国際社会保障協定」へと至り、年金以外の社会保障制度も統合したものとなることでしょう。
実現するのは何十年先か、あるいは何百年先か分かりませんけれども、
「50億年後に太陽が爆発を起こし、その時に地球も消滅する」
と同じくらい長期的かつ避けがたい国際的な動きが存在することは、日本の国益を考えるためにも忘れてはならないことです。
「公的扶助は保険じゃないから例外」と言えるのか?
年金は保険ですから、年金保険料を支払うことが受け取りの条件となります。
公的扶助は保険ではなく扶助ですから、過去に何をどれだけ支払ったかは問題とされません。
この違いは、どう考えればよいのでしょうか?
「保険においては世界共通、扶助においては各国まちまち」
を許した場合の不都合を考えてみれば、すぐにわかることです。といいますか、これは既に起こっていることです。
「日本で生活保護を利用して病気を治療する」を目的として来日する外国人は、多くはないのですが既に存在し、問題となっています。極端な貧富の差が存在し、お金がなければ医療を受けることの難しい国が近隣に存在するからです。
その方やご家族の
「生きたい、生きるという機会が欲しい、あの国なら生きられるかもしれない」
という思いを否定することが、誰に出来るでしょうか?
日本国内でも、似たような問題は既に数多く起こっています。
難病患者や重度障害者の生きられる地域は、日本の中に数多く存在するわけではありません。特にその患者や障害者が女性である場合、端的に言えば
「最初からシャドウワーカーであることしか期待してない、シャドウワーカーとしての労働力が失われたなら生かしておく価値はない」
という家族その他の判断により、早く死なせられます。
そういう家族のそういう選択が支持される文化のある地域では、医療も
「難病? 重度障害? で、女性? 医療はいらないね」
という選択をしがちです。かくして、その人たちは
「とにもかくにも生きられそうな地域に来て、生活保護で生存と医療と介助を確保する」
以外の生存の道を失います。
この結果、福祉という裏付けのある理解が存在する地域に難病患者・重度障害者が集中し、それ以外の地域では福祉も理解もどんどん貧弱になりつづけるという「格差」が発生しています。
もちろん、生きていけなくなるのは難病患者や障害者だけではありません。そういう地域が高齢者や子育て世帯・子どもに対してだけは「生きやすい」わけはありませんから。
このような形で、社会保障の問題は、現在の日本が抱える問題の多くにつながっています。そこには財政面での「赤字国債」など深刻な問題の数々もあるわけですが、単純に「赤字国債が問題だから社会保障を減らす」で済む問題ではないのは明らかでしょう。
地域間の格差・国間の格差を放置すると、長期的には結局
「生きるにあたってコストを多く必要とする人が、比較的マシな地域・マシな国に移動することにより、結局はマシな地域やマシな国の支出が増える。したがって、全体として極端にトクな地域や損な地域はなくなる」
ということになります。
それを避けるためには、昔の中国の「城」や現在の米国の「Gated city」を作るか、あるいは関所を設けて「入り鉄砲に出女」的に人の移動を制約するか、鎖国するか、しかありません。
でも、そんなことが都合よく出来るものかどうか。一時的にはやれても、長期に持続できるわけはないと思いませんか?
結論:外国人に日本の生活保護を利用されるのがイヤだったら、外国に日本並みの安定と社会保障を求めるしかない
私自身は、
「○国の人は嫌い」
「○国の人が(自分の何らかの都合のために)日本に住んでいるのはイヤ」
「○国の人に日本の社会保障を利用されたくない」
というようなことを考えたくありませんが、そう考える方々お一人お一人の感情を否定するつもりはありません。
内心でそう感じたり考えたりすること自体は、個人の思想信条の自由の範囲です(表明・表出・表現となると、相手あることですから「個人の自由」とも言い切れませんが)。
でも「嫌い」はともかく、「日本に住むな」「日本の社会保障を利用するな」というなら、そもそも、そういうニーズを発生させないことほど確実な対策はありません。
最も確実な対策は、日本に来る必要性をなくしていただくことでしょう。
本国が経済的に十分に発展・発達しており、政治的に安定した状況にあり、ブラックではない仕事が十分にあり、それなりの社会保障を誰もが利用することができる状態にあれば、稼ぐため・生存のために必要な何かを確保するために日本に来る必要はなくなります。
逆もまた真です。
「生き延びるために外国に行かなくてはどうしようもない」
という切実なニーズを日本国内の日本人に対して発生させると、いずれは日本人排斥運動が起こるでしょう。
これもまた、歴史にさんざん例のあることです。
こういう今だからこそ、日本国憲法を読もう
結局のところ、日本社会と日本人は自国・自分自身のために、国際的な平和と民主主義を求めるしかない立場にあります。
個々の日本人が
「隣に住んでいるイケ好かない(後記:ときにはそういうこともある)在日外国人が日本の生活保護を利用している」
という事態に対して、日々どう考えどう振る舞うべきかは、国際社会の動き・日本が国としてどういう立場に置かれているかと無関係ではありません。
このことを考えるための最良のテキストは、日本国憲法制定文だと思います。ここに引用しておきます。