2014年9月4日、「貧困ジャーナリズム大賞2014」の大賞を受賞しました(タイトル画像は反貧困ネットワーク提供)。
今回は、私自身の受賞への思いと、生活保護問題に関わり始めたきっかけ、この賞にまつわるこぼれ話に関して述べてみたいと思います。
考えたこともなかった「受賞」に驚く
2014年8月下旬のとある午後、パソコンに向かって進まない論文にウンウンうなっていた私は、水島宏明氏(法政大学)から「貧困ジャーナリズム大賞2014の大賞に決定した」というメールを頂戴しました。
「嬉しい」というより、大変驚いてしまいました。「賞を受ける」ということについて考えたこともなかったからです。
もし私がフィクションの作り手であるのなら、さまざまな新人賞は避けて通ることのできない関門だったはずです。フィクションの新人賞には、受賞して初めて「その世界で仕事をする」の入り口に立てる資格という側面がありますから。でもノンフィクションの場合、そういう明確な入場資格はありません。あえて言えば「商業媒体デビュー」が一定の資格証のようなものでしょうか。
私は中学生のとき、小説やシナリオの新人賞にずいぶん応募しました。「文章を書くことを仕事にする」は5~6歳から意識しはじめましたが、当時の私はノンフィクションにそれほど強い関心を持っていなかったのです。
ただ、予選通過が一本あっただけで結果は残せませんでした。残ったのは
「原稿用紙で50枚・100枚・300枚・500枚といった枚数を書くことができる」
という自信だけでした。
それから40年近くが経過し、私は「賞を得る」ということについて考えることそのものを忘れてしまっていました。
猫が入院、授賞式当日は記事締め切り、翌日は論文締め切り!
受賞を知らされたころ、我が家では大きな問題が一つ持ち上がっていました。
猫の瑠(りゅう・♂・6歳)が8月20日ごろから体調を崩し、食事をせず引きこもりがちになっていたのです。8月30日、瑠は動物病院に入院することになりました。
瑠と大変仲良くしている猫の摩耶(♀・17歳)は、瑠が体調を崩していなくなってしまったことに心配と寂しさを示しました(ちなみに「瑠」という漢字は、2013年5月に発見された大阪市北区の母子変死事件の2歳の息子さん・瑠海(るい)君から頂戴しました。このお子さんを忘れないでいよう、と)。
授賞式が行われる9月4日は連載「生活保護のリアル」の締め切り日、翌日9月5日は現在の大学院での初の査読付き論文の締め切りです。
私は毎日、摩耶のケアをしながら瑠の様子を動物病院に尋ねながら、取材ノートや写真の整理をし、記事と論文と両方のための調べ物をし、記事と論文を同時並行で書き……と、あたふたあたふた、でした。
もちろん自分のケアも必要です。この3月、花粉症の激烈な症状で苦しんだあと、ダメージを受けた呼吸器がはかばかしく回復せず現在に至っています。8月初めには熱中症にかかり、体の機能がやっと正常化してきたのが8月末ごろでした。
体調は良いに越したことはありません。心配事は抱えていないほうが良いに決まっています。でも「プロ」とは、ちょっとやそっとの問題やアクシデントのもとでも、一定の質のアウトプットを安定して出せる人を指す言葉だと思います。
私はこの意味で、まぎれもない「プロ」であろうとしてきました。そしてそれは、かなり実現されていると思っています。
人、私を「ジャーナリスト」と呼ぶ
さて、9月4日のことです。
「生活保護のリアル」の原稿を編集部に送付し、論文を論文誌編集委員会に添付メールで送付した後、私は身支度をして外出し、授賞式会場(神保町)に向かいました。
論文のほうは、さらに印刷した紙とCDROMを郵送することが必要なので、その2つを封筒に入れて抱えていました。郵便局を見つけて郵送しようという魂胆です。安全を期して、少しでも早く電車に乗っておきたかったので、住まい近くの郵便局で出すことは諦めました。「授賞式会場近くの郵便局から出せばいいや」と思っていたのです。ところが電車乗車時の乗降車介助の手配に予想以上に時間がかかり、会場到着がギリギリになってしまいました。
会場に到着し、受賞者一覧を見てみると、私の肩書はジャーナリストとなっていました。
私は、自分を「ジャーナリスト」と考えたことはありません。仕事の内容はジャーナリスティックなものを大いに含んでいると思いますが、私は自分のことを「ライター」だと考えています。言葉そのまま、「書く」仕事をする人です。
「ライター」の方が、柔軟に動きやすく、生存に有利だと思います。たとえば
「今月はお金がないので緊縮生活しています、ライターですから」
「さっきスーパーでタイムセールの賞品ばっかり買ってきました、ライターですから」
「今ちょっと記事が途切れていて収入がちょっと……なので、音声起こしもやってます、ライターですから」
といった、いまどきのライターなら「よくあること」の数々は、「ライターですから」の一言でなんとなく説明がつきます。
でも、この「ライターですから」を「ジャーナリストですから」「作家ですから」に置き換えてみたら、どうでしょうか? なんとなく、しっくりこない感じがしませんか?
「ジャーナリスト」「作家」には、「自分と家族が生きるためなら、なりふりかまってられない」というニュアンスは似合わない気がするのです。
私は今でも、自分のことを「ライター」と考えています。
私は何にも優先して、自分自身と猫たちの生存と生活を守る「猫のおかあさん」でした。今もそうです。これからもそうでしょう。
その「猫のおかあさん」の、一家の生存と生活を守るための生業が、ライター稼業であるというわけです。髪振り乱して、なりふりかまわず、延べ4匹の小さな家族たちを守ってきたことに、私は小さな誇りを持っています。
でも、ここ数年の仕事の内容からみて、私は他の方々の目には、まぎれもなく「ジャーナリスト」なのでしょう。
そう認識していただけることは、光栄なことです。
名刺の肩書に「ライター」と書くことになろうが「ジャーナリスト」と書くことになろうが、
「ジャーナリスティックな仕事によって受けた評価を裏切らないように、これからも歩み続けなくては」
と思いました。
貧困問題に関係ある「みんな」を代表して頂戴した賞
受賞スピーチでは、
「賞というものが自分に関係あると思っていなかった私が、こういう賞を受賞することになり、大変嬉しく、かつ重く受け止めています。私自身がというより、貧困問題に関わりのあるすべての方、今、貧困状態にある方、いつ貧困状態に陥る可能性もある方、支援する方、支援する制度を支える方など、『自分に貧困は関係ない』と言い切れるごくごくわずかな方を除く大多数の方を代表していただく賞だと思っています。これからも、伝えなくてはならないことを伝えていこうと思います。よろしくお願いします」
というようなことを述べました。これは本音です。
今の日本で生活保護問題について発信していると、たいへん消耗する場面も多々あります。
しかし貧困問題と何らかの関わりをもつ全てに対して、ラグビーの「One for all, all for one」のような気持ちを抱き続けることで、私は今までのように仕事を続けてくることができました。
目の前に私を罵倒する人がいて強烈な言葉の数々を発し続けているとしても、黙って支持して下さる方もいるかもしれません。
その罵倒する人自身の背景に、自分が働きかけるべき何かがあるのかもしれません。
地球上の全人類という大きなチームに対して、自分が今できることは何なのか。そのチームと自分の関係はどのようなものなのか。
少なくとも、そういうふうに考えを広げていくことは、個々のことがらに心を乱されてどうしようもなくなることを避けるために有効です。
そもそも、なぜ生活保護問題について書き始めたのか
授賞式に引き続き、選考委員と受賞者によるシンポジウムが行われました。このシンポジウムの内容は、「ダイヤモンド・オンライン」にて連載中の「生活保護のリアル」で紹介しています。
彼ら彼女らはどのように「貧困」を見出し、伝えたか 「貧困ジャーナリズム大賞2014」受賞者たちの闘い ――「生活保護のリアル」政策ウォッチ編・第77回
冒頭、受賞者全員が、なぜ自分が受賞したテーマに関わりはじめたのかについて話しました。私の場合は、ざっくり言うとこういう感じです。全然ざっくりしてませんが。
- そもそも障害者なので障害者の友人が多く、その多くは生活保護を利用している。よく、頼まれて病院や福祉事務所に付き添ったり、近隣トラブルに介入したりしていた。自分が中途障害を抱えたあと、あっという間に困窮し、福祉事務所で生活保護の申請を勧められたこともある。直後に大きな仕事が決まったので申請する必要はなくなったのだが、しばらく、申請書をお守りのように持ち歩いていた。そういうわけで、世の中平均に比べて、生活保護についてはよく知っているほうだったと思う。
- しかし東日本大震災後、その友人たちからの要請コールが数倍になり、とても対応しきれなくなった。震災をきっかけに、生活保護への差別意識や偏見や攻撃が吹き出してきた感じ。放っておいたら気分が悪い。対応してたら生活も仕事も圧迫されて回らなくなってしまう。そこで友人たちは信頼できる障害者団体につなぎ、私はライターとして生活保護に関する正確な知識や情報を広めることをしようと思った。紆余曲折の末、現在も続く連載「生活保護のリアル」が開始となった。この経緯は、書籍「生活保護リアル」のまえがきにも少し書いている。
- でも、長年の間、物理系の三流の研究者だったりICT系技術者・ライターだったりした私がそういう仕事に向かうようになった原点は、今にして思えば、幼少期にあったと思う。通っていた福岡県の町立の小学校には、現在の公立小学校ではとても考えられないほど激しい貧富の差があり、深刻な困窮状態に置かれ続けて義務教育も満足に受けられないクラスメートもいた。自分自身は、典型的な高度成長期の中産階級家庭の子どもで、習い事も中学受験もでき、物質的に絶対的な衣食住の不足があるというような育ち方はしなかった。毎日、小学校で激しい格差や、その格差が引き起こす悲しいことの数々に接しながら、「どうして、こういうことが起こってしまうのだろうか」と思っていた。この経験が原点だと思う。このことは雑誌「ライブラリ・リソース・ガイド(LRG)」の Vol.2で、5万字くらい使って書かせていただいている。
この後は、楽しい懇親会がありました。料金は割り勘です。立派な賞状と賞品の数々を頂戴しましたが、この賞に賞金はありません。
でも「必ずしも経済力に支えられていなくても、『大賞を選考して表彰する』という実績を積み重ねていくことはできるんだなあ」と、大いに参考にさせていただきたいと思います。
「是が非でも賞金を出す」といった無理をしていないことが、本来の目的を長く達し続けることにつながっているのかもしれません。
そして論文の入った封筒は、私のバッグに入ったまま、自宅に帰ることになりました。夜間窓口のある郵便局が近くになかったし、メールで書類不備を指摘され修正する必要があったからです。社会学に転向して半年目、理系の世界とは「こだわりポイント」がかなり違うということに、まだちょっと慣れずにいます。
論文も無事提出! 猫も退院!
翌9月5日、私は論文を修正して印刷し、ふたたび封筒に入れ、郵便局には行かずに新幹線に乗りました。京都にある論文編集委員会まで、直接持っていったわけです。途中、「お腹の調子がよくなく、失禁して1時間ロス」というアクシデントはありましたけれども(車椅子を必要とする筋力低下というのは、脚や歩行能力にだけ及んでいるわけではないので、ふだん失禁しないために万全の注意を払っているわけです)、滑り込みセーフ! でした。
入院していた猫の瑠は、はかばかしく回復せず、自力で食事をとれる状態にはなりませんでした。しかし9月12日、やや食欲に改善が見られたことから、「いったん退院させて様子を見ましょう」ということになりました。
退院した瑠は、慣れ親しんだ「おうち」の雰囲気の中でリラックスして休養し、少しずつ食欲を回復させてきました。本日9月21日は、まだ少しふらふらしているものの、朝から食事を催促し、血のつながりのない姉・摩耶とともに楽しく暮らしています。
もう一匹の猫、3回目の高齢動物表彰にリーチ!
17歳になる猫の摩耶は、慢性腎不全(発見時にステージIII)と4年2ヶ月、糖尿病と1年10ヶ月、付き合い続けています。もはや奇跡といってよいかと思います。少しでも長く、少しでも良い状態で彼女の健康と生命が維持されるように、大きな無理はせずに出来ることをボチボチ続けてきただけですが。
摩耶は15歳のときから、毎年9月15日の健康状態によって、杉並区獣医師会から「高齢動物表彰」をいただいています。一緒に走ってきたマラソンを表彰していただいているようで、嬉しいことです。
今年もいただければ3回目となるわけですが、その判断時期となる9月15日を今年も元気に迎えられました。
これからも、ジャーナリスティックな内容を多く含む仕事を、心はこれまでどおり「ライター」として、もちろん「猫のおかあさん」として小さな家族たちを育てたり守ったりしつつ、なりふりかまわず発信しつづけていく所存です。
どうぞよろしくお願いします。