「在外日本人」に気をつけろ! - SNSでの出会いを「落とし穴」にしないために
(2014年8月19日19時20分:誤記や文言に若干の修正を行いました)
(2014年8月20日10時30分:サブタイトルをつけました。また、後記を追加しました)
日本で生涯を送りたいと望んでも、それが叶うとは限らない現在です。
もしも日本で生涯を過ごす予定であるとしても、海外に在住している日本人との交流から得るものは少なくありません。
何に、どのように気をつければ、互いに気持ちよく有意義なお付き合いが可能になるでしょうか?
本エントリーでは便宜上、海外に年単位で長期にわたって在住している日本人を「在外日本人」、日本に在住している日本人を「在内日本人」と呼びます。
「在外日本人」は、故・柳原和子さんのご著書「『在外』日本人」から拝借しました。実に気持ちのよい「在外日本人」の方々が多数登場する書籍です。
在外日本人に期待できることは?
まず、「その地域に住んでいるからこそ」の知見や知恵は、在外日本人に大いに期待することができます。
実体験を通じて彼ら彼女らがつかんできた現地情報・「暮らし心地」に関すること・現地のさまざまなエスニシティをもつコミュニティとどう付き合うか などの情報は、代えがたい何かである可能性が高いでしょう。
また、日本では報道されない現地の事件も多数あります。在外日本人の皆さんが、日本で報道されている事件の意外な側面に通じていることもあります。
ただ、あなたの関心が相手の関心と一致するとは限りません。
「アフリカ某都市のアパートにおける隣の奥さんの浮気について」
といった話を延々と聞かされることになる可能性もあります。
仕方ないでしょう、相手にとってはそれが生活上の重大事なんですから。
在外日本人に期待できないことは?
日本の状況に関するアップデートされた認識や、現時点での常識は、在外日本人には求めようがありません。日本にいない以上、一定の限界があります。
ただ、これも良し悪しです。
いわゆる「和」「協調」「空気を読む」といったことを重視する日本文化に息詰まり感を抱いている人にとっては、在外日本人との会話が良い刺激や息抜きとなる場合もあります。
日本的「和」を第一義としない人と接すること、空気を読んでいない人の率直な発言を聞くことは、日本にいる人には非常に重要な機会だと私も思います。
もしかすると、その在外日本人のデリカシーやマナーには、若干の、あるいは多大な欠如があるかもしれません。そういう機会に
「日本の自分の属するコミュニティが神経質にこだわりすぎているのかな?」
と考えてみるのも悪くはないかと思います。
もしかすると相手のちょっと(かなり)傍若無人だったり無神経だったりする言動の背景は、その在外日本人にとって、日本やあなた自身が「旅の恥はかきすて」の対象となっていることにあるのかもしれませんけれども。
結局は、程度が問題なのです。
つきあい方・時間・距離感を自分がコントロールできる範囲で、耐えられないストレスや取り返しのつかないトラブルに発展しないように付き合うことが可能なら、相手にちょっとやそっとの癖・場合によっては若干の悪意があったとしても、あなたに有意義な何かをもたらす出会いとなる可能性があります。
ただ、現地を訪れた在内日本人を、自分の支配欲の満足や憂さ晴らしに使ったり、寸借詐欺のカモにしたりする在外日本人もいます(経験あり)ので、注意は必要ですが。
在外日本人は、在内日本人に何を求めているか?
では、在外日本人の方々は、在内日本人に何を求めているのでしょうか?
人それぞれですが、
「現地で得られない日本(日本人)の何か」
であることは間違いありません。なにしろ、日本にいないわけですから。
現地スーパーには輸入されていない日本の調味料類であるかもしれません。
日本のローカルな話題で盛り上がれる相手がいなくて寂しい思いをしているのかもしれません。
現地で言葉の壁・文化の壁を超えて活動することが困難すぎて、賞賛や達成感に飢えているのかもしれません。
就労可能なビザを取得することができず、知識とスキルとエネルギーを持て余しているのかもしれません。
もっと単純に、日本語で愚痴を言いたいだけなのかもしれません。それも「全人的に認める」「(大人を)甘えさせる」ということのありうる日本文化を共有する日本人に対して。
相手がどういうニーズを持っているかは、実のところ、会ってみないと分からないことが多いです。
異なるシチュエーションで何回か会ってみて初めて分かる側面もあったりします。
私には、「SNSで接点を持って会ってみた在外日本人が、とんでもない自意識のお化けだった」という苦い経験が何度かあります。まあ、どこの国のどういう人にも、周囲に誰がいるか・周囲の状況によって「ジキルとハイド」みたいに態度を変える人、いますから。さらに私の場合は、
「女性の障害者で、そもそも車椅子に乗っているので顔の位置が低い」
ということが相手を刺激して「スイッチ」を入れてしまっている可能性もあります。相手がSNSなどで日常、どれほど素晴らしいボランティア精神を披露していようが、あるいは東日本大震災などの機会にタイミングを逃さずにチャリティ活動をしていようが、あまり関係ありません。
もちろん、自分のスキルやポジションなどに一定の自信があり、自分の歩んできた道や自分の達成に一定の納得をしており、その上に他文化・多文化で揉まれて魅力的な人格となっている在外日本人もいます。人数でいうと、そういう方々の方が多いのかもしれません。目立たないだけで。
学歴・業種・職種にあまり関係なく、何らかの「プロフェッショナル」は気持ちのよい方であることが多いです。これは在外・在内、あるいは外国人か日本人かを問わず共通することであるかもしれませんけれども。
問題は、そういう気持ちのよい在外日本人がヒマであったり、ましてや他人に絡みたくてしかたのない精神状態にある可能性は少なく、したがって、SNSで見つけたり出会ったりする機会も少ないということです。
SNSで在外日本人と知り合うことの是非
SNSが「あたりまえ」の存在となった現在では、在内日本人がSNSを最初の接点として、在外日本人と知り合うことも珍しくなくなっています。といいますか、現地に行く前に接点を持つことが可能であるとしたら、SNS以外の手段は多くはないでしょう。
SNSで活発に発言している在外日本人には、大きく分けて2つのタイプがあります。
- 職業上の理由でSNSでの発言を必要としている人
- ただのおしゃべり、ただの「かまってちゃん」
前者、つまり職業上SNSを必要としている在外日本人と在内日本人が個人的に仲良くなることは、まあ、たいていの場合は不可能です。相手は見込み客に対する広報のために、あるいはマーケティングのツールとして、SNSを使っているわけですから。著書やブログを読むとか、日本に一時帰国した際に講演会に参加するとかが、互いに可能な精一杯のお付き合いでしょう。
後者、つまり単に「日本語でしゃべりたい」「日本人にかまってほしい」を主目的としてSNSで活発に活動している在外日本人とだったら、在内日本人が個人的に仲良くなる機会もありえます。しかし、近寄ると危険なタイプが少なくないのです。
極端なケースでは「(軽)犯罪者や困り者として現地の日本人コミュニティから排斥されている」という場合もあります。
そこまで行かなくても、度の過ぎた「認めて欲しい、話を聞いて欲しい」というニーズを持っていることもあります。相手は、満たされないプライドを毎日抱えているのです。コンプレックスや屈辱感や孤立感ではちきれそうになっています。
でも、一般な在内日本人がSNSで接点を持つことの可能な在外日本人は、そういう困ったタイプであることの方が多いのです。
どうしたものでしょうか?
繰り返しになりますが、付き合い方を慎重に制限しつつ付き合っていけば良いのです。
お茶限定、ランチ限定、あるいは「家族が待ってるから」とかなんとか適切な理由で終了時間や飲み方(車の運転を理由にして飲まない、とか)を決められるお酒の付き合い限定、など。
一年に一回か二年に一回、一年あたり平均二時間程度のお付き合いを何年か繰り返しているうちに、本人やその周辺が見えてくるでしょう。疲れる人・危ない人・遠ざけるべき人ではないことが互いに分かるころには、自然に、互いに気持よく付き合えているでしょう。
そうでないことが判明したとしても、「ちょっと危険」「かなりストレスフル」「できれば遠ざけたい」という困ったタイプの在外日本人の周辺に、魅力的で気持ちのよい、ぜひお付き合いをお願いしたい在外日本人がいることは少なくありません。困ったタイプの在外日本人は、不自然なほど顔が広く、しかもそれを誇るべきことと考えていることが多いのです。だから、お付き合いをお願いしたい在外日本人たちとの関係を少しずつ濃くしていって、困った在外日本人の方との付き合いを薄くしていけばいいんです。お付き合いをお願いしたい在外日本人たちの方も、困った在外日本人に「実は困らされていて」ということもあります。
「SNSで『さすが海外で鍛えられると違うなあ』という敬意を感じる発言を数多く行っている、あの人にちょっと会ってみよう」
と考えること自体は、そんなに悪いことでも危険なことでもないだろうと思います。
あくまで、お茶やランチや、何でもいいのですが自分で範囲と境界を設定できるお付き合いにとどめておけば。
相手が、あなたの設定しておきたい限定を強引に踏み越えて来ようとするならば、それは既に危険信号です。だから、踏み越えが行われないように慎重に脇を固めつつ、接触すべきなのです。
そこに、特別な日本人がいるわけではない
在外日本人は、「日本にいるわけではない」という一点を除いて、特別な日本人ではありません。
それぞれ、コンピュータエンジニアだったり、学校教員だったり、ミュージシャンだったり、専業主婦だったり、配送業者だったり、清掃業者だったり、小売業者だったりします。
日本にもあるそれらの仕事を「現地で行っている」ということには、確かに特殊性があります。
言語・文化・コミュニケーション様式の異なる現地で行っているというだけでも、尊敬に値することであるかもしれません。
右も左も分からない現地で、住み始めたその週から、役所や銀行での手続き・しかるべき日にゴミを出すこと、その他、その他、生活のためにしなくてはならないことが山盛りです。どこの国であれ、「暮らす」とはそういうことですから。
場合によっては、そこに「サバイバル」の要素も加わることでしょう。
その在外外国人がどういう人であれ、大変なことを乗り越えて、そこで暮らしているのは事実です。
大変なことを乗り越えたので立派な人になっている可能性もあります。
大変なことを乗り越えきれずに、ねじくれたプライドと憤懣とコンプレックスの塊になっている可能性もあります。
でも、そこに特別な人がいるわけではないのです。
ずっと日本で暮らしている在内日本人にも起こりうることが、さらに極端な形で現れているだけです。
後記:
私の友人には、長期の在外経験のある日本人がたくさんいます。その人々のうち相当数は、この記事を喜んでくれました。
「外国にいるんだから」という勝手な思い込みをもって接してくる在内日本人に辟易させられた経験は、その人達にかなり共通しています。
たとえば「ヨーロッパに赴任」といえば、地域によっては訴訟社会でのピリピリした日常生活となる可能性を想像することなく「バカンスはどこに? 楽しんでるんでしょう?」と羨望をぶつける在内日本人は、珍しくもないかと思います。
また、「そういうタイプの在内日本人の思い込みや無知につけこむタイプの、ごく一部の在外日本人に迷惑させられた上、その人々の同類のように見られることがある」という話も数名から聞いています。
だから在内日本人に対して、「気をつけろ」と注意を促しているんです。実はSNSでの発言を通してしか知らない在外日本人に対するならば、なおさら。
相手は、日本にいる気心知れた在内日本人ではありません。実は「気心知れた」と思っている在内日本人だって他者なのですが、在外日本人は、それ以上に他者です。思い込みを持つならば「他者である」という思い込みを持ち、自分も相手も傷つかないように「気をつけて」慎重に近寄るべきなのです。
とはいえ、自分自身を警戒の対象とされているようで不快になるという在外日本人の方々もいるかもしれません。その中には、警戒されて当然のことを過去に実際にやってきた在外日本人の方々もいるでしょう。しかし、そういう人に迷惑をかけられ、(または|かつ)そういう人の同類として偏見の目で見られる可能性(あるいは、実際に見られている事実)にナーバスになっている在外日本人の方々もいるかもしれません。
ですので、タイトルを変更しました。巻き込まれて偏見を向けられてナーバスになっているかもしれない方を、さらに傷つけることはありませんから。
ただ、「気をつけろ!」は変更するつもりはありません。
互いに、多様な意味で「気をつける」べきなのだと確信しています。