「真実と希望の○×科学」を求めて - 榎木英介「嘘と絶望の生命科学」
2014年8月5日、理研・CDBセンター副センター長であった笹井芳樹氏が自死されました。
これをきっかけとして、
「STAP細胞問題の報道や発言によって関係者に過大なプレッシャがかけられ、犠牲者が発生した。以後、報道等は慎むべし」
という意見も出現しはじめています。
本エントリーでは、そういう現在だからこそ、STAP細胞問題に関心を持つ方々に御一読いただきたい本を紹介します。
2014年7月18日に刊行された、榎木英介氏の新著「嘘と絶望の生命科学」(文春新書)です。
STAP細胞問題、終わったことにしていいの?
もしかすると、STAP細胞問題は、既に「終わった話」なのかもしれません。少なくともスキャンダル報道ネタとしては。
「Nature」などの論文に掲載されたとおりにSTAP細胞が出来ていなかったこと、そこに記載されている通りのSTAP現象はなかったことは、もう覆されようのない事実ではないかと思われます。関連するいくつかの論文に、データや画像の不適切な取り扱いがあったことも確かです。
現象そのもの、あるいは研究がどのように遂行されたかに関わる「新事実」は、もう当分は現れないでしょう。
もしかすると、関係者のパーソナルストーリーに新事実が出てくるかもしれません。小保方晴子さんの去就には、相変わらず関心が集まってもいるようです。
しかし、それは現在、最も関心を向けるべきでないことがらだと私は思います。
以前から、「科学に関する日本の報道はパーソナルストーリー偏重に陥りやすい」という問題意識が、関係者の間で共有されていました。それは「日本の読者にパーソナルストーリーが歓迎されやすい」という現状と裏腹です。商業媒体で読者の関心を意識しないことは、できません。かくして、科学に関する報道はパーソナルストーリー偏重になり、「科学」「科学研究」を伝えるという本来の目的を果たすことが困難になります。
この問題は、日本の科学ライター・科学ジャーナリストの勉強会などで同業者が集まると「必ず」といってよいほど持ち上がり、しかし結論や解決方法に結びつく展開はしないまま時間切れとなる話題でありつづけています。
「科学」「科学研究」を伝えるとき、パーソナルストーリーをセットにせざるを得ない。しばしば、パーソナルストーリーの方に重みを置かざるを得ない。そもそもこの状況が、事件の際に「ほぼ、報道=個人攻撃」という図式につながるリスクを含んでいたのだと思っています。
科学や技術についても書いているライターである私は、引き続き、自分が職業の上でできる努力を続けるしかありません。パーソナルストーリーではなく「科学」「科学研究」を伝える工夫。パーソナルストーリーを通じても、そこに過度に依存することなく、「科学」「科学研究」を伝える工夫。
一フリーランスライターが個人でできる努力は、そのくらいです。
しかしながら今後5年くらい、STAP細胞問題に対する関心は、向け続けられる必要があると思います。事態の収集収拾がなされるとすれば、少なくとも5年程度の時間はかかるでしょう。その成り行きは、やはり、注意深く見守る必要があります。
だから、今読むべき本として、この本を紹介します。
関心ある多くの人々、しかし「科学業界」「研究業界」の中にはいない人々にとって、今、知る必要があるのは、現在も散発的に報道されている事件のディテールではありません。構造や背景を理解し、何ができるのかを少しずつ考えはじめることではないでしょうか。
「嘘と絶望の生命科学」は、その目的に対して「うってつけ」の本だと思います。
最良の書き手による「生命科学研究業界ガイドブック」
この本は、STAP細胞問題があったからこそ企画され、執筆され、夜に世に出た本です。もちろん、「STAP細胞問題の」「関係者の」「関係者の出身大学の」「理研の」問題も当然書かれてはいます。
しかし、それ以上に「生命科学研究業界の現在がよくわかるガイドブック」として評価したいと思います。生命科学研究業界の地図帳であり、生態系解説というべき本です。
別の分野の科学研究の世界に長く足を突っ込んでいた私には、生命科学研究業界には「は? なんでそうなるの?」と言いたくなるようなことが数多くありました。自分のいた分野からのアナロジーでは理解できないことが多すぎるのです。その多くに、「嘘と絶望の生命科学」は答えてくれました。一言でいえば、業界の生態系に構造的な問題があるのです。
もちろん、研究不正は行ってしまった人の問題ではあります。業界の問題によって、個人が免責されるべきではありません。
しかし、「責任ある立場の人の更迭人事や他界によって解決したことになる」では済まない、根本的な問題が数多く含まれています。
責任ある立場の人が自分自身の立場と責任でできるはずのことは、少なくないはずです。「外の人」が「できるはずだ、すべきだ」と考えがちなことは、もちろん、数多く存在します。しかし、「言うは易く行うは難し」を考慮したうえで、それでもなお実行可能なことがらは、どれだけあるのでしょうか? 実は、ほとんどないのではないでしょうか? 少なくとも、生命科学分野では。せいぜい、各研究者が「著作権上のルールは可能な限り守る」を遂行するくらいではないでしょうか?
この本には、たとえば大学院で研究室を主宰している教員(PI)が取りうる選択肢も、具体的に書かれています。それは読めば読むほど、絶望的な内容です。まず、マシな選択肢を選択することが難しいのです。また、マシな選択肢も、実はあまりマシな結果に結びついていません。背景にある構造的な問題が、あまりにも大きすぎるからです。
この構造的な問題は日本が国として選択している国策ともリンクしていますし、さらに世界的な「グローバリゼーション」などの動きともリンクしています。
もちろん、根本的対策は必要です。しかし、一朝一夕に根本的な解決が可能な問題ではありません。
STAP細胞問題は、まさに「氷山の一角」であることがよく分かります。表面化したという意味で「氷山の一角」であるのもさることながら、表面化するような問題の発生を避けたところで対策になっていないという意味でも「氷山の一角」です。表面化している「氷山の一角」を削ったとしても、氷山が氷山である以上は無意味です。もっと大きな一角が浮かび上がってくるだけですから。
では、氷山を壊してしまいますか? 今回のSTAP細胞問題についての「この機会に膿出しを」という意見に対し、もと生命科学研究者の一人は「膿を出したら、何もなくなってしまう」と苦笑しました。
もしかすると「全部壊す」以外の根本的対策はないのかもしれません。
でも、生命科学そのものが不要になる将来は、ないでしょう。人類の「生きる」と密接につながる科学ですから。
榎木英介さんの絶妙な立ち位置
著者の榎木英介さんは、もと生命科学研究業界の「中の人」。大学院生時代は、故・笹井芳樹氏と近い内容の研究を行っていた時期もあるということです。そのことは本書にも記されています。
現在も、榎木さんは「外の人」ではありません。大学教員でもあり、大学病院の病理医でもあるという立場です。
榎木さんは、研究の場でもある大学に勤務し、プレ研究者であるかもしれない学生の教育に当たっています。その意味では、まぎれもない生命科学研究業界の「中の人」です。研究者そのものではありませんが、研究の成果を日々の病理診断に活かす立場です。その意味では、「非常に親しい関係者」ともいえます。
でも、生命科学研究の世界の「中の人」とは、かなり異なる立ち位置です。
「嘘と絶望の生命科学」について特筆すべきことは、著者の絶妙な立ち位置と距離感です。この、中の人とも外の人ともつかない、最も書きづらくもあるはずの微妙な立場から、それでも敢えて書かれた書籍であること。
これは、どれだけ強調しても足りないことと思います。
友人の一人としての榎木英介さん
実は、榎木英介さんは、親しくしていただいている友人の一人でもあります。私自身が科学や技術を「伝える」仕事に長年関わっていますので、同業者の交流会のようなところで「あら、またお会いしましたね」と、互いを知る機会が自然に増えてきた感じです。もう、お付き合いいただいて8年くらいにはなるでしょうか?
日本科学技術ジャーナリスト会議(JASTJ)の会員でもある私は、2011年、榎木さんがJASTJ賞を受賞されたときの授賞式にも参加しました。榎木さんはこのとき、胸に花をつけたまま関西へ帰ろうとしていました。私がうっかり指摘してしまったので、榎木さんは花を外してしまいました。まことに惜しいことをしました。胸に花をつけたまま新幹線に乗り、関西まで帰ったら、多くの人達から「あら、何かいいことあったのね」と祝福の笑顔を向けてもらえたことでしょう。
唸ってしまう比喩・文学的表現の数々
「嘘と絶望の生命科学」には、数多くの比喩や文学的表現が用いられています。
大学院の研究室は、大きく「放牧型」「ブロイラー型」に二分され(86ページ)、また「放牧ブロイラー」という亜型も示されています(90ページ)。いすれも、最終的には食肉とされてしまうわけですね、わかります(苦笑)。そこで私が思い浮かべたのは、オーウェル「動物農場」です。業界が「動物農場」化しているのであれば、登場人物の運命や個々のエピソードは「良し悪しは別として、そういうことは当然起こりうる」の範囲でしょう。
「バイオ研究の一部は、虚構の上にそびえたつ、砂上の楼閣だというのは言いすぎだろうか」(157ページ)には、言い過ぎだとは思いません。「そこまで言っちゃって大丈夫なのかなあ」と心配にはなるのですが、「これこそ、ジャーナリズムが従来担ってきた立場」と思います。でも、研究のバックグラウンドのないジャーナリストが、同じように問題意識を抱いて、このように書くことはできないでしょうね。
業界全体がかなり「ヤバいんじゃないか」という状況にあるのは、以下の記述からも感じ取れます。
「(著者注:若手研究者が)一発逆転サヨナラ満塁ホームランにかけて研究を続けてしまうということが起きる。(略)あたかも、建設中のダムなど公共事業を中止しようとするようなものだ。ここまで作ってきたんだから、もう作っちゃおう、今までかかった金がもったいない、となかなか中止できない」(64~65ページ)
には「依存症?」と感じます。まるで、ギャンブル依存症患者がギャンブルをやめないための言い分です。でも、若手研究者が依存症患者であるかのように研究を離れられなくなっている状況そのものが、研究そのものの魅力を超えて、業界の構造や状況の反映なのでしょう。ああそうだ。米国で先端研究に従事する研究者の一部が、日本では(2007年以後)厳重に使用が制約されている「リタリン」を利用して、つまりヤクをキメて、睡眠時間を削り精神を高揚させて研究に臨んでいるという話を読んだことあります。2007年あたりでしたでしょうか。それも生命科学系だったような記憶があります。その人たち、どうなっちゃったんでしょうね? 薬物依存症になったり副作用で苦しんだりしてないでしょうか?
比喩は難しいものです。文学的表現によって感情に働きかけることも良し悪しです。しかし本書に用いられている比喩や文学的表現は、適切な効果を上げていると感じます。
一方で、騒動の影で忘れらやすい人々についても記述が怠られていません。
「テクニカルスタッフは(略)地位の低い、真のピペドだ。STAP相棒の騒動で、こうしたテクニカルスタッフがどうなったのか心配になる」(18ページ)
「理研の広報戦略に批判が集まっているが、果たして不安定雇用の(著者注:理研の広報)スタッフたちが、どの程度(略)関与したのだろうか。研究者側の意向に意見を言うことができたのだろうか」(18ページ)
「源氏物語」につづられた庶民の会話を引き合いに出すまでもなく、すぐれた文学作品の多くには、主人公たちのストーリーと同時に、その社会の生態系が描かれているものです。
さらに特筆すべきは、榎木さんが自らを「棚上げ」にしていないことです。
「男性だろうと、女性だろうと、スーパーな業績をあげる人とそうでない人がいる。けれど、男性研究者はスーパーな能力を持つ人から、そこまではいかない人まで多様性があるのに対し、女性研究者はスーパーウーマンか、家庭的な部分を切り捨てた人しか生き残れない」(48ページ)
「こうした状況のなか、女子中高生に理系の魅力を語り、安易に「リケジョ」などと言ってもてはやすだけでよいのか。私自身疑問を感じている」(48ページ)
は、男性であり、女子中高生に対する科学のアウトリーチ活動にも従事してきた榎木さんによって語られるがゆえに、説得力が増しています。気づくだけでも大変なことだと思います。身近に女子学生や女性の同僚もいて、若い女性を対象としたアウトリーチ活動に従事したことのある男性だったら、誰もが気づくというわけではありませんから。
何が榎木英介さんを「文学者」にしているのか?
榎木英介さんと私は、たまに二人とも大好きなソーセージを肴に、大好きなビールを酌み交わします。そういうときの雑談で、読書歴の話をすることもあります。
榎木さんは少年期から青年期にかけて、優れた文学作品を読んできているようです。太宰治・夏目漱石・芥川龍之介、さらに池波正太郎・吉川英治の歴史小説、深田久弥の山岳随筆などだったという話です。量的には、突出して「多い」というわけではないようですが、理系としては文学作品を読んでいる方でしょう。
5歳の時に「文章を書く仕事をする大人になりたい」と考え、我流でトレーニングを始めた私は、量的にはたぶん、榎木さんの10倍以上の小説や文学作品を読んでいると思います。
その違いから推測できることは、榎木さんの優れた表現力は、既存の文学作品を「インプット」することから生まれたのではないのだろうということです。その「インプット」は、必要不可欠な一部ではあったかもしれませんが。
現在の榎木さんは本業だけでも多忙です。大学教員としての教育、病理医としての病理診断だけでも大変そうな上に、執筆などメディアでの活動も積極的に行っています。おそらく現在、「文学作品を玩味しつつ読む」が可能な時間の余裕はないでしょう。
ただ現在も、榎木さんの読書は、科学倫理学・科学哲学とその周辺分野に関して、質・量とも相当なものだと感じています。先日も雑談していたら、榎木さんから「ハンナ・アーレント、ちゃんと読まなきゃ」という発言がありました。
研究者を目指していた若い時期があり、現在の病理医としての日常があり、それに加えて、このような読書があるわけです。
だからこそ、引用した素晴らしい表現の数々が可能になっているのではないでしょうか?
「文章で伝える」に関わる方々は、表現力を伸ばすために「嘘と絶望の生命科学」を一読し、その背景を考えてみると良いのではないかと思います。
既存の文学作品を読む機会が現在おそらく非常に少ないと思われる超多忙な病理医から、なぜこの表現が出てくるのか。
そこを考えてみることは、多くの学びと向上をもたらしてくれるのではないでしょうか?
「知的生産」に関心をもつ、すべての方に
この本のタイトルは「嘘と絶望の生命科学」です。
では、どこか別の分野に「真実と希望の○×科学」が存在するのでしょうか?
おそらく、問題は生命科学分野だけにあるのではないのだと思います。
私は「バイオは並外れてひどいみたいだけど、どこも似たり寄ったりだよなあ」と溜息をつきました。違いは、煮詰まった時の弊害の大きさ・現状の「煮詰まり」かげん・完全に煮詰まるまでの残り時間くらいでしょう。
おそらく、変革を迫られているのは知の生態系であり、知的生産の生態系です。
社会状況・経済状況・政治的背景などから加わり続ける圧力は、変革の必要性への自覚を、「中の人」に対しても十分過ぎるほどもたらしています。
ないのは、変革の処方箋です。どう変革すればいいのでしょうか?
少なくとも、「これまでどおり」と「何もかもなくす」の間に最適解があるのでしょう。
二択でもなく、「間を取る」でもなく、止揚する可能性もあるのでしょう。
でも、まだそこまではたどり着いていません。
少なくとも、「これまでどおり」を維持することは不可能です。たとえば大学数や大学教員数を、現状のまま、10年後も20年後も維持しつづけることは、少なくとも日本では不可能でしょう。
では、「これまでどおり」を、既得権として全部なくすべきなのでしょうか?
あるいは「これまでどおり」の世界を「部分的にこれまでどおり」に維持する代わりに、その人々に過大な期待とプレッシャをかけ、潰されずに成果を出して生き残れる人だけを残すことによって縮小するのが良いのでしょうか?
いずれでもなく、「これまでどおり」は「しょうがないね、既得権だから」ということで全部現状維持しつづけるということが良いのでしょうか?
以上のどれにも当てはまらない、もっとマシな選択肢はないのでしょうか?
「嘘」「絶望」ではなく、将来の「事実ベースの」「希望」へとつながる選択肢は、今、本当にないのでしょうか?
「嘘と絶望の生命科学」は、そういう問題とその解決に対して「まず現在の全体像と経緯を捉える」から入る良いきっかけともなる本だと思います。
追伸:
榎木さん、過労にはどうぞお気をつけて。10年後も20年後も30年後も、元気に楽しく美味しく、ソーセージでビールを飲みましょう。