私の親と同じ世代にとっての、終戦と戦後民主主義

私は1963年(昭和38年)、1933年(昭和8年)生まれの父親と、1939年(昭和14年)生まれの母親の長子かつ長女として出生しました。

父親は1945年8月15日、国民学校(当時)の6年生でした。父親の父親、つまり私の父方祖父は、1945年2月、軍需工場を狙った空襲により、勤務先の軍需工場(現在、東京都北区にある豊島五丁目団地)で亡くなりました。

私にとっての父方祖父が亡くなった時には埼玉県浦和市に住んでいた父親たち5人きょうだい(父親は3番目で長男)は、終戦時、母親(私の父方祖母)の郷里である佐賀県の山村に身を寄せていました。

父親はその時期のことを、私を含む3人の子どもたちに対して、ほとんど語っていません。しかし、1945年8月15日を境に周囲の大人の言うことが全く変わってしまい、9月の新学期が教科書の「墨塗り」からはじまったこと、それから戦後の「カストリ小説」やエログロナンセンスの氾濫については、なんとも沈痛な顔つきで何回か語っていました。父親の死、まったく異なる環境への移住、さらに終戦は、多感な少年の心にどのような影響を残したことだろうかと思います。もしかすると、戦後民主主義や戦後民主主義教育そのものが、父親にとっては「裏切り」でありつづけているのかもしれません。

終戦当時に6歳だったはずの母親は、福岡市・博多地域に生まれ育ちました。終戦時は、母方祖母の郷里である福岡県郡部の農村に疎開していたと聞いています。母親の方は、小さすぎたせいか、あまり記憶がはっきりしていません。「いとこたちのいる家に滞在し、基本的には楽しく過ごした」という感じだった様子です。母親は、ほぼ戦後民主主義教育を受けて育った世代には属していますが、家庭や血縁社会や地域社会は「イエ」「ムラ」そのものだったようです。戦後民主主義教育は、「家庭や地域とは全く別世界である学校」という、ねじれた状況を母親にもたらしていたのでしょうか?

父親より2歳~4歳上の人々は、軍の学校に進学することを考えたり、進学したり、あるいは招集が現実化する可能性に実のところビクビクしたりしていたようです。5歳以上上だと、従軍経験があることも珍しくありませんでした。父親の姉たちの夫の中には、終戦のおかげで、スレスレで招集を免れた人もいます。

昭和40年代の小学生の日常に出現した「特攻」

福岡市のベッドタウン化が進みつつあった町で育った私は、小学4年の秋、風邪をこじらせ、学校を欠席して4日ほど寝込んでいました。

二段ベッドの上の段で寝ていると、午後、幼稚園から帰ってきた弟(当時5歳)と向かいの家の同い年の女児・タカコちゃんが積み木遊びを始めました。

二人は、積み木を重ねて塔のようなものを作っていました。それはいつもどおりの二人の遊びでした。

しかしその日は、塔のできあがった後が少し違っていました。

タカコちゃんと弟は、手に積み木を持ち、

「天皇陛下ばんざーい!」

「特攻!」

と言いながら、塔に突入させて壊したのです。

どこかで誰かに、特攻隊の話を聞いてきたばかりだったのでしょう。

二人がそういう遊び方をするのを、私はその日、初めて見ました。前日も二人は積み木遊びをしていましたが、「特攻ごっこ」はしていなかったのです。

姉である小学4年生の私は、特攻隊とは何であったか、「天皇陛下バンザイ!」がどういう場面で発せられたかを、既に知っていました。

だから二人に、

「そんな、遊びにしてふざけるものじゃない」

と言いたかったです。しかし、風邪で喉と呼吸器をやられていたその時の私は、声を出せませんでした。

声を出せたとしても、言えたかどうかわかりません。長男である弟に対し、長女である私には発言力がありませんでした。

子ども向け番組がTVで放映されている時間帯のチャンネル権は、完全に弟にありました。私は、昭和40年代後半に小学生だった女児の多くが見ていたTV番組のほとんどに対して

「存在くらいは知っている」「主題歌だけは聞いたことがある」

という調子です。私が見て育ったのは、「仮面ライダー」「ウルトラマン」「ライオン丸」「キカイダー」の類。夕食時に弟が選んだTV番組が、そういうものばかりであったからです。「アルプスの少女ハイジ」や「ふしぎなメルモ」は、弟が見たかったので見ることができましたけど。

というわけで、

「特攻を遊びにするなんて、やめさせたほうがいいんじゃないか」

と思った私は、「やめなさい」と言えなかったわけです。

その時、確か、母親は家にいませんでした。言ってやめさせることがもしも可能だったとすれば、弟はそれをあとで母親に報告するでしょう。そのとき、

「弟とお友達が楽しく遊んでいるのを、姉が妨害した」

というふうに伝わったら、あとで私はどういう罰を受けるでしょうか。想像するだけで恐ろしいことでした。実際に、そういうことは私が5歳くらいのときから、多々ありましたから。

私は黙って、タカコちゃんと弟の「特攻ごっこ」の背景に想像をめぐらせました。

二人がその日、誰かに特攻隊の話を聞いてきたのは、おそらく間違いないでしょう。

誰から聞いたのでしょうか?

特攻隊そのものに属していたことがあったり、日本軍に属していて特攻隊のことを良く知っていたりした、当時45歳前後くらいの男性だったのでしょうか? でも、平日の午前中や昼間に、そういう壮年世代が町にいて幼稚園児に特攻の話をするというのは考えにくい話でした。

特攻できょうだいや恋人や夫を失った、自分たちの両親より少し上の世代だったのでしょうか?

特攻で子どもを失った、当時60~70代の女性や男性だったのでしょうか?

その人は、どういうつもりで幼稚園児に特攻隊の話をしたのでしょうか?

タカコちゃんと弟は、どういうふうに受け止めているのでしょうか? そもそも、内容を理解できていたのでしょうか?

……そこまで考えた私は、

「ああ、二人は『お国のために飛行機に乗って自殺攻撃をする』という人たちがいた事実を、実は理解しきれていなくて、気持ちの中で受け止めきれていないのかもしれない。だから、今、積み木で『特攻ごっこ』をしているのかもしれないな」

と思い至り、

「続くようだったら、方法や言い方を考えて、やめさせよう」

と考えました。

二人はその後、少なくとも私の見ているところでは、積み木での「特攻ごっこ」はしていませんでした。「何も言わずに様子を見る」は、結果から見れば正解だったのかもしれません。その時「天皇陛下ばんざーい!」「特攻!」と叫びながら積み木で塔を壊すことで、二人は聞いた話を受け止めることができ、その後、繰り返す必要がなくなったのかもしれないと思ってます。

タカコちゃんは、たいへん学業優秀な小中学生に成長しました。高校は地域トップの進学校に進み、大学時代の途中からは海外の大学に留学したと聞いています。

20歳でその地域を離れた私は、タカコちゃんのその後についてほとんど知らないのですが、7年ほど前に聞いた最後の消息では、タカコちゃんは国連に勤務しているということでした。

5歳のときの「特攻」を覚えているかどうか、その時にどう感じていたのか、今どう思っているのか。

機会があれば、タカコちゃんに聞いてみたいと思い続けています。