健常者と障害者、「人間どうし」が成り立つ前提は?
榊 裕葵さんのご記事「京都の市バスで足の不自由な女性を介助しようとして罵倒された運転士が気の毒だった件」が話題になっています。
榊さんが京都市バスを利用していた時、足の不自由な女性がステップを上ろうとして苦労していたので市バスの運転手が手助けしようとしたところ、女性は激怒し、運転手を怒鳴りつけたのだそうです。
榊さんは、主に女性の側の対応に問題があるとお考えのようで、ご記事を
日常生活にせよ、職場生活にせよ、根本的な部分では、障害者の方も健常者の方も同じで、人間同士のコミュニケーションとして、お互いの立場に立ち、お互いの気持ちを理解しあうことで、何事も円滑に進むのではないだろうか。 健常者の方が障害者の方を気遣い、また、障害者の方も健常者の方を気遣う。そうすることで、日常生活であればお互いが快適に過ごすことができ、職場であれば一丸となって成果を出すことができる。それこそが、本当の意味で平等な姿でもあると私は思うのだ。
と結んでいらっしゃいます。
車椅子利用者である私は、この女性の行動を全面的に支持はできませんが、榊さんのご主張に引っかかりを感じます。気遣いはないよりあったほうがよいし、快適さや効率の高さも望ましいことではあります。しかし「平等」を言うにあたって、現在は重要な要素が欠落していると思うのです。健常者と障害者の間のパワーバランスです。
結論からいうと、パワーバランスが極度にどちらかに偏っていない状態でなければ、「互いの気遣い」は互いの「平等」をもたらさないのではないでしょうか。
私も運転手さんが気の毒です
かくいう私、この2014年4月から、京都の大学院の社会人院生になりました。ふだんは東京の自宅におり、指導を受けるときに一ヶ月あたり1~2回ほど京都に行くスタイルです。そんなわけで、京都方面に行く機会が増えました。
私は外出時は全面的に電動車椅子を必要としています。京都滞在時、京都市バスは車椅子で非常に利用しやすい「足」として頻繁に利用しています。不愉快な思いをさせられたことはありません。車椅子介助や障害者への接し方が全社的にきちんと訓練されている感じを受けます。どのバスにも安心して乗ることができます。これは大変ありがたいことです。「サービス」「ホスピタリティ」「快適」以前の問題として、車椅子などを使用する障害者を介助するにあたって、安全面の問題のあるバス会社は珍しくありませんから。
東京は先進的と考えられていますが、それほどでもありません。私が居住している杉並区を走っているバス路線は、運転手さんによる差が大きく、ときどき乗降車介助で危険な目に遭います。面倒がってスロープを出さず、人手での乗降車で失敗しかけるとか。それ以前に、車椅子を見たら「見てみないふり」をして停留所でストップせず走り去るとか(こちらは誤解されないように、はっきり「乗ります」という意思表示をしています)。
だから、この記事を読んで、運転手さんが気の毒になりました。おそらく、失敬な声のかけかたはしていなかったのでしょうし、危険や苦痛を与えるような介助をしようとしていたわけでもないのでしょう。
しかし、女性が怒鳴った理由やその背景は非常によく分かる気がするのです。
女性は、過去に介助で危険な目に遭ったことがあるのかもしれない
私の推測ですが、女性は運転手さんに怒鳴ったのではなく、既にバスに乗っていたり、後ろで待っていたりする別の乗客に怒鳴ったのではないでしょうか。私自身も肢体不自由で車椅子を利用しており、そうしたい気持ちになることが多々あります。運転手さん(特にワンマン運転のバス運転手さん)に怒鳴ることは安全面から避けますが、そうではない場面ならば、怒鳴りはしないまでも、聞かせたい相手に聞こえる程度の声量でブツブツ言うくらいのことはあります。他の乗客の「小さな親切」が自分にとっての危険や不便を発生させている場合には、精一杯険悪な表情を浮かべ、険悪な声で「やめてください」「◯◯してください(具体例:「(車椅子の)ハンドルから手を離してください」「エレベータのドアの前をあけてください」)と言います。「あなたの行動は私を困らせています」ということくらい伝えてはいけませんか?
こういうことを言うと、
「それにしても言い方がよくないのでは、アサーティブに、まず相手の好意を評価して」
とアドバイスする方が必ず出てくるのですが、実際にはアサーションを行う時間の余裕はありません。即座にその行動をやめてもらう・即座に別の行動を撮ってもらうなどの必要がある場面ばかりです。アサーションが有効であるとすれば、職場・学校など、互いに時間をかけてのコミュニケーションが可能な場面でしょう。
女性はもしかすると、過去に「好意(自称)」による介助で危険な目に遭ったことがあるのかもしれません。どうすればよいのかも知らずに障害者を手助けしようとして危険を発生させ、結果には責任を持たずに逃げて行ったり「自分は好意なんだから怒らないでほしい」などと言い出したりする健常者は、それほど珍しい存在でもありませんから。
女性は身体が不自由なので、日常的に「努力不足では」「甘えるな」と言われているのかもしれない
当然の話ですが、「健常者」的な動きができなくなると、歩き方が不自然になります。びっこを引いたり、それもできなくなると杖を使うことになったり、車椅子を使ったりすることになります。本人がそうしたいと意図していなくても、目に見える「身体が不自由なんです」というメッセージを発しながら移動することになってしまいます。この鬱陶しさといったら。身体が不自由だということだけで困っているというのに。さらに障害があることに対して「努力不足では」「気の持ちようでは」、障害に適応して生きていこうとすることに対して「甘えるな」「疾病利得では」といった視線が突き刺さります。
障害を抱えたがる人・障害を重いままにしておきたがる人は皆無ではないでしょうけれども、たぶん非常に珍しい存在ではないかと思います。障害があれば不便です。障害を持った人間の社会生活は、日本では一般的には苦痛なものです。障害があって不便であることに加えて、障害者に対する厳しい視線や理不尽な非難が突き刺さってくるわけです。その視線や非難の主は「障害者は社会に負担をかけているのだから、負担をかけられている自分たちにはそうする権利がある」と考えていることが多く、反省することがありません。反省するどころか、それは日本では一般的には「正論」とされている考え方ですから。
さらに行政は一般的に、少しでも障害者福祉を削れる可能性があれば削ろうとしてきます。
ヘルパー派遣を受ければ、そのヘルパーさんたちが脅威となりえます。ヘルパーさんたちの全員がそうだというわけではありませんが、自治体に対する点数稼ぎのために、利用時間数がそれほど多くなく商売としての旨味が少ない障害者を一人「チクり」の対象にするくらいのことは充分にありえます。その可能性を疑わざるを得ないことを、私は過去に何回も経験しています。
必要のない障害者福祉が欲しいとは思いません。ヘルパー派遣も「あればあるほど嬉しい」という性格のものではないのです。必要な時間数と内容は必要だから必要だと言いますが、それ以上は必要ありません。むしろ「必要ないのに欲しがっている」と言われないように神経を尖らせています。しかし必要な分は、『甘え』と言われようが『努力不足』と言われようが必要だと主張しなくてはなりません。そうしないと、社会生活・職業生活のベースとなる日常生活が成り立ちませんから。その主張は、まことに消耗するものです。
障害者福祉に対して厳しい自治体では、自治体に対して、障害者が一人で(数人でも)言うべきことを言って聞いてもらうことは事実上無理です。私も、クリティカルな場面では弁護士さんに福祉事務所への同行をお願いしています。弁護士さんには報酬を支払っています。私は辛うじてそれが出来るので、今、なんとかなっています。
もちろん、障害の程度は隙あらば軽く見積もられるものです。変動がある場合には悪い方に合わせてもらわなくては困るのですが、良い方に合わせて「あれも出来る」「これも出来る」とするのが現在の障害者福祉です。どういうタテマエで飾られようが、福祉削減の論理であり、障害者(あるいは、障害認定から弾き出されるけれども障害を持っている人々)を消耗と疲弊に追い込む論理です。
「お上」にも「世間」にも「努力不足では」「甘えるな」という視線を日常的に向けられ、しばしばそのままの言葉をぶつけられるのが、障害者の日常です。
おそらく女性は、周囲の乗客に言いたかったのだろう
女性は
「親族やご近所に日常的な手助けを必要とする人がいるけれども、なんで自分がそんなことをしなくちゃいけないんだ、イヤだなあ」
と思っている人に、そのことの別の表現として
「甘えるな」
「同情を買おうとしている」
などと言われているのかもしれません。あるいは、
「自分は恵まれていない、しんどい」
と思っている人々から、
「障害者福祉で結構いい思いしてるんじゃないか」
「障害者福祉目当てで、障害者のふり(障害が重いふり)をしているんじゃないか」
という詮索を受けているのかもしれません。
といいますか、現在の日本で、特に女性が目に見える障害を抱えた場合、そういう扱いを受けずにいることは難しい現状があります。1週間や長くても1ヶ月で離脱できる病気やケガなら、「親切にされてありがたかった」「人の親切が身にしみた」ということもありえますが、月単位・年単位となると、例外的な理解と余力がある人々に取り囲まれていない限り、周辺のそういう見方に消耗させられる日常を送ることになります。
それは、本人の努力や工夫で減らせるものではありません。本人に何らかの落ち度があるので、そういうことを言われるわけではないのです。私は、自分のことを全く知らない人ばかりの日本の観光地に行ってさえ、その日初めて会った地域住民に「障害者利権!」と当てこすりを言われた経験があります。私はそれほど多くの外国を知っているわけではありませんが、日本はその頻度が極めて高い国ではないかと思います。私の知っている限りの欧米・南米では「たまにそういう人もいる」程度です。
もしかすると、この女性は「自分が悪いから言われるわけではないんだ」ということに、まだ気づいていないのではないでしょうか? 自分の努力で防げるはずのことだと、まだ努力し続けているのではないでしょうか? そして「充分な努力はしているのだ」ということを、かなり不適切な形でアピールしてしまったのではないでしょうか?
では、他の行動の選択肢はあるのか?
女性の行動は、少なくとも充分に賢明ではなかったと思います。しかし私は、そんなに悪いことでもなかったのではないかと思っています。
障害者に対して言葉や態度で傷つけることは、日本ではタテマエの世界では一応は禁止されていますが、ホンネの世界では許容されています。「親切にする」も、たいていの場合は軽蔑や憐憫とセットです。現在の日本で、健常者と障害者は対等ではありません。対等になるためには、何もかもが不足しています。数の上でマイノリティであることは致し方ないとしても、障害者が社会参加を充分に行うためには、障害による不便・不自由が充分に埋められている必要があります。現在の日本で障害者に求められているのは、障害による不便・不自由は不完全にしか埋められていないのに、就労を含む充分な社会参加を「自己責任」「自助努力」で行うことす。原理的に不可能なのですが、不可能であることに気づく健常者は多くはありません。
この、日本の体質のようなものは、障害者が一人で怒鳴ったくらいでは変わらないでしょう。それどころか、怒鳴った障害者の方が悪者にされます。少なくとも、この繰り返しの先には、健常者と障害者の対等な関係はありません。
でも怒鳴れば、問題が存在することを知らせることくらいはできるかもしれません。周辺には数は少なくとも理解者がいるかもしれません。もしかすると、女性の怒鳴る表情には、なんとも表現しがたい悲しみが浮かんでいたかもしれません。手助けを拒んで怒鳴らなくてはならない場面で、障害者の心の中にどういう思いがあるのか。そこに想像を及ぼすことのできる人には、女性の怒鳴り声は泣き声に近く聞こえたかもしれません。
障害者、特に女性の障害者が自分を取り巻く社会に対して、
「あなたは私を傷つけている、私は傷つけられたくない」
「あなたの行動は自分を死に追いやる可能性もある、私は死にたくない」
と言うために、適切かつ有効な行動の選択肢はあるでしょうか?
有効ならば、適切とされません。適切とされるならば、有効でありません。
声を上げれば叩かれ、声を上げなければ潰され、
「自分は傷つけられたくない」
「傷つけられて痛い」
と言うことさえ許されないのが現状なのです。
障害者が健常者をぶちのめす必要はありません。せめて、そういう声をあげることが出来る程度に、ほんの少しだけ状況を動かせれば充分なのです。
でも多勢に無勢すぎて、そのための手立ても用意には見つからないのが現状です。
女性の怒鳴り声は、現在、特に恵まれた立場にいるわけではない女性の障害者がとれる行動の選択肢の中では、最適ではなかったとしても、そんなに不適切でもなかったのではないか。私はそう思うのです。少なくとも、責める気にはなりません。
「人間どうし」を言うまえに、対等な人間にしてください
私は、相手が健常者でも障害者でも、少なくとも最低限の礼儀は尽くす人間でありたいと思います。人を傷つけることは、避けられるなら避ける人間でありたいと思います。でも、相手がそう思ってくれるとは限りません。
無礼な扱いに対しては「不快です」と怒れることが、今は必要なのだと思っています。
たとえば
「見知らぬ大人に対して、タメ口や幼児語で話しかけることはしない」
は、日本では男女問わず大人の常識です。
しかし日本の大人が女性の障害者を見ると、その常識さえ適用されなくなるのが現状です。
私は近所の「モ◯バーガー」で、パートの中年女性に幼児語で話しかけられたことがありますよ。私は尋常に自分で注文し、自分で支払いをしたのですが、でも経済活動が行える成人とは認識してもらえなかったのです。
「人間どうし」を求めるのなら、対等に扱ってください。
まず対等に扱い、ついで平等に近づけるようにしてください。「平等に近づける」とは、健常者・障害者ともの教育(学校教育にかぎらず)機会の保障であり、職業機会の保障です。
平等が実現されるまでには、これから日本が本気で取り組んでも、まだ一世代・二世代以上はかかるでしょう。
でも、対等は今すぐに実現できます。
「障害者だから傷つけてよい」という思考と、その思考に基づく言動を、どのような理由のもとでも止めればよいのです。