障害者の就労は「しかたない」「これでいい」で良いのか?
知的障害者の仕事ぶりに感じる違和感
過日、ある公共施設に併設されているカフェで昼食をとりました。客の目の前で働いている従業員は、全員が知的障害を持つ方々であるようでした。バックヤードからは、障害者ではなさそうな人が働く様子がちらりと見え、声も聞こえてきました。バックヤードで調理と店のマネジメントを行っているのは、健常者なのかもしれません。
車椅子でカフェを訪れた私が、まず食券を買おうとしていると、従業員である若い女性の一人が近づいてきて
「何が食べたいですか、お金入れましょうか」
と話しかけてきました。身体が顔にくっつきそうなほどの距離感でした。障害者に対して適切な距離感を保てない方は多いです。その「よくあること」の範囲でした。
食券を買う手伝いは、きっと、車椅子の来客に対して、いつもそうするように教えられているのでしょう。私の方も食券方式のカフェやレストランでいつもしているように、「ありがとうございます、自分でできますから、いいです」とお断りしました。その従業員は黙って店の奥に行きました。若い女性の発音がやや不明瞭であること、難しい言い回しは理解できないようであること(だから「結構です」ではなく「いいです」と言いました)以外に、違和感を感じる場面はありませんでした。
私はカレーライスを注文したのですが、運ばれてくるまでに相当の時間がかかりました。見るともなく、5人ほどの従業員の仕事ぶりを見ていました。ぱっと見、「客商売でこれはありえないだろう」という感じを受けるのです。
なぜ「これはありえない」と感じるのでしょうか? 自分でも良くわかりませんでした。身なりは清潔だし、「私語がうるさい」とかいうわけでもないし、極めて真面目に仕事しているし。
私の視界に従業員たちが入っているとき、何が出来て何が出来ないのかを観察しました。そして驚きました。皆さん、仕事が実に良くお出来になるのです。お客さんが着席したら水とおしぼりを持っていくこと。水や冷たい飲み物のグラスは下部を持ち、大きな音がしないように置くこと。カレーには大きなスプーンを、コーヒーには小さなスプーンを、冷たい飲み物にはストローを、セットになるべきものをチェックし、足りなかったら添えて持っていくこと(コーヒー用の砂糖・シロップ・クリームは、各テーブルの上の小皿に置かれています)。お客さんが帰ったら、テーブルを拭くこと。
それは、お見事な仕事ぶりでした。仕事そのものにおいて、正直なところ、健常者に対する遜色は感じませんでした。
働く知的障害者たちに出来ていなかったこと
では、彼女たちには何が出来ていなかったのでしょうか?
それは主に、無意識の動作に類することばかりでした。
運んできた飲食物等をテーブルに置いて店の奥に下がるとき、トレイを手から下げてぶらぶらさせながら歩いてはいけません。トレイの上に何かが載っているわけではないので実害はないのですが、見苦しいし危なっかしいです。
店の中を移動するとき、髪や顔を掻いてはいけません。掻きたいなら客から見えない場所でやりましょう。
飲食店でさえなければ「なくて七癖」で済むようなことばかりですが、そこは飲食店なのですから。
私は、脳内でブツブツと小言を言いました。10代のとき、現在の「ロイヤルホスト」の前身であったレストラン「ロイヤル」でバイトしていたことのある私は、そこでウエイトレス業務の何たるかを徹底して教えられました。週1回、3時間、しかも半年後に受験のため辞めることが最初からはっきりしていたバイトだったのに、きちんと教育していただいたこと、今でも感謝しています。彼女たちに脳内で言った小言の数々は、そのバイト以前の私にもできていなかったことでした。
その経験から、私は疑問を感じたのです。
「こんなにも見事に仕事をやってのける彼女たちに、なぜ、飲食店の従業員にふさわしい基本的な立ち居振る舞いが教えられていないのだろうか?」
と。
教えることが不可能であるとは思えません。たとえば、「お冷のグラスは一番下を持つ」さえ出来ない健常者のカフェ従業員はたくさんいます。健常者でも教えられていなくては出来ないことの数々を、彼女たちはきちんと身につけてこなしています。
障害者の就労は「憐れみ」「感心」の対象であっていいのか
以下は、私の推測です。
おそらく、最低限の「食券を持ってきて内容と合致する飲食物を持っていく」に関連する事項以上は、「教えなくては」「教えるべきである」と考えられていないのでしょう。そして、それで大きな問題は発生していないのでしょう。
また現状が、「知的障害者(の就労)としては充分以上」と考えられているのでしょう。私も、たぶん充分以上だと思います。
でも私は、
「障害者だから、ここまででいい」
「障害者だから、これで充分」
と考えることに、とても抵抗を感じるのです。
本人に成長するポテンシャルと「成長したい」という意志があるならば、成長できるように物心両面の支援を行うことは、その人が障害者であろうがなかろうが必要なことです。もし、
「障害者だから、ここまででいい、これ以上の成長はなくていい」
「障害者だから、健常者より劣っていることは問題にならない」
と考えるとすれば、その方なりの配慮や思いやりにもとづいているとしても、障害者差別そのものでしょう。
むろん、人間としての価値は、能力の高い低い・アウトプットの質や量といった労働力としての価値とは異なるところにあります。人間としての価値と労働力としての価値を結びつけるべきなのか、結び付けるべきではないのか、何らかの関連を付けるとしてどう関連させればよいのかは、永遠の哲学的問題に近いところがあります。
「人間として価値があるから、具体的な能力や生産・あるいはそのような場面での成長はなくてもよい」
は、「成長したければ成長できる」という選択肢が選択可能な手段とともにふんだんに用意された上で、なお一つの選択肢として尊重されるべきだとは思います。しかし同時に、それ以上の何かであるべきではないと思います。
また、
「人間として価値があるから、具体的な能力や生産において、『ふつう』とされる人よりも劣っていることは問題にならない」
は、「ふつう」とされる人に対して「差別してください」と言っているのも同然です。人間としての価値と経済的アウトプットを、そんなふうに結びつける必要はないと私は思います。人ひとりひとり異なる能力や生産、さらには適性や持ち味といったものを、各人各様に自分の納得できるように発揮したりしなかったりする機会は、所得保障などの仕組みとセットで実体として保障される必要があります。しかしそれは、「モノサシAの目盛りで測ったときに劣等な点として立ち現れるものは、人間としての価値で帳消しにできる」ということではないと思うのです。妥当性のある根拠にもとづいた(もとづいているかのように見える)比較、合理的なルールのもとで行われた(行われているかのように見える)競争の結果であっても、それを根拠とした障害者差別は悪。悪は悪だからいけない。それで十分ではないでしょうか? 差別をなくすために「比較や競争をやめましょう」という必要はないのではないでしょうか?
「しかたない」「これでいい」を考えよう
就労していても、障害者のほとんどは経済的自立に充分な就労収入を得ることができません。2012年に発表された「きょうされん」の調査結果によれば、障害者の99%が年収200万円以下、その過半数である全体の56%が年収100万円以下でした。
この現状がそのままでよいわけはありません。障害者の就労機会を増やす努力、福祉的就労でも作業所等の工賃を増やす努力は、過去、長期間にわたって、多数の人々によって続けられてきました。
もちろん、障害者の就労を重要と考えるならば、労働の場に教育によって接続される必要があります。障害者に対する教育機会の保障も必要です。障害者に対する教育機会の保障は、日本ではまだまだ不完全です。現在のような分離教育(障害児を障害児専門の教育機関で教育すること)でよいのかどうか? という問題もあります。でも、長い時間をかけて充実へと向かっています。半世紀前に生まれ、1歳年上の高機能自閉症の従姉(著書と本人を題材としたコミックがあります)を持つ私は、高機能自閉症に関してだけでも状況が少しずつでも好転していることを実感しています。
もっともっと、たくさんの障害者が、本人が希望するならば労働の場に出てきて、尊厳のもとで働き、充分な報酬を得て、職業人として生活できるようになるために。
「障害者だから、しかたない」
「障害者だから、これでいい」
は、非常に有害だと思いますし、そのような考え方自体が障害者差別でもあると思います。
有害かつ差別的であっても止められない・止めにくいのは、止めることもまた差別と紙一重だからでしょう。もしかすると「しかたない」「これでいい」の逆は「障害に甘えない」だと解釈されるかもしれません。この「障害に甘えるな」は、しばしば、言ってるタテマエとやっている差別が全然違う人たち・合理的配慮の必要性を認めつつも目の前の障害者に対しては行いたくない人たちが便利に使用する言い回しなのですが。
「しかたない」「これでいい」は、差別の言葉でもありえますし、合理的配慮のある一面の表現でもありえます。差別なのか合理的配慮なのかは、本当に紙一重です。
その紙一重の危うさを自覚しつつ、今は「しかたない」「これでいい」を極力止めてみたいと、私は考えています。