安倍首相が10月25日に訪中した。日本の首相としては7年ぶりという。その割には、盛り上がりはないが、反日デモも今のところない。実は、この30年で中国人の対日感情は大きく変化している。その状況や背景を振り返ってみた。(中国在住作家 谷崎 光)
大きく変わった中国人の対日感情
安倍首相が10月25日に北京に来た。そして、27日まで中国にいる予定だ。
聞くところによると、民間企業人が600人、官僚が200人、一緒に来たという。北京の海外天下りの巣、長富宮飯店(ホテル・ニューオータニ)は、ほぼ貸し切り状態でウハウハである。安全検査の機械も導入され、警備は厳戒体制を引いている。
道頓堀の人形よりコテコテの経済団体のおじさんたちは、習近平と写真を撮るのだろう。
昔はこういう政治家にひっついて中国に来る企業人の、集合写真に入れぬ末席の方の中小企業のおやじさんのために、写真撮影手配屋というのがいた。
幾ばくかの人民元を渡すと、呼び出しがあり、ちゃんと人民大会堂に偉い人が来たそうである。
今ではスマホで足がつく。
こんにちは。北京在住18年目になる作家の谷崎光です。
この30年で、中国人の対日感情は大きく変わった。
私は1987年に中国とダイエーの合弁貿易商社に就職した。中国と日本で最も経済格差があった時代である。
当時、仕事相手の対外貿易公司の人のお給料は月数千円に満たない。
就職前は、中国の各地人も台湾人も香港人も各国華僑も区別が付いておらず「お金持ちの華僑を捕まえて、タイガーバームガーデンでシュロの左うちわや」などと言っていたのだが、中国に出張して、事務所のあった天津ハイアットで一緒にお昼を食べると、いつも私が払っていた。
ランチ一回で相手の月給が飛ぶからである。
このころの中国人は心のウチはともかく、政治的発言はしなかった。祖国はいろいろ遅れており、日本との圧倒的な経済格差にひれ伏さざるをえない。臥薪嘗胆であったと今は推測する。
一方、日本人は中国人と接すると、“建前”はともかく、見下せて“いい気分”になった時代である。日本人の対中感情は非常に良好だった。贖罪意識もあり巨額のODAに反対する人はいなかった。日本の年配の方々は、この時代の“中国”が更新されていない人が多い。
その後、私は作家を目指して会社を辞めた。そして3年あまり後に『中国てなもんや商社』(文藝春秋)という処女作を出した。それは松竹で映画になって東京に行って執筆活動をしていたのだが、2001年9月に北京に来た。
留学のお出迎えは旧日本軍の虐殺写真
最初は対外経済貿易大学で語学を一年やり、そのあと北京大学の経済学部に編入した。
今回、安倍首相も北京大学の学生との交流が予定されている。
当時、新入生歓迎の9月の北京大学のキャンパスで待っていたのは、戦争中の旧日本軍による過激な虐殺写真と日本刀の展示である。三角地という張り紙広場のような場所で、そこで中国人学生たちが次々と日本を過激に罵(ののし)る言葉をノートに書き込んでいく。
大学内でやっていた日本研究の講座に出れば、中国人で満員だった。日本人は私一人。終わると真っ暗な校庭で取り囲まれて吊(つる)し上げというか、“質問攻め”にあった。
この時代の学生は、子どものときに非常に過激な反日教育を受けている。
おまけに、当時は中国政府がやたら日本についての“トンデモ情報”を流している。
それによると、日本は中国にミサイルを向けていて、今なお中国侵略をもくろむ悪の手先のショッカーであり、情報の少ない地方出身の学生はそれを素直に信じている。
共産党による独裁がそれを維持できるのは、敵がいるとき、経済発展が続くとき、である。
もちろん地域によって、戦争中には旧日本軍が派手に中国人を殺傷しており、その傷跡もまだ深い。
その一方で、当時の海外へ行く人々から、チラッ、チラッと“真実の”日本情報が漏れ伝わる。
当時出国できるのは、まだかなりのエリートか、もしくは密航するような人々かで、情報は二極分化されていた。
さらにSONYの製品やテレビで繰り返される反日ドラマ、海賊版の漫画やアニメから想像する日本は結局のところ、一般の若者には“正体がはっきりしない怪物”である。
人間、“よくわからないもの”には恐怖と反感を持つのである。
“泣き女”出現のODA説明会
ODAは今もそうだが、現地で知る中国人はほぼ皆無だった。
日本側は、あれは一部の大手日本企業が中国での受注に使ったので黙っておきたい、中国の方もそんな大金を日本からもらったとバレたら、人民からはツッコミ必至である。
中国文化的には関係者の「中抜き」というか、「全抜き」も100%ある。
せめて日本に交渉力があるうちに、中国政府による人民へのODAアピールでも反日ドラマへの抗議でも、何かしていれば、根深い反日はだいぶ変わっただろう。
このころ、北京の日本大使館主催で、ODAについての対外広報があった。
会場に行くと、外からは何をしているかいっさいわからない。入場は事前申し込みが必要でパスポートを見せて厳戒体制で、参加者は99%日本人だけである。
中に入ると“中国語”のODA広報のノボリや看板で部屋が埋め尽くされていた。壇上には農村から連れてこられた中国人女性が、泣きながら“謝謝、謝謝”(ありがとう、ありがとう)と叫んでいる。
それを日本メディアが日本に報道する。一般中国人は、基本、誰も知らない。日本は「謝罪も賠償もしない!」と怒っている。
まさに日本の対中ODAの縮図である。日本企業は中国からODA案件を受注し、官僚はそこへ天下りする。新聞社やテレビ局の社員は広告で分配を受ける。日本人の税金が日中の上のほうだけで消費され、そういうことをクローズでやるために、日本特有の記者クラブは必要なのである。
この映画のセット的な日中友好演出はその後も続いた。
2007年、王府井での“日本のお祭り”では、非常に高い臨時パーテーションで舞台と座席は全部隠してあった。一般人は中国人も日本人も入場禁止だった。周囲のデパートの窓も全部、目張りしてある。隙間から覗いてみると、壇上に置かれた椅子に並んで座った中国人関係者の足元の地べたで、日本人が順番にドンドコ踊っていた。夜、日本のテレビは、その踊りだけをアップで撮ったシーンと公開パレードを組み合わせて放送していた。
このころはよく中国人と討論した。
で、中国語はけっこううまくなり、友だちは増えていった。
2005年の反日デモは完全な官営デモ
2005年に中国各地で反日デモが起こった。
情報を得て、朝にスタート場所の中関村の海龍ビルに行ってみた。
すると煽(あお)っている若者も、警察が連れてきているし、どこぞの大学ではバスで学生を動員しているという話も聞こえてくる。
完全な官営デモで、デモの首謀者は警察や撮影機材を抱えた中国メディアと、トランシーバーで打ち合わせをしながら雄叫びを挙げていた。デモ隊の準備が整ったところで、“いいですか?”“いいですよ”“パシャ”という感じで、ちなみに、撮っているカメラはみな日本製。
まず中国メディアが報道して、日本にプレッシャーをかける。
付和雷同で参加しているのは、ちょうど開いてきた格差の下のほうの人々である。
このころになると、私も“反日慣れ”していた。
結局のところ、エリート、留学経験、一般人、知識の有無、年代にかかわらず、当時も今も、一皮剥けば、反日の人はかなりいる。これは「親日」と言われる台湾も、比率が少ないだけで同じである。
今の若者だとたとえ自分は反日でなくても、年上の親族の誰かが強い反日の人だったり。親族が殺されたり空爆にあったり、直接的な被害をうけた話が伝わっている。
全員が外国籍で留学経験のある華僑たちとワインを片手に食事をしていても、ふとしたことで誰かが反日をむき出す。
年齢によっては、反日をアピールするのが“党員の誉れ”みたいな。
また、家の片づけの手伝いをお願いした中国人のお手伝いさんを(あ、ちょっとこき使い過ぎた?)と思った瞬間に、間髪入れず持ち出される“日本鬼子”の話。
かと思うと、羊鍋を食べながら、「じーちゃんに聞いたけど、北京は日本統治時代が一番、治安も良かったんだよ」と言ってくれる北京人たちもいる。
反日だからといっても私個人が嫌いなわけではないし、当たり前だが13億人もいて、いろんな人がいる。でも戦争の歴史がある以上、何かの折に持ち出す人はいる。
それは戦争した国同士が密集している欧州でも、その他でも同じで、慣れるしかない。
2008年、北京オリンピックのころに、取材で秀水街(ニセブランド品販売エリア)の売り子の女の子と話していたら、
「えーっ、日本人。介護とかで人手足りないんでしょ。働きに行ってあげてもいいけど、日本人てこれでしょ!私、殺されないかと心配で……」
まじめな顔で、シャーッと人を斬るマネをされた。
出稼ぎの人々だと、このころでまだこの認識である。
ちなみに、このシャーッと人を斬る日本人は、現在では微信(ウィーチャット)のコメディースタンプになっている。
中国が日本を抜くその始まりはオリンピックのころから
私の実感では、中国が日本を抜く、その始まりが北京オリンピックのころである。
オリンピックが終われば下がると思っていた不動産は下がらなかった。
北京だと、もうどこに行っても日本人であることで優勢はない。80年代から日本人でいっぱいだった日系ホテルや日本食レストランも中国人に“占拠”されていった。
田舎の長男のような、特別扱いばかりを受けてきた日本大企業の実力はあきらかに落ちた。
競争奮起して取り戻すのではなく、糊塗するために、官が企業のために法律を変え、意図的に日本の下30%ぐらいを下層にし、ごまかすためにメディアに「日本スゲー」を叫んでもらった……、というのが中国から私が見た日本である。無茶はするが強くなることを目指した中国と逆方向だった。
当時は日本のメディアは、毒ギョーザや段ボール肉まんなど、面白ネタのアラ探しに必死だったが、中国人は着々と裕福になっていった。
一般の中国人が、出張でなく“日本旅行”に行きだすのもこのころからである。
2011年、東日本大震災が起こった。3月11日、当日、北京には当時の東京電力の勝俣恒久会長が、文化人を引き連れて南京から入り、北京にいた。
日本の新聞はどこも報道しなかった。私は直後に中国のニュースで知った。
一方、中国人たちは階層にかかわらず、反日野郎も関係なく、東北の惨状に非常に同情的だった。大量に災害の映像が流れ、そこでは“鬼子”ではなく、自分の田舎の両親と同じようなおっちゃん、おばちゃんたちが家を失い、困窮している。中国人は強者からは騙してでもむしり取っていいと思っているが、弱者には優しい。
2012年の反日デモは、正直、北京住人としては、もうあまり興味を持てなかった。
中国人の友だちらに、あらためて日本について何かを言われるわけでもない。
「危ないから、どこそこへは行くな」と言われるぐらいである。
当時、被害を受けた企業や方々はお気の毒だが、政治的に作りこまれる両国の国民感情や、それを演出するメディアにうんざりしていた。
あの投石の5%ぐらいは、現地で中国人部下を通訳に立てて買春をしたり、中国での社員旅行にプロ小姐を同伴するような日本人駐在員に向けられたものではないか、と思っている。
反日教育世代の中国人が日本に行ったら…
このころからの中国人の日本旅行ブームは、私が言うまでもないだろう。
反日教育世代の中国人が日本に行ったら、シャーッと日本刀を振り回す日本人はいなかった。
鬼子のはずが、妙に低姿勢で、「いらっしゃいませー」という。
中国の貧しさを知っている世代は日本の豊かさへのあこがれは持っていた。1978年の改革開放の初期、中国は日本の映画などを取り入れた。今の中国の老人は、映画監督のジャン・イーモー(張芸謀)はじめ、男性ならみな、高倉健のファンである。当時が青春時代だった人々にとっては、日本は国の仇敵であることとあこがれが交差する国である。
でもやっと行ってみたら、日本はいろいろ老朽化していた。昔のクラスのアイドルが、同窓会でちょっと残念だった……、みたいな。
今、日本に行くのは、一部の富裕層の高級旅行を除いては、地域的にも経済的にも二番手、三番手の人々である。例えばマンションの管理部の人が日本に遊びに行き、帰ってきたら、パソコンのスクリーンセーバーが金閣寺や、その他の日本の風景のローテーションになっていたとか、昔ではありえないことでうれしい。
多くの普通の中国人が、その目で日本を見たことが、一番対日感情を変えた。
中国人の対日感情が改善した、逆に日本人の対中感情が良くない、というニュースがあった。
私は今の時期に流される、こういう情報はあまり信用していない。
が、対日感情が昔より多少良くなったのは事実だろう。環境への配慮など日本の細部を認めることができるようになったのは、彼らの自信の裏返しである。漫画など優秀な娯楽コンテンツも貢献した。
そしてその“良い”の中身は、かつての豊かさへのあこがれから、自分たちが“消費する国”へのクールな変化でもある。
反感を持たれているうちが花、今や日本は特に「眼中にない」という優秀な若者も多い。悪感情でも大注目で不幸があれば大喜びから、いろんな国のウチのひとつに“格下げ”になり、もしくは経営者目線で、「いや、リーベン(日本)はまだ技術はあるし、真面目で使える。会社もヤスイ」。
中国は、悠久の歴史の国ではない。
その時々の情勢と、その場その場の自分の都合で、言うこともやることもコロコロ変わる国である。
日本もあまり振り回されず、対応していくべきだろう。
◎谷崎 光作家、(株)ダイエーと中国の合弁商社勤務後、作家に。近刊は『本当は怖い 中国発イノベーションの正体』。松竹で映画化された『中国てなもんや商社』(文藝春秋)、『日本人の値段』(小学館)など著書多数。2001年から北京大学留学を経て北京在住。ツイッターのアカウントは@tanizakihikari