越後製菓『ふんわり名人 きなこ餅』を食ってうまさのあまり、この度めでたく舌が溶けてなくなりました。越後製菓さん、ありがとうございました。
まず、はじめに写真を見てもらえばわかるように、ふんわり名人の姿をカメラに収めようとしても決してそれは叶わない。実際にふんわり名人の姿を見た者ならわかると思うが、それは雲の形を模しているようにも思える。人は雲をその眼に捉えることはできるが、手を伸ばして掴もうとしても決して掴むことはできない。雲とは「有」であり「無」である。雲ゆえの気まぐれ。ふんわり名人は口に入れた刹那、一瞬でその姿を消す。まるで初めからそこになにもなかったかのように。綿菓子の砂糖ときなこの甘みだけをその舌に残して。そう、ふんわり名人もまた「有」であり「無」なのだ。「有」であり「無」であり、「夢」であり「幻」。
また、ふんわり名人とは、お菓子でありながら人の心を狂わせる『ギアス』でもある。かのルルーシュ・ランペルージはその力を過信するがあまり結果として悲劇を生んでしまった。そう、「強大すぎる力は使い方を誤れば大きな災いを呼んでしまう」のだ。
ふんわり名人も然り。それほどこの『ふんわり名人』のうまさというのは人知を超えた領域にあると言っていい。白目剥いて気絶するくらいうまい。しかし、ふんわり名人のげに恐ろしきところはこれだけにとどまらない。ふんわり名人の真のうまさの秘密とは「ふんわり名人を食べた後のきなこのついた指」にある。
きなこがうまい、というより指そのものがうまくなる。俺の、この俺の指がこの世界に存在するどんな食物よりもうまい、という感覚。これこそが「ふんわり名人」が「ふんわり名人」たる所以なのだ。
ロールプレイングゲームのボスの中にグループで出現し、中央のいかにも存在感のある敵が本体ではなく、向かって左側の小ちゃい敵が本体というパターンが稀にあるが、まさにふんわり名人がこれにあたる。ふんわり名人のコアは綿菓子の部分ではなく、周りについているきなこ、否、そのきなこが付着した指こそがふんわり名人の本体、そう、ふんわり名人を食べていると思っていた己自身こそがふんわり名人だったのだ。魔王を倒さんとしてきた勇者オルステッドこそが魔王オディオだったのだ。
仮にいま、自分の目の前に「最高級三ツ星レストランの料理長が最高級の食材を調理した最高級のフルコース料理」と「ふんわり名人のきなこがついた五指」、この二つが並べられていてどちらか片方だけを食べられるとしたら、確実にノータイムで「ふんわり名人 with. 指ィー」のほうを選ぶだろう。
ふんわり名人もとい、きなこ指を食べているあいだ、かならず頭の中で名曲『アメイジング・グレイス』が流れる。アメイジング・グレイスの一節にこういったフレーズがある。
「I once was lost but now am found, Was blind but now I see.」
意訳するとこうだ。
「道を踏み外し彷徨っていた私を 神は救い上げてくださり 今まで見えなかった神の恵みを今は見出すことができる」
そう、ここで歌われている「神」とは「ふんわり名人」のことであり、「神の恵み」とは「きなこ指」のことである。酒、女、金、暴力に明け暮れ、人の道を踏み外そうとしていた私をふんわり名人は救ってくれたのだ。
もし仮に自分の肉体に、自分の右腕にタトゥー入れるとしたら絶対「ふんわり名人」と刻むだろう。HG創英角ポップ体で入れる。すまない、いずれ生まれくるであろう我が子よ。俺は君のために自分の身体に君の名前のタトゥーを入れることはできない。俺はりゅうちぇるには、なれない。
SMAPの名曲『らいおんハート』の歌詞に「いつかもし子供が生まれたら 世界で二番目に好きだと話そう」という一節があるが、すまない、まだ見ぬ妻よ、子供よ。必然的に君たちは二番目以下になってしまうということを許してくれ。妻よ、君が僕の誕生日にプレゼントしてくれたロケットペンダントには君の写真、ではなくふんわり名人のビニールの写真が飾ってあるだろう。月灯りふんわり落ちてくる夜にふんわり名人の前で愛を誓おう。
変わってしまうことの怖さ、人は誰もがみな、それを抱えながら生きている。それでも変わろうともがき続けるその姿は、ふんわりと風に流れる雲のように形を変えながら、いつか誰かの心に温かい雨を降らす。
は?