今回は
「何が正しいかを他人に教えてもらおうとする人」について書きたいと思います。
これについては
ほぼ全員がこんな状態じゃないですかね…
服従を強いられて育つ日本人に、不安を持たずに自己判断できる人なんかそうはいません。
従えと言われて育っていますから、そうなっていること自体は致し方ないのだと考えて欲しいと思います。
「私は自分で判断できない人間になるぞ!」と子供の頃から夢に描いていた人はいません。
人間は他人を見て自分を確認する生き物ですから、これについては全ての人に多かれ少なかれ起きる症状です。
周囲が同じであると安心、というのは集団でしか生きられない人間の特徴と言えるでしょう。
日本は心理的に未発達な国なのは既にわかっていることなので、まあ気にしないで頑張っていきましょう。
僕もこの事実を知った時には気が遠くなりましたが、自分のために世界が存在するわけではありませんから、この時代この場所に生れた人間として頑張っていくしかありません。
昔の人達も、その時代その場所に与えられた様々な苦労をしています。
200年後くらいにそれなりに全体が発達できていればいい感じだと思います。(鎖国の年数で考えると)
僕たちはこのご時世に生まれた人間として、このご時世で可能な限り頑張っていけばいいだけです。
いつの日か愛ある親子関係や、信頼ある友人関係を作れる人が増える時代が来ると思っています。
そして本題です。
皆さん、「え?何が正しいの?」と思ってつい他人に確認しては安心していませんか。
また、あっちとこっちで違うことを言う人がいたら、「どっちが正しいの?!」と混乱した挙句
やっぱり他人に確認して「こっちが正しい!」と喜んで間違っている方を叩いていませんか?
そんな時の確認方法は「できるだけ権威ある人」ではないですか?
学歴とか、地位とか、有名だとか、そういうことで正しいかどうか判断していませんか?
より偉い方が正しい!と言うならば、日本では総理大臣が一番正しいですかね…
この考え方の人が増えると、格差社会の格差は広がっていきます。
この生き方をする人が大勢いてくれると、富裕層や権力者はとても助かります。
理想はいつの世も誰かの都合で作られているからです。
ヒトラーが国民が思考しないことは政治家にとっては都合が良いと言っています。
本当にそうなんです。
権威ある人に従おうとすると、結果的には庶民が苦しむ世の中になりますから、皆さん一人一人自分で考えてくださいね。
これを読んでいるあなたがどこかの貴族や超富裕層でもなく、大統領候補でもないならば。
世の中の全ては「繋がっている」と知り、広い視野で物事を捉えてください。
自分に自信がないから、他人に聞こうと思った
それはなんともないありがちなことです。
しかし、ここで「自分は自信がないが、他人は絶対に間違わない」と思っている人が多いのです。
大変なことです。
なぜならば
あなたは、他人に対して自信がなくともどこかから聞いた噂を根拠に
「これってこうなんだよ」
と言う時がありませんか?
それを他人もやっているだけです。安心を得たいという願望が、「この人は自信がある」と思い込ませているだけです。
特に「同意してくれる人しか許さない系」の人は、確実に周囲にこのタイプがいます。
誰かが自分の言っていることを「それが正しいよ」と言ってくれたとします。
「やったー!私正しいー!」
と喜んでいる場合ではありません。
それ、確実に正しい自信がありますか?
つまり
「今教えてくれた相手が、確実に正しいことを言っている根拠や確信がありますか?」
言うだけタダ
という、素晴らしい名言があります。
根拠なく言っている人も山ほどいます
意見を言った後に「なぜならば」と説明できない人
「誰々が言った」と言い出す人
ハッキリ言って全く当てになりません。
「知らないと言えない」という人が多く存在しています。
知らないことが恥、と思っている人です。そうなるにはそうなるだけの理由がありますが、今回はそれはいいとして
あなたに正しいことを教えているわけではなく
「知らないと思われたくない」から言っている人が沢山いますよ。
こうなると
「じゃあ誰が正しいのー!」と混乱する人がいます。
よく覚えておいてください。
大人になったら誰も正しいことなど教えてくれません。
それぞれが正しいと思っていることを主張しているだけです。
世界を見れば様々な意見が飛び交っています。視野を広げれば広げるほど、何が正しいのかなどわかりません。
「他人に決めてもらおう」という姿勢で聞くから、「教えてもらった」と捉えるだけです。
「意見を聞こう」という姿勢で聞けば、「この人の意見を聞けた」と捉えます。
神経症は責任を取りたくない病気でもあります。
死ぬまで無責任に生きて行きたい、好きなことをして、辛いことは他人に任せて
他人が苦労しても、自分だけはなんの痛みもなく生きて行きたい…
「母の胎内にまで戻ろうとする」と言われている所以です。
自分の判断は自分の責任です。
それが大人です。
他人から聞いたとしても、それを採用するかどうかは自分が決めたのです。
「だってあの人がこう言ったんだよ!間違ってるじゃん!酷いよね!」
こんなことを言いだす人がいます。
こんなことを大人がみんなでやったら、ただの責任の押し付け合いで自分の発言になんの意味も無くなってしまいます。
何を言っても信用されない人間になってしまいます。
そして、実はそこはどうでもいいことなのです。
この世の全てを知っている人はいません。
80歳を過ぎたある心理学者が
「私も長年心理学を研究してきましたが、やればやるほど…よくわからなくなってきました」
と仰っていました。
ああこの方は大変苦労されている努力家の方だなと尊敬しました。ことこの分野に関して全て理解し尽くして「現実に何が真実なのか」を完全に解決できている人はいません。
それは何についても同じです。「安全」と言われていたものが安全でないと発覚する時もあります。
何度も改定されているような決まりごとを実行している場合、現時点ではこれが正しい「とされている」と言えるでしょう。
それが100年後に正しいかどうかはわかりません。数年後に今の正しいが間違いになる場合もあります。
全てのことにおいて言えるのは、「未来は誰にもわからない」ということです。
よく考えて自分で判断している人は、易々と「これが絶対です!」なんて言いません。
僕はこの世に完璧なものなど、自然の法則くらいしかないと思っています。
ほとんどのものは人が作ったものです。いつ変わるかわからない、あやふやなものです。
もし、あなたの前にいるAさんBさんCさんが、同じことについて全員違う見解を出したとします。
さて、どうしましょう。
ここで「誰が正しいだろう…」と考えていると、自我は発達しません。
「私はどうだろう…」と考えて初めてあなたの意思が生まれます。
これは自分の権利の行使でもあります。自分に許された自分の権利です。
ここで「間違っていたら」と考える人がいるでしょう。
間違いって、何?
間違いなんてないですよ。
自分の意見を他人にとっても正しいものにしようとするから、間違い、というものが発生して
「どっちが正しいか」でもめるのです。
「だってこれこれなんだから、私が正しいでしょう?」と言う人がいます。
なぜ、他人に聞いているのか。
「正しいでしょう?」となぜ他人に聞くのか。
自分が正しいという、確信がないからです。
自分で考えた結果ではないよ、と言っているのと同じです。
自分で考えて確信を持っている人は、自分の意見は断言します。
「私はこうだ」という断言です。
他人の考えを採用し続けているから、自信がないのです。
何を正しいと思うかは、人それぞれの経験と得ている知識、考え方によって違います。
多くの人が正しいか悪いかと言いたがりますが、それは正しい悪いではありません。
「社会的理想かどうか」です。
社会の理想として、模範生になり褒めてもらいたい人が多いですから、そうなっています。
人の言う事に従って褒められるのが目的の人は、人の理想を叶えたらそれで成功です。
幸せを感じないなんて当たり前のことで、その分人が喜んでいるのですからそれでいいのです。
人の理想を叶えると、自分の目的が叶う、とダブルの目的を持っていると「おかしい」と思い始めます。
人の目的は人の目的、自分の目的は自分の目的です。
他人が言う事は、あくまでもその人個人のそれまでの人生で「正しい」と思えたことです。
または、その人が誰かに「これが正しい」と教えられたことです。
全員が自分と同化して生きていると考えている人は、違う意見を言われただけで
「私を間違っていると言った!」と怒ります。
そんなことは誰も言っていませんが、他人は私なのでそうなります。
こうなると気に入ることしか言えません。
何が気に入るかなどわかりませんから、とりあえず先に意見を言わせて同意するしかありません。
傷つきたくない人に、良い方法を教えます。
「自分のことを喋らない」
これです。
僕は子供の頃に「よく考えたら他人が自分を理解すること自体あり得ない」と気付いてから、この方法でうまく行っています。
「私をわかって!」の人は自分のことをやたら話します。
話して思い通りの答えがないと言って傷つきます。
だったら、言わない。
ただ、その場に必要なことのみ話す。
相手に関係のない過去、個人的事情、それらを一切話さない。
話さなければ、何を言われても「知らないからだ」と認識できます。
わかってもらいたい、と願えば、「わかってもらえるだろうか…」と心配になります。
その欲求を捨てれば不安は無くなります。
その方が幸せなんです。
人間が嫌いなのは不安です。不安を発生させることを自分からは一切しないのです。
わかってもらいたいのは自分であって、全く知らない他人の方から「お前をなんとかしてわからなくてはならないんだ!」とやってくるわけではありません。
他人は自分のことにびっくりするくらい興味ないですから、これで何も問題は起きません。
たまに自分に興味がある人に出会うと、逆にびっくりするでしょう。
何が正しいのかも他人に決めてもらおうとしないことです。
もう全部自分で決めて良いのですから。
「自信がないから、間違っていたら嫌だから、他人に聞こう」
この考え方で他人に決めてもらって、いいことはありません。
そして失敗すると他人のせいにする人がいますが、実は自分で決めているんですよ。
人間は、自分の利になることしか絶対にしません。
未来に完璧に望まないことが起きる、と思っていたら人間は絶対に実行しません。
何か望ましいことが起きると期待するから実行するのです。
自信がないから、と他人に聞いている人は
もし一人目が気に入らない答えを言うと、別の人に聞きに言って「都合が良い答え」を採用します。
つまり、本当は最初から自分のやりたいことや考えていることは決まっているんです。
責任を取りたくないだけで、結局は自分で決めてるんですよ。
自信がないから人の言う事を聞きました、なんていう人がいますが、なんだかんだ言って自分がやりたいことやっています。本当にやりたくない時は「でもさあ…」と反論して人の言うことなど聞きません。
人間は絶対にしたくないことは本当にしないんですよ。
やりたいことしか人間はやりません。
失敗した時の保険として、自分が言いたいことやりたいことを「代わりに言ってくれる人」が必要なんです。
だから同意する人が必要なんです。肯定してくれる人が必要なんです。
一人で決めると責任を持たなくてはならないので、「自分の代わりに責任を持つ自分の代弁者」が必要なのです。
ただ、よく考えてください。
人のせいにしても、実行した結果って自分の人生に起きますよね?
他人が言ったとしても、他人の人生に自分の実行した結果が起きませんよね?
なにもいいことはありません。
他人が実行させたような気分になって、気が楽にはなります。
自分が失敗したと「思いたくない」だけです。
思いたくはないが、結果は自分の人生におきてしまったので、嘆いているのです。
となると、「この現実は他人が起こしたものである」という理屈になります。そして恨んでいるのです。
人を恨むので、その後は更にやりたいことではなく「見返せること」をやり出すのです。
少なくとも、「うわーなんて楽しいんだろう!」と声にもならないため息を漏らすような、人生の喜びは実感することがありません。
判断は全て自分でする。
これは必要なことです。自信がないからどうこうはいいんです。
何を実行しても、使うのは自分の人生のチャンスです。結果も自分の人生にだけ起きます。
始末をつけるのは自分しかいません。
結果が起きた延長線上に生きるのは、自分しかいません。
たった一人好きに使っていいと許されているのが自分です。
たったひとつ進んでいいと与えられたのが自分の人生です。
その旅路の行く末を、進むのは自分なのに選択を他人に任せているのです。
収集が付かなくなります。
その都度違う人に聞いていたら、一貫性のない迷路のような人生になってしまいます。
今までうまく行かなかった人は、「一体誰の意見を採用してきたか」と思い出してみてください。
神経症の人は「矛盾したふたつの目的」を抱えています。
それが原因で、「こんなことしたくはなかったのに」という結果を起こしています。
無意識を探る作業は容易ではありません。
しかし、結果が出た時に「自分の目的を実行したのだ」と捉え、「私は一体無意識にどんな欲求を抱えていたのだろうか?」と結果から逆算するように自分の目的を探ると答えが出てきます。
ただし、それは意識の目的と矛盾しているので、「いや、そんなはずはない」と自分では思いたいようなことなのです。
人間は少なからず生活においてこのようなことをしています。
自分の本心を知る作業は自分一人でできますから、ひっそりと自問自答すると良いでしょう。
自分の判断で生きている人は、さぞ自信があって正しいことを知っているのだろう。と考えている人がいますが、そんなことはありません。
未来は誰にもわかりません。
「わかってるからやってんじゃないの?」と思うかもしれませんが、未来がわかっている人はどこにもいません。
ただ予測をつけて生きるしかありません。
結果がわからない不安に耐える人と、そうでない人がいるだけです。
「どうなるかは絶対にわからない」
となれば、後は後悔しないようにせめて自分が本当に望むことを実行するだけです。
結果は自分の人生に起きる、ということはどうにもできない事実だからです。
「何が正しいかを他人に教えてもらおうとする人」について書きたいと思います。
これについては
ほぼ全員がこんな状態じゃないですかね…
服従を強いられて育つ日本人に、不安を持たずに自己判断できる人なんかそうはいません。
従えと言われて育っていますから、そうなっていること自体は致し方ないのだと考えて欲しいと思います。
「私は自分で判断できない人間になるぞ!」と子供の頃から夢に描いていた人はいません。
人間は他人を見て自分を確認する生き物ですから、これについては全ての人に多かれ少なかれ起きる症状です。
周囲が同じであると安心、というのは集団でしか生きられない人間の特徴と言えるでしょう。
日本は心理的に未発達な国なのは既にわかっていることなので、まあ気にしないで頑張っていきましょう。
僕もこの事実を知った時には気が遠くなりましたが、自分のために世界が存在するわけではありませんから、この時代この場所に生れた人間として頑張っていくしかありません。
昔の人達も、その時代その場所に与えられた様々な苦労をしています。
200年後くらいにそれなりに全体が発達できていればいい感じだと思います。(鎖国の年数で考えると)
僕たちはこのご時世に生まれた人間として、このご時世で可能な限り頑張っていけばいいだけです。
いつの日か愛ある親子関係や、信頼ある友人関係を作れる人が増える時代が来ると思っています。
そして本題です。
皆さん、「え?何が正しいの?」と思ってつい他人に確認しては安心していませんか。
また、あっちとこっちで違うことを言う人がいたら、「どっちが正しいの?!」と混乱した挙句
やっぱり他人に確認して「こっちが正しい!」と喜んで間違っている方を叩いていませんか?
そんな時の確認方法は「できるだけ権威ある人」ではないですか?
学歴とか、地位とか、有名だとか、そういうことで正しいかどうか判断していませんか?
より偉い方が正しい!と言うならば、日本では総理大臣が一番正しいですかね…
この考え方の人が増えると、格差社会の格差は広がっていきます。
この生き方をする人が大勢いてくれると、富裕層や権力者はとても助かります。
理想はいつの世も誰かの都合で作られているからです。
ヒトラーが国民が思考しないことは政治家にとっては都合が良いと言っています。
本当にそうなんです。
権威ある人に従おうとすると、結果的には庶民が苦しむ世の中になりますから、皆さん一人一人自分で考えてくださいね。
これを読んでいるあなたがどこかの貴族や超富裕層でもなく、大統領候補でもないならば。
世の中の全ては「繋がっている」と知り、広い視野で物事を捉えてください。
自分に自信がないから、他人に聞こうと思った
それはなんともないありがちなことです。
しかし、ここで「自分は自信がないが、他人は絶対に間違わない」と思っている人が多いのです。
大変なことです。
なぜならば
あなたは、他人に対して自信がなくともどこかから聞いた噂を根拠に
「これってこうなんだよ」
と言う時がありませんか?
それを他人もやっているだけです。安心を得たいという願望が、「この人は自信がある」と思い込ませているだけです。
特に「同意してくれる人しか許さない系」の人は、確実に周囲にこのタイプがいます。
誰かが自分の言っていることを「それが正しいよ」と言ってくれたとします。
「やったー!私正しいー!」
と喜んでいる場合ではありません。
それ、確実に正しい自信がありますか?
つまり
「今教えてくれた相手が、確実に正しいことを言っている根拠や確信がありますか?」
言うだけタダ
という、素晴らしい名言があります。
根拠なく言っている人も山ほどいます
意見を言った後に「なぜならば」と説明できない人
「誰々が言った」と言い出す人
ハッキリ言って全く当てになりません。
「知らないと言えない」という人が多く存在しています。
知らないことが恥、と思っている人です。そうなるにはそうなるだけの理由がありますが、今回はそれはいいとして
あなたに正しいことを教えているわけではなく
「知らないと思われたくない」から言っている人が沢山いますよ。
こうなると
「じゃあ誰が正しいのー!」と混乱する人がいます。
よく覚えておいてください。
大人になったら誰も正しいことなど教えてくれません。
それぞれが正しいと思っていることを主張しているだけです。
世界を見れば様々な意見が飛び交っています。視野を広げれば広げるほど、何が正しいのかなどわかりません。
「他人に決めてもらおう」という姿勢で聞くから、「教えてもらった」と捉えるだけです。
「意見を聞こう」という姿勢で聞けば、「この人の意見を聞けた」と捉えます。
神経症は責任を取りたくない病気でもあります。
死ぬまで無責任に生きて行きたい、好きなことをして、辛いことは他人に任せて
他人が苦労しても、自分だけはなんの痛みもなく生きて行きたい…
「母の胎内にまで戻ろうとする」と言われている所以です。
自分の判断は自分の責任です。
それが大人です。
他人から聞いたとしても、それを採用するかどうかは自分が決めたのです。
「だってあの人がこう言ったんだよ!間違ってるじゃん!酷いよね!」
こんなことを言いだす人がいます。
こんなことを大人がみんなでやったら、ただの責任の押し付け合いで自分の発言になんの意味も無くなってしまいます。
何を言っても信用されない人間になってしまいます。
そして、実はそこはどうでもいいことなのです。
この世の全てを知っている人はいません。
80歳を過ぎたある心理学者が
「私も長年心理学を研究してきましたが、やればやるほど…よくわからなくなってきました」
と仰っていました。
ああこの方は大変苦労されている努力家の方だなと尊敬しました。ことこの分野に関して全て理解し尽くして「現実に何が真実なのか」を完全に解決できている人はいません。
それは何についても同じです。「安全」と言われていたものが安全でないと発覚する時もあります。
何度も改定されているような決まりごとを実行している場合、現時点ではこれが正しい「とされている」と言えるでしょう。
それが100年後に正しいかどうかはわかりません。数年後に今の正しいが間違いになる場合もあります。
全てのことにおいて言えるのは、「未来は誰にもわからない」ということです。
よく考えて自分で判断している人は、易々と「これが絶対です!」なんて言いません。
僕はこの世に完璧なものなど、自然の法則くらいしかないと思っています。
ほとんどのものは人が作ったものです。いつ変わるかわからない、あやふやなものです。
もし、あなたの前にいるAさんBさんCさんが、同じことについて全員違う見解を出したとします。
さて、どうしましょう。
ここで「誰が正しいだろう…」と考えていると、自我は発達しません。
「私はどうだろう…」と考えて初めてあなたの意思が生まれます。
これは自分の権利の行使でもあります。自分に許された自分の権利です。
ここで「間違っていたら」と考える人がいるでしょう。
間違いって、何?
間違いなんてないですよ。
自分の意見を他人にとっても正しいものにしようとするから、間違い、というものが発生して
「どっちが正しいか」でもめるのです。
「だってこれこれなんだから、私が正しいでしょう?」と言う人がいます。
なぜ、他人に聞いているのか。
「正しいでしょう?」となぜ他人に聞くのか。
自分が正しいという、確信がないからです。
自分で考えた結果ではないよ、と言っているのと同じです。
自分で考えて確信を持っている人は、自分の意見は断言します。
「私はこうだ」という断言です。
他人の考えを採用し続けているから、自信がないのです。
何を正しいと思うかは、人それぞれの経験と得ている知識、考え方によって違います。
多くの人が正しいか悪いかと言いたがりますが、それは正しい悪いではありません。
「社会的理想かどうか」です。
社会の理想として、模範生になり褒めてもらいたい人が多いですから、そうなっています。
人の言う事に従って褒められるのが目的の人は、人の理想を叶えたらそれで成功です。
幸せを感じないなんて当たり前のことで、その分人が喜んでいるのですからそれでいいのです。
人の理想を叶えると、自分の目的が叶う、とダブルの目的を持っていると「おかしい」と思い始めます。
人の目的は人の目的、自分の目的は自分の目的です。
他人が言う事は、あくまでもその人個人のそれまでの人生で「正しい」と思えたことです。
または、その人が誰かに「これが正しい」と教えられたことです。
全員が自分と同化して生きていると考えている人は、違う意見を言われただけで
「私を間違っていると言った!」と怒ります。
そんなことは誰も言っていませんが、他人は私なのでそうなります。
こうなると気に入ることしか言えません。
何が気に入るかなどわかりませんから、とりあえず先に意見を言わせて同意するしかありません。
傷つきたくない人に、良い方法を教えます。
「自分のことを喋らない」
これです。
僕は子供の頃に「よく考えたら他人が自分を理解すること自体あり得ない」と気付いてから、この方法でうまく行っています。
「私をわかって!」の人は自分のことをやたら話します。
話して思い通りの答えがないと言って傷つきます。
だったら、言わない。
ただ、その場に必要なことのみ話す。
相手に関係のない過去、個人的事情、それらを一切話さない。
話さなければ、何を言われても「知らないからだ」と認識できます。
わかってもらいたい、と願えば、「わかってもらえるだろうか…」と心配になります。
その欲求を捨てれば不安は無くなります。
その方が幸せなんです。
人間が嫌いなのは不安です。不安を発生させることを自分からは一切しないのです。
わかってもらいたいのは自分であって、全く知らない他人の方から「お前をなんとかしてわからなくてはならないんだ!」とやってくるわけではありません。
他人は自分のことにびっくりするくらい興味ないですから、これで何も問題は起きません。
たまに自分に興味がある人に出会うと、逆にびっくりするでしょう。
何が正しいのかも他人に決めてもらおうとしないことです。
もう全部自分で決めて良いのですから。
「自信がないから、間違っていたら嫌だから、他人に聞こう」
この考え方で他人に決めてもらって、いいことはありません。
そして失敗すると他人のせいにする人がいますが、実は自分で決めているんですよ。
人間は、自分の利になることしか絶対にしません。
未来に完璧に望まないことが起きる、と思っていたら人間は絶対に実行しません。
何か望ましいことが起きると期待するから実行するのです。
自信がないから、と他人に聞いている人は
もし一人目が気に入らない答えを言うと、別の人に聞きに言って「都合が良い答え」を採用します。
つまり、本当は最初から自分のやりたいことや考えていることは決まっているんです。
責任を取りたくないだけで、結局は自分で決めてるんですよ。
自信がないから人の言う事を聞きました、なんていう人がいますが、なんだかんだ言って自分がやりたいことやっています。本当にやりたくない時は「でもさあ…」と反論して人の言うことなど聞きません。
人間は絶対にしたくないことは本当にしないんですよ。
やりたいことしか人間はやりません。
失敗した時の保険として、自分が言いたいことやりたいことを「代わりに言ってくれる人」が必要なんです。
だから同意する人が必要なんです。肯定してくれる人が必要なんです。
一人で決めると責任を持たなくてはならないので、「自分の代わりに責任を持つ自分の代弁者」が必要なのです。
ただ、よく考えてください。
人のせいにしても、実行した結果って自分の人生に起きますよね?
他人が言ったとしても、他人の人生に自分の実行した結果が起きませんよね?
なにもいいことはありません。
他人が実行させたような気分になって、気が楽にはなります。
自分が失敗したと「思いたくない」だけです。
思いたくはないが、結果は自分の人生におきてしまったので、嘆いているのです。
となると、「この現実は他人が起こしたものである」という理屈になります。そして恨んでいるのです。
人を恨むので、その後は更にやりたいことではなく「見返せること」をやり出すのです。
少なくとも、「うわーなんて楽しいんだろう!」と声にもならないため息を漏らすような、人生の喜びは実感することがありません。
判断は全て自分でする。
これは必要なことです。自信がないからどうこうはいいんです。
何を実行しても、使うのは自分の人生のチャンスです。結果も自分の人生にだけ起きます。
始末をつけるのは自分しかいません。
結果が起きた延長線上に生きるのは、自分しかいません。
たった一人好きに使っていいと許されているのが自分です。
たったひとつ進んでいいと与えられたのが自分の人生です。
その旅路の行く末を、進むのは自分なのに選択を他人に任せているのです。
収集が付かなくなります。
その都度違う人に聞いていたら、一貫性のない迷路のような人生になってしまいます。
今までうまく行かなかった人は、「一体誰の意見を採用してきたか」と思い出してみてください。
神経症の人は「矛盾したふたつの目的」を抱えています。
それが原因で、「こんなことしたくはなかったのに」という結果を起こしています。
無意識を探る作業は容易ではありません。
しかし、結果が出た時に「自分の目的を実行したのだ」と捉え、「私は一体無意識にどんな欲求を抱えていたのだろうか?」と結果から逆算するように自分の目的を探ると答えが出てきます。
ただし、それは意識の目的と矛盾しているので、「いや、そんなはずはない」と自分では思いたいようなことなのです。
人間は少なからず生活においてこのようなことをしています。
自分の本心を知る作業は自分一人でできますから、ひっそりと自問自答すると良いでしょう。
自分の判断で生きている人は、さぞ自信があって正しいことを知っているのだろう。と考えている人がいますが、そんなことはありません。
未来は誰にもわかりません。
「わかってるからやってんじゃないの?」と思うかもしれませんが、未来がわかっている人はどこにもいません。
ただ予測をつけて生きるしかありません。
結果がわからない不安に耐える人と、そうでない人がいるだけです。
「どうなるかは絶対にわからない」
となれば、後は後悔しないようにせめて自分が本当に望むことを実行するだけです。
結果は自分の人生に起きる、ということはどうにもできない事実だからです。