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この世界はあなたを楽しませない
8年。前作『レッド・デッド・リデンプション』が発売され魅了された時から私が待ち続けた時間だ。もちろん、私はこの作品にとても期待していた。本心から。
実際にこの作品を遊んでみてどうか?正直に言わせて欲しい。
『レッド・デッド・リデンプション2』は面白くなかったし、
『レッド・デッド・リデンプション2』は楽しくなかった。
この作品の導入部はこんな感じだ。
雪の吹きすさぶ山岳部を馬車が列をなして進む。場所はアメリカ中部「グリズリー」。男女問わず負傷するか凍えるかしており、彼らの会話からは、自分たちが何者からか追われていること、もう何人も死んだこと、食糧も物資も尽き、全てが絶望的な事が伺える。
そうした中、ようやく到達した鉱山の廃村。ダッチと呼ばれるリーダーの命令に従い、彼らは生きるための糧を得る。積雪に足を取られながら、山を登って鹿を借り、狼たちの襲撃を退け、冬を超えるまで待つ。
そうして春を迎えた時、彼らが最初に行った事は「強奪」だった。
たったこれだけのチュートリアルは、私にとって今までプレイしたゲームの中で最も長い印象を受けた。
寒く、苦しく、痛い、そんな日々。19世紀末、アウトローとフロンティアが駆逐される時代の流れを身をもって体験するようなゲームプレイ。
凄まじいリアリティに圧倒される。一度射撃すると撃鉄を手動で起こすシングルアクションのリボルバー、積雪と岩場に足を取られながらの移動、ファストトラベルすら序盤は許さずひたすら何もない自然を移動するシーケンス、落ちている弾薬を取る、回復アイテムを摂取する、その一切が省略されることなく描かれるアニメーション。
この作品は何も面白くないし、楽しくない。そもそも楽しませようという理念で作られては居ない。
あなたは今、アメリカという大地に立っている、アメリカという国家に従属している、その中で足掻き藻掻き、時に他者から奪い、殺してでも糧を得ようとしている。人生が美しさに満ちていても、時に苦しくあらねばならない。そこで絶対に「嘘」をつきたくない。
そう、これは従来の定義における「ゲーム」というより、「シミュレーション」に近いのだ。
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死んだ洋ゲーで味わった神隠し
ただゲームというメディアを通して、何かを体験している。そうして私の奥でうごめくのはイメージだった。随分前に忘れてしまった、好奇心と冒険心を求めて海外ゲームを貪っていたあの記憶だ。
初めて『Grand Theft Auto: San Andreass』というゲームを遊んだ時、私は本心から「怖く」感じた。どのホラーゲームでも味わう事のない恐怖を悟った。
それは、決して無辜の市民を射殺できてしまうモラル的な自由度ではない。そんなものは、この作品の怖さの、ほんの一部でしかない。
この作品が怖いのは、今まで遊んできたゲームが必ず自分が「外」にいる自覚があったのに対し、この作品では自分が「中」にいるのではないかと錯覚させられたからだ。
コントローラーを握り、黒人のキャラクターを操作しながら、まず目の前にある自転車に乗ってみる。貧民街のストリートを抜けて、次はハイウェイに出る。
ハイウェイには案内標識が飾ってあり、聞いたこともない場所が何マイルも先にある事を示している。そうか、なら行ってみよう。今度はスポーツ車に乗り換え、高級住宅地を抜けて森林の生い茂る道路を真っ直ぐ進む、偶然かけたラジオからは作中のメキシカンレストランのCMが流れており、気づけば遠くにビル街が見えてくる。そうか、あそこが標識にあった「サンフィエロ」なのか。
ここで、私は確かに恐怖を感じたのだった。私は間違いなく、ゲームの中にいた。肉体は日本の家屋でコントローラーを握っていても、精神は確かにロスサントスにいたのである。それは、まるで神隠しにでもあってしまったような気分であった。
『GTA:SA』が構築したかったのは、紛れもない一つの世界だった。それは決して、外側から眺めて楽しむ箱庭などでなく、遊んだ人間を内側に連れて遊ばせる世界だった。少なくとも当初、こんなにリアリティに満ちた、説得力のある空間はあの作品だけだった。
そこから得た体験は、今までゲームを通して味わった「楽しさ」「面白さ」とは程遠い何かだった。強敵を倒した喜び、難問を問いた達成感、そんなものよりも、もっと純粋で赤子に立ち返ったような感覚、自分がゲームという虚構の中に誕生し、存在しているかのような、そんな感覚である。
それからは、私は必死にあの「恐怖」を味わおうと、海外ゲームを漁り、その感情を咀嚼した。
『GTA』過去シリーズは元々遊んでいたが、そこに『Deus Ex』、『Thief: The Dark Project』、『Hitman: Silent Assasin』、『S.T.A.L.K.E.R.』…。
どれも、時代に名を残すべき傑作ばかりである。単に広い空間だけでなく、考えうる事を何でも実行に移すことが出来て、想定される物は何でも用意されている、ただそれだけの「世界」。こうした作品を遊べば遊ぶ程、自分という存在がゲームの中に引き込まれ、やがて現実と虚構の狭間をフラフラとさまようような、ゾクリとする体験があった。
こうした作品は、当時海外ゲーム文化が目指す「シミュレーション的なゲーム」の極地だったと思う。
自由度そのものと言って良い『Deux Ex』
チェルノブイリの実在『S.T.A.L.K.E.R.』
だが、こうしたゲームはどれも姿を変えてしまった。『Deus Ex』は続編ではShooter/RPGとなり、『Theif』や『Hitman』*1はちょっとユニークなステルスゲームに落ち着いた。
そこには、かつてあった圧倒的なリアリティと、途方もない懐深さが失われていた。とにかく可能性をゲームという一つの箱に詰め込んで出荷してしまえ!という野心がなくなり、決められた行程をなぞる前提の、ごく普通のゲームになった。
典型的な例は、実は私が最初感動したシリーズ最新作の『GTAV』である。
確かに外見上は、最新の映像技術で再現された美しい西海岸の街並みで圧倒されるし、何から何まで便利になっていて遊びやすい。だがその反面、前作までにあった、一体誰が気づくんだ?というレベルに作り込まれた細部は殆どが摩耗していた。
www.youtube.com詳しくはこの動画を見ていただきたい。
こうして、私の中で「洋ゲー」は死んでいった。
今の海外ゲームが決してつまらないわけでない。だが、かつて利便性も娯楽性も全てを犠牲に、ただ現実を虚構にトレースしたい、なるべく多くのことを再現したいという、何か途方もなく遠い目標に向かって七転八倒するような、偏執的とさえ言える熱望が、今はないというだけのことだ。
そもそも、あの時代のゲームがおかしかった。ゲーマーという人種の層の広まりと、市場の変化を考えれば、今のゲームの方が正しいのだと。
20年の夢
話を滅びゆくアウトローの叙事詩に戻そう。
この作品には、間違いなくあの時代の熱望が根付いている。それも生半可なものではない。自分には到底想像もつかないだけの、クリエイターたちの狂気*2と、『GTAO』で築いたバカげただけの資産が、この作品にたどり着いた。
一人のゲーマーとして、胸打たれる思いだった。懐古しか出来ないあの時代、あのゲームは、今や眼前にぼやけ輪郭を失った。それは正しく、数々の武勇伝と共に姿をくらませた、西部のアウトローたちのように。
彼らは本気でバカげた夢をまだ追っていたのだ。必ず「ウェスタン」をこの小さなディスクの中に再現するのだと。自分たちが作った世界に、遊んだプレイヤーを引きずりこんで、二度と返さないようにしてやるのだと。
世界はこんなに広いのに、一人称視点で遊んでも全く違和感のない細部までテキスチャが貼り付けられている。ゲーム中の情報は新聞や本といった紙を通して得られる。馬をなで、洗い、餌を与えることができる。全てのNPCと会話ができる。銃はバレルからストックまで全てカスタマイズし彫刻を彫ることができる。視点は3種の三人称視点と一人称視点、シネマ視点の計5種に切り替えられる。200種類以上の動物を狩る事ができる。森でキャンプすることができて料理もできる。物理エンジンにより遮蔽物を破壊することができる。アメリカのあらゆる気候と大地を味わう事ができる。登場人物はシチューを鍋からプレートにすくい、プレートからスプーンで口に運ぶことができる。
あぁ、ただ何もかもが美しい。景観も、所作も、物語も、人物も、演技も、構造も、理不尽ささえも。
私はもうしばらく、この美しいものを愛でようと思う。何時間、何十時間もかけて、味わおうと思う。だが連続で遊び続けるのは辞めよう。情報と実体に満ちたこの世界に長時間とどまり続けると、さすがに頭が痛くなってくる。
ただ一つ、確かにこの作品は楽しいゲームでも、面白いゲームでもない。アメリカという大地、西部劇という文脈に興味がないならなおのこと。この作品はそれらを再現するために本当に何もかも犠牲にしている。それを批判する声は最もである。
それでも、この作品はかつて多くのゲーム開発者やゲーマーが追い求めた、一つの夢なのである。
本稿の執筆時点でまだ完全にクリアしていません。後日、完全版の批評を投稿予定。
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*1:ただしこちらは2016年版で大きく方向転換している