能登の民の原始交易

(1999年11月9日作成)

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原始交易
ヒスイからわかる
原始交易
その他の鉱物から
わかる原始交易
土器からわかる
原始交易


<黒曜石からわかる原始交易>
 石器時代の狩猟採集民の活動範囲は、半径約10km程度、歩行時間にして約2時間くらいだと考えられている。ところが、石器時代の人々も、時には交易の「ため意外と遠隔地にまで旅していたことが、石器や土器などの発掘でわかるのである。
 黒曜石は、天然ガラスともいわれ、打ち砕くことで、破面に鋭利な刃を作ることができるので、旧石器時代以来、石刃や石鏃(いしやじり)、石槍の素材などに使用されてきた。火山国日本と言ってもどこでも手に入るわけではなく、産出地は限定されており、ヒスイ(硬玉)などとともに、物資の流れ(交易)を研究するには好適な材料とされてきた。
 能登でも、旧石器・縄文時代遺跡からしばしば黒曜石製石器が出土する。現在、全国で約40ヶ所の黒曜石産地が確認されているが、石川県に最も近いのが、長野県内の大町(大町市)・浅間(北佐久郡軽井沢町)・和田峠(小県郡和田村)・霧ヶ峰(諏訪・茅野市)などであり、県内出土の殆どは、和田峠や霧ヶ峰産であることが科学的に証明されている。直線距離にしても、100kmを超す遠隔地である。能登の縄文人が、直接これらの産地に出かけたとは考えられないが、やはり日常の行動範囲を超えての交易活動があったと言わねばなるまい。

(参考)縄文時代の能登の遺跡
所在地 遺跡名
能登町 旧能都町 真脇遺跡
旧柳田村 上町和住下遺跡
穴水町 曽福遺跡
七尾市 旧田鶴浜町 三引C・D遺跡(集落)
三引C・D遺跡(貝塚)
大津遺跡
吉田野寺遺跡
旧能登島町 通ジゾハナ遺跡
佐波遺跡
半浦遺跡
旧七尾市 水上ロクンダン
中能登町 旧鹿島町 徳前C遺跡
羽咋市 四柳白山下遺跡
志賀町 川尻ナペンタカ遺跡
宝達志水町 旧押水町 紺屋町ダイラクボウ遺跡
石川県埋蔵文化センターのHP・遺跡発掘ファイルから


<ヒスイからわかる原始交易>
 縄文時代中期頃を中心に、ヒスイ(翡翠)を用いた飾玉が愛用された。長さ4-5cmにも達する大型のものを、“大珠(たいしゅ)”と呼んでいる。原始・古代の日本民俗は、緑色の石を特に好み、弥生時代からは、碧玉製の玉類が愛用されているが、これもヒスイと同様、緑色の石である。彼らの生きた環境は現在とは比べようもないほどの緑に覆われた世界であった。秋には緑を失うにしても、春には緑の世界が甦る。緑色に生命の不滅を感じたのかもしれない。
 ヒスイは宝石として用いられる緑色の石で、ダイヤモンドに次ぐ程の硬度をもつことから硬玉(こうぎょく)とも称されています。アジアではビルマ・雲南・チベットに主要産地があり、かつては縄文人のヒスイ飾玉も、海を渡ってきたものと考えられてきた。しかし、戦後、新潟県西部の姫川や青海川上流に産出地があり、新潟・富山県境付近の海岸では、漂石として容易に採取できることが判明した。また姫川下流域にある長者ヶ原・寺地・細池遺跡などはヒスイ加工工房のある集落としてよく知られている。
 ヒスイの大珠や小玉は、東日本、特に北陸・中部・関東地方にかけて濃い分布を示しています。能登では、志賀町大釜遺跡出土の大珠がよく知られており、能登町真脇遺跡でもヒスイ製飾玉が出土しています。
 大気の澄み切った日には、能登半島内浦沿岸(東部海岸地帯)から、白く輝いた立山連峰と一緒に新潟県の親不知(西頚城郡青海(おうみ)町)の懸崖を遠望することができます。親不知の周辺には、“ヒスイ海岸”が広がっています。海の穏やかな日を選んで、真脇人が乗り込んだ丸木船が、ヒスイを求めて富山湾へ漕ぎ出したことは十分に考えられます。真脇遺跡からは、丸木舟の出土はありませんでしたが、舟の櫂が出土しています。
 
<その他の鉱物からわかる原始交易>
 縄文人の代表的な交易品にはそれ以外にも、接着剤としての
アスファルトがある。石油産出地帯の秋田県から新潟県に海岸地帯で採取され、東北地方一帯の縄文人に利用されています。石鏃・石槍や骨角器のヤスを柄に固定する為に用いることがよくありました。アスファルトが付着した石器は、富山県下で数例発見されているから、石川県下での出土も確かめられる日が来ることであろう。
 一方、能登半島には、石鏃・石錐・石匙などを作るのに適した
頁岩(けつがん)(輝石安山岩)が豊富である。若狭(福井)の鳥浜貝塚からこの石で作られた石器が出土しているといいます。能登の頁岩も石器原料として、意外に広い範囲へ供給されていたのかもしれない。

<土器からわかる原始交易>
 土器は「年代の尺度」だといわれるように、作られた年代によって、形や文様が変化している。土器の形や文様は、現代のファッションと違い、用途によって厳格に決められており、自由な発想で創作されることはほとんどない。土器作りにも、各種のタブー(禁忌)が関わっていたものと考えられている。
 土器は年代による変化を示すだけでなく、地域差もよく表している。同じ中期後葉の縄文土器であっても、北陸と山陰の土器ではかなりの違いがあります。加賀と能登の土器でさえ差異があり、能登でも南部と北部では微妙に違いが出ることがあります。それは、あたかも方言であるかのようです。土器の年代と地域差は、○○式土器といった土器型式で表され、細かく編年されています。例えば、鹿島郡能登島町佐波遺跡を標式とする「佐波式土器」といえば、加賀・能登の前期初頭の縄文土器を示し、宇ノ気町気屋(けや)遺跡を標式とする「気屋式土器」といえば、後期初頭のものをさします。そして同じ特徴を示す土器が出土する範囲を「土器圏」と言っています。これも大小の圏域が重なり合う関係にあります。
 縄文時代前期前葉から晩期後葉まで、ほぼ連続的にムラが続いている真脇遺跡では、実に20以上の土器型式群に分類されています。ところが、ある土層から出土した同時代の土器を詳しく検討すると、能登から遠く離れた地方の土器が混入していることがあります。たとえば、前期中頃の層から北白川下層式土器が出土しています。これは、当時の能登が近畿地方の文化圏との間に交流関係をもっていたことを暗示します。また、前期後半の地層からは、諸磯b式土器が出土していますが、これは、その頃関東地方の縄文人との接触があったことを示しております。前期末から中期初頭にかけての層は、イルカ骨の堆積層でもありますが、円筒下層式土器や梨久保式土器の出土があり、それぞれ、東北地方や中部高地との縄文人と交流のあったことを示しております。前述の佐波式土器は、貝殻を用いて文様を描く特徴を持つが、この土地とよく似た土器が、島根県松江市西川津遺跡でかなり出土している。これも、海路を利用しての交流があったことを窺わせ興味あるところである。
他地域の土器が存在することは、人の動きがあったことを意味する。縄文人の日常的な行動半径は、10kmほのものであったが、時には必要にせまられ、数百kmも離れた遠隔地へ赴くこともあったようだ。人々を長旅に駆り立てた第一の要因は、原始的な交易であったのだ。縄文人は決して閉鎖的な人々ではなかったのである。