石動山は坊舎360余坊と僧兵衆徒3000人を擁したと云う神仏混合の山岳寺院群であった。 伊須流岐比古神社は五社権現を祀り、別当寺の天平寺を中心に、中世は能登修験道の一大拠点であった。 中能登町二宮にある天日陰比咩神社はかっては伊須流支比古神社下社と称していた。 |
伊須留岐比古神社 石動山の歴史 石動山に石動彦神がまつられ.伊須流岐比古神社が建立されたのは.いまから一千年以上も前のことである。地すべりもあって、山全体が神として畏れ、崇められたものと思われる。その後、鎌倉時代には、虚空蔵菩薩を本地とする大宮権現を中心に、五社権現(大宮・白山宮・梅宮・火宮・剣宮)が山内にまつられるようになった。 石動山の開山は、崇神6年方道仙人とも、養老元年泰澄大師とも伝えられ、鎌倉時代には石動寺、室町時代末期ごろから天平寺ともよばれた。最盛期の中世には、三百六十余りの院坊と、約三千人の衆徒を擁したと伝えられ、絢燗たる堂塔伽藍の有様を古絵図が伝えている。 南北朝時代や、戦国時代末期には幾度となく興亡をくり返したが、江戸時代に入ると加賀藩の保護を得て七十二坊が再興したのち五十八坊となって幕末まで統いた。江戸中期には勅願寺として七ヶ国知識米勧進が認められ、同時に衆徒らは庶民に祈祷や薬を施し、石動山信仰は諸国に広まった。 こうした石動山も、明治元年(1868)に神仏分離合が発せられると、院坊の関係者が次々と山を去り、一山瓦解の運命をたどった。 社頭掲示板 |
伊須留岐比古神社 講堂跡 講堂は、仏法を講じ、法会を行ない、また僧侶の学問・研修の場である。建物の規模は、山内で一番大きなものである。 基壇は、東西約40m、南北約30mで、南正面で約1mの高さをもつ。正面入口部分が、幅14m、奥行約2mにわたって前面に張り出し、石段がつくられている。基壇上には、少なくとも新旧二度建てられたことを示す礎石列が見られる。 現在、露出しているものの多くは、正保4年(1647)に再建された新しい講堂の礎石で、桁行七間、梁行五間に、正面と両側に緑をもつ柱間2.4m(八尺)規模の大堂が建っていた。この堂は、明治初年、大きすぎて買手がつかず、その場で炭に焼かれたと伝えられている。 旧講堂は、天正10年(1582)の兵火で焼失したもので、礎石のほとんどに著しい焼痕がみられる。推定される規模は、桁行七間、梁行五間、四辺に緑をめぐらすもので、柱間が桁行3.6m(十二尺)、梁行3.3m(十一尺)、正面入口4.5m(十五尺)を測る大規模なものである。 再建された江戸期の建物は、この旧礎石を原位置のまま一部再利用しているが、規模は、約二分の一に縮小している。 社頭掲示板 |
伊須留岐比古神社 石川県指定文化財(建造物) 伊須流岐比古神社本殿及び拝殿 昭和42年10月2日指定 本殿 承応2年(1653)、加賀藩主前田利常公の寄進により、大工黒田太右衛門が大御前に建立したものであるが、明治7年現在地に移したものである。 桁行三間・梁行二間・向拝入母屋造り・正面千鳥破風・覆屋軒唐破風の均整のとれた建物である。 拝殿 旧神輿堂であったものを拝殿としたもので、棟札によれば、元禄14年(1701)、大工池上兵助実次・池上亦三郎・小工与四兵衛・与三兵衛により建立された事が知られる。 桁行七間・梁行四間・入母屋造りの平入り建物で飾りの少ない大きな建物である。 この建物の前・左右側に大きな礎石列があり、盛時には、これより一まわり大きな堂舎が存在した事を物語っている。 昭和61年3月 鹿島町教育委員会 社頭掲示板 |
動字石 動字石は、古縁起・新縁起の中で、石動 山という呼名の由来として書かれており、 古くから石動山信仰のシンボルとして崇敬 されている。 また、古絵図には厳重な柵で囲った動字 石が描かれ、能登名跡誌には「此山は、天 より星落ちて石と成、天漢石と号す。今講 堂の前にあり、開山泰澄大師養老二年登山 以前は、石ゆるぎて山震動してあれしに依 り石動山と云り」と記されている。 ちなみに、この石は隕石ではなく安山岩 である。 社頭掲示板 |