9月3日および5日の2回に分けたWEDGE Infinity 掲載記事、東大の佐々木敏教授と科学ジャーナリスト松永和紀先生の対談は、とてもスリリングでためになる記事でした。最近の「食べる点滴・完全食品・白米は食べるな」等の非常に大げさな食情報が蔓延している風潮に流されないように気をつけるべき点を紹介していただき、読み応えがありとても面白くておすすめです。
まあ、甘酒によくつけられる「食べる点滴」というキャッチフレーズは多少医療の知識がある人から見ればお笑いだとも聞きます。なにしろ、医療現場で使われる点滴の多くは、生理食塩水や、生理食塩水にブドウ糖を混ぜた物だからです。点滴を使用する意義は「口から水分や糖分を補給できない場合」や、極度の下痢や熱中症などの理由で「口で飲んだのでは水分補給等が間に合わない場合」への対応なので、「飲む点滴」という言葉自体が「黒い白馬」並みに言語としてどうかしてるし、そもそも点滴それ自体によって風邪などが治る訳ではありません。生理食塩水とは、清潔な水に適切な量の塩分を加えたものです。ブドウ糖とは、パンや米や砂糖を食べると体内でできるあれです。つまり「甘酒は食べる点滴」というキャッチフレーズは「甘酒は塩水や砂糖水とほとんど同じですよ」と暴露しているのに等しいのです。点滴について一部の方々が「病気を治すありがたいもの」と誤解しているのを逆手に取った、非常に恥ずかしいキャッチフレーズと言えるでしょう。
話を元に戻しますが、この2本の記事でタミアがおっと驚いたのは、玄米には白米よりも多量に含まれる「無機ヒ素」の問題です。
「成人では」無機ヒ素が含まれているとしても健康への影響は小さいので(タミア注:子供には玄米のヒ素が有害な可能性があるため、国によっては規制している国もありますが現時点では医学的に断定できませんので読者の皆さん一人一人が慎重に判断してください。)、それだったら、食物繊維が摂取できる玄米の方が白米よりメリットがあるようだが7分づきのお米や麦ご飯という選択肢もあるし、「食物繊維の摂取という観点から見れば、麦の方が食物繊維は多く効率的ですよ。(佐々木先生談)」と。佐々木先生は全粒穀物なども薦めています。
ついつい食育の関係者は「白か黒か(=白米か玄米か。玄という文字には黒の意味もあるからです。)」と議論しがちですが、7分づきのお米や麦ご飯や全粒粉のパンを食べて時々白米を食べるという選択肢もあり得るのです!本当にこの点はついうっかり見過ごしがちで、気がつけば「白か黒か」論争の土俵に引きずり込まれがちですが、同じ土俵には乗らないで、それ以外の選択肢にも目を配るべきだ、とさりげなく佐々木先生は伝えたいのです。いや、恐れ入ります。
この記事を見て思い出したのが、お待たせしました、本日のテーマ「元禄時代以前の日本人はお米を玄米で食べていた、という有名な説が実は誤解」という意外な事実です。「徳川家康は玄米を食べていたと記録に残してますが・・・・」と首をひねる方もいるでしょうが、先に答えを言うと、元禄時代以前と以降では「玄米」という言葉は異なる食品を表しているのです。元禄以降の玄米は、今日の私たちが知っている玄米と同じですが、元禄以前の文献に記されている「玄米」は今日の言葉で言うと七分づき米であり、調理の手間や消化吸収や食べやすさなどの面で玄米とは全く異なる食品なのです。このことを研究で明らかにしたのが、我が国の食文化研究の第一人者、石毛直道先生です。先生は一般の人向けには「食べるお仕事」という著書の16-17頁で解説してくださっているので、良かったらご覧ください。
石毛先生の解説を簡単に説明しましょう。まず、お米は外側に籾殻(もみがら)といわれる茶色(または黄土色に近い黄緑色)のざらざらして食べられない皮が2枚あります。これをむくと薄茶色の玄米が出てきます。薄茶色に見えるのは白米の周りに茶色の「ぬか」の層が薄く取り巻いているからなので、このぬかを取り除くと白米になるという訳です。
元禄時代ごろに中国から「土臼」という道具が入り、この道具のおかげで、お米の外側の籾殻がきれいにパカッと外れるようになり、そうして出てきたほぼ無傷の玄米を「横杵(よこぎね)」または「唐臼(からうす)」という道具で白米に精米して食べるようになりました。
じゃあ、それ以前はどうしていたかというと、「兎の餅つきの絵にあるような(と石毛直道先生は書いています。)」たて杵(たてきね)という道具で、籾殻のついたお米の粒をいきなりぺったんぺったんとついていたのです。こういう素朴な仕組みだったので、当然ながら、籾殻が外れると同時に、玄米のまわりの「ぬか」の層もこすれて半分くらい無くなっていたのです。こうして出来た、ほんのり茶色いお米は、現代の言葉では「半つき米」または「七分づき米」と、ぬかのとれた量に応じて呼ぶのですが、元禄時代以前の人たちは一括して「玄米」と呼んでいたのです。
ですから、徳川家康も卑弥呼も半つき米か七分づき米を食べていたのであり、ゆえに、今日、「家康(または卑弥呼など。)の食事を再現しました」と言って現代風の玄米ご飯の模型を展示している博物館や百科事典は実は全くの勘違いをしているのです。
ぬかの層の表面は水をはじくので、現代の玄米を炊くとふっくら炊くのは難しいし、よくかまないと食べられないし、かむ回数が足りない状態で飲み込むとせっかくの栄養が吸収されずに粒のまま便に排出されてしまうのです。しかし、ぬかの層に傷がついている半つき米や七分づき米なら、水も浸透するし、炊き上がりも良いし、食べやすくて栄養も吸収しやすいのです。石毛先生は研究成果として、今日私たちが玄米と読んでいる食品に関しては「稲作圏で玄米を常食とする民族はない」と結論づけています。
以上、昔の玄米と今の玄米が違う食品であるという事実は多くの方に知ってほしいです。また、玄米にこだわらなくても七分づき米や麦飯やパンなど様々な方法でビタミンや食物繊維を取れますし、時々白米を食べてもいいのではないかというのが、佐々木先生と松永先生のお話です。皆さんもご参考にしてください。
まあ、甘酒によくつけられる「食べる点滴」というキャッチフレーズは多少医療の知識がある人から見ればお笑いだとも聞きます。なにしろ、医療現場で使われる点滴の多くは、生理食塩水や、生理食塩水にブドウ糖を混ぜた物だからです。点滴を使用する意義は「口から水分や糖分を補給できない場合」や、極度の下痢や熱中症などの理由で「口で飲んだのでは水分補給等が間に合わない場合」への対応なので、「飲む点滴」という言葉自体が「黒い白馬」並みに言語としてどうかしてるし、そもそも点滴それ自体によって風邪などが治る訳ではありません。生理食塩水とは、清潔な水に適切な量の塩分を加えたものです。ブドウ糖とは、パンや米や砂糖を食べると体内でできるあれです。つまり「甘酒は食べる点滴」というキャッチフレーズは「甘酒は塩水や砂糖水とほとんど同じですよ」と暴露しているのに等しいのです。点滴について一部の方々が「病気を治すありがたいもの」と誤解しているのを逆手に取った、非常に恥ずかしいキャッチフレーズと言えるでしょう。
話を元に戻しますが、この2本の記事でタミアがおっと驚いたのは、玄米には白米よりも多量に含まれる「無機ヒ素」の問題です。
「成人では」無機ヒ素が含まれているとしても健康への影響は小さいので(タミア注:子供には玄米のヒ素が有害な可能性があるため、国によっては規制している国もありますが現時点では医学的に断定できませんので読者の皆さん一人一人が慎重に判断してください。)、それだったら、食物繊維が摂取できる玄米の方が白米よりメリットがあるようだが7分づきのお米や麦ご飯という選択肢もあるし、「食物繊維の摂取という観点から見れば、麦の方が食物繊維は多く効率的ですよ。(佐々木先生談)」と。佐々木先生は全粒穀物なども薦めています。
ついつい食育の関係者は「白か黒か(=白米か玄米か。玄という文字には黒の意味もあるからです。)」と議論しがちですが、7分づきのお米や麦ご飯や全粒粉のパンを食べて時々白米を食べるという選択肢もあり得るのです!本当にこの点はついうっかり見過ごしがちで、気がつけば「白か黒か」論争の土俵に引きずり込まれがちですが、同じ土俵には乗らないで、それ以外の選択肢にも目を配るべきだ、とさりげなく佐々木先生は伝えたいのです。いや、恐れ入ります。
この記事を見て思い出したのが、お待たせしました、本日のテーマ「元禄時代以前の日本人はお米を玄米で食べていた、という有名な説が実は誤解」という意外な事実です。「徳川家康は玄米を食べていたと記録に残してますが・・・・」と首をひねる方もいるでしょうが、先に答えを言うと、元禄時代以前と以降では「玄米」という言葉は異なる食品を表しているのです。元禄以降の玄米は、今日の私たちが知っている玄米と同じですが、元禄以前の文献に記されている「玄米」は今日の言葉で言うと七分づき米であり、調理の手間や消化吸収や食べやすさなどの面で玄米とは全く異なる食品なのです。このことを研究で明らかにしたのが、我が国の食文化研究の第一人者、石毛直道先生です。先生は一般の人向けには「食べるお仕事」という著書の16-17頁で解説してくださっているので、良かったらご覧ください。
石毛先生の解説を簡単に説明しましょう。まず、お米は外側に籾殻(もみがら)といわれる茶色(または黄土色に近い黄緑色)のざらざらして食べられない皮が2枚あります。これをむくと薄茶色の玄米が出てきます。薄茶色に見えるのは白米の周りに茶色の「ぬか」の層が薄く取り巻いているからなので、このぬかを取り除くと白米になるという訳です。
元禄時代ごろに中国から「土臼」という道具が入り、この道具のおかげで、お米の外側の籾殻がきれいにパカッと外れるようになり、そうして出てきたほぼ無傷の玄米を「横杵(よこぎね)」または「唐臼(からうす)」という道具で白米に精米して食べるようになりました。
じゃあ、それ以前はどうしていたかというと、「兎の餅つきの絵にあるような(と石毛直道先生は書いています。)」たて杵(たてきね)という道具で、籾殻のついたお米の粒をいきなりぺったんぺったんとついていたのです。こういう素朴な仕組みだったので、当然ながら、籾殻が外れると同時に、玄米のまわりの「ぬか」の層もこすれて半分くらい無くなっていたのです。こうして出来た、ほんのり茶色いお米は、現代の言葉では「半つき米」または「七分づき米」と、ぬかのとれた量に応じて呼ぶのですが、元禄時代以前の人たちは一括して「玄米」と呼んでいたのです。
ですから、徳川家康も卑弥呼も半つき米か七分づき米を食べていたのであり、ゆえに、今日、「家康(または卑弥呼など。)の食事を再現しました」と言って現代風の玄米ご飯の模型を展示している博物館や百科事典は実は全くの勘違いをしているのです。
ぬかの層の表面は水をはじくので、現代の玄米を炊くとふっくら炊くのは難しいし、よくかまないと食べられないし、かむ回数が足りない状態で飲み込むとせっかくの栄養が吸収されずに粒のまま便に排出されてしまうのです。しかし、ぬかの層に傷がついている半つき米や七分づき米なら、水も浸透するし、炊き上がりも良いし、食べやすくて栄養も吸収しやすいのです。石毛先生は研究成果として、今日私たちが玄米と読んでいる食品に関しては「稲作圏で玄米を常食とする民族はない」と結論づけています。
以上、昔の玄米と今の玄米が違う食品であるという事実は多くの方に知ってほしいです。また、玄米にこだわらなくても七分づき米や麦飯やパンなど様々な方法でビタミンや食物繊維を取れますし、時々白米を食べてもいいのではないかというのが、佐々木先生と松永先生のお話です。皆さんもご参考にしてください。