ソーシャルメディアで何度も話題になり、そのたびに険悪なやりとりになるテーマがある。「電車や飛行機の中で泣く赤ちゃん」もそのひとつだ。
赤ちゃんの泣き声が大人の癇に障るのは事実である。
そもそも、そうできているのだ。
赤ちゃんは、空腹、不快感、痛みなどを伝えて対処してもらう「言葉」を持たない。生き延びるためには、泣き声で大人の注意をひくしかない。
だが、大人のほうは赤ちゃんの複雑な「言葉」がなかなか理解できない。ベテランの母親でも、空腹なのか、おむつが濡れた不快感なのか、病気なのかよくわからない。とりあえずわかりやすいものから対処しても解決しないことがよくある。
空気圧の変化による耳の痛みや、疾患による不快感があるときには、「あやす」などという小手先の対応では泣き止んでもらえない。赤ちゃんは、問題が解決するまで「気持ちが悪い!なんとかして!」と訴え続ける。
赤ちゃんでなくても、子供の頃にはこういうことがある。私は幼い頃にそういう子だったようだ。昼寝から目覚めたときの不快感で泣いていて、父から「泣くな!」と怒鳴られ、止めようとして止められなくてさらに叱られ、涙としゃっくりが止まらなかったのを今でも覚えている。
多くの母親は、こういった乳児や幼児への対応を1日24時間、週に7日、ランチ休憩もなく、同僚との酒の場の交流もなく続けている。
だから、ときに泣き叫ぶ赤ん坊を抱えたまま「なぜ泣くのかわからない。もう私は限界だ……」と目がうつろになるのである。
飛行機や電車の中で泣いている赤ちゃんを抱えたまま何もせずにいるお母さんがいたら、この限界に達して「目がうつろになっている」状態なのかもしれない。
限界に達したことがある経験者なら容易に想像できることだが、体験していない人には難しいと思う。
赤ちゃんの世話を体験してない人にどう理解してもらうのか
わが夫も、母親に対して直接文句を言わないが、飛行機の中で赤ちゃんが泣いていると「乳児連れでファーストクラスやビジネスクラスに乗らないでほしい。こっちは到着してすぐに仕事があるからフライト中に寝なければならないのに」「乳児や幼児の行いが良くないのは、母親のしつけが悪いからだ」と批判するタイプだった。おまけに「僕たちの娘は、飛行機でもこんなに泣いたり、駄々をこねたりしなかった」と自画自賛するのだ。
これは夫の「大きな誤解」である。
娘が誕生してから2歳半まで、多国籍企業でマネジメントをしていた夫はほとんど自宅にいなかった。たまに家に戻ると「仕事のために僕には睡眠が必要」と私と娘を別室に追いやった。娘が幼いときの飛行機の旅はほぼ私と2人きりだった。そして、生後7ヶ月での初めての家族旅行では、抱っこしていないと娘が泣くので、私は東京からニューヨークまでずっと抱っこしたきりで一睡もできなかったが、夫はかたわらでぐっすりと寝ていた。
夫が「泣いて迷惑をかけている娘」を見たことがないのは、見る機会がなかっただけなのだ。その陰で、私は疲れ果てて「目がうつろ」になっていた。
こういう夫だが、「思いやりがない」わけではない。長年にわたってビジネスで多くの若者に手を貸したり、無償のボランティアで多くの組織を助けたりしている。ただ単に、自分が直接かかわっていないことが「見えていない」だけなのだ。
では、「見えていない」人に、どうやって理解してもらえばいいのか?
疲れ果てて目がうつろになった体験者としては、「赤ちゃんの世話をしたことがないからわからないのよ!」とか「あなただって赤ん坊のときには泣いて迷惑かけたんでしょうが!」と怒鳴りつけたい衝動にかられるものだ。
だが、いきなりこう怒鳴りつけても、たいていはわかってもらえない。自己防衛反応で言い訳をされたり、心を閉ざされてしまったりするだけだ。誰だって、自分に過ちがあることを指摘されたら、多かれ少なかれそういう心境になるものだから。
長年のやりとりでそれが理解できるようになった私は、夫がそういった発言をするたびに、やんわりと「うちの娘もそうだったんだよ。ただ、あなたがその場にいなかっただけで」と、自分の体験や、助けてくれた人のありがたさなどを語るようになった。特に苦境で助けてくれた男性のかっこよさなどを。
その次に、「私も赤ん坊が泣くと、母親体験者として気が気でなくなってしまう。赤ん坊の泣き声にはそういう効果があるから。だから、飛行機で眠りたいときには、すでに良く知っている本のオーディオブックを聴くのよ。物語に注意を払っていると、うっすら聞こえてくる雑音が気にならなくなるし、知っている物語だとそのまま寝ちゃえるし」と自分の対応策を語った。
その結果、夫は旅にノイズキャンセリング機能があるイヤホンを持参するようになった。今では、フライトで眠りたいときには、そのイヤホンをつけて心を静かにさせる波の音を聴くのが習慣になっているという。
騒音を響かせる壊れたドアにどう対応するか
「相手に解決策を求めるのではなく、自分で対応する」という態度は、「泣く赤ちゃん」以外にも応用できる。
先日、カーフェリーに乗ったときのこと。海が荒れていて、私と夫が座った席の近くにあるドアが強風で開いたり閉まったりしていた。本来ならいったん閉まったらロック状態になって開かないはずの重いドアだ。閉まるたびに、「ガチャーン」と金属の大きな音が響く。夫が何度か直そうとしたが、どうやら壊れているようだ。彼は、乗組員に苦情を訴えたが、「ああ、あのドア壊れているんだよ」と軽くいなされただけだった。
夫のイライラがつのってきて爆発寸前なのを感じた私は、静かに「こういうときこそ、あなたが日頃トレーニングしているヨガと瞑想が役立つときよ。私たちが乗っている間にあのドアは直らないし、乗組員も何もしない。そうであれば、私たちの心のほうを変えるしかない」と語った。
すると夫は、「そうだね」とあっさりと態度を変え、ノイズキャンセリング機能つきイヤフォンをつけて席に横たわり、数秒で眠ってしまったのである。
その後さらに風が強くなり、フェリーの客室中の人が音を立てるドアと、ドアに近い席にいる私のほうを見るようになった。
私が「あのドア、壊れているんですよ」と言っても信じない人がけっこういたようで、数人の男性(なぜか女性はゼロ)が、何度か直しにやってきて失敗していた。
多くの人がドアが立てる音にイライラしている間、夫は平和に昼寝を楽しんでいた。
そして私は、オーディオブックで妖精が出てくるファンタジーを楽しんでいた。
壊れたドアもそうだが、泣く赤ちゃんとその母親に対して怒っても、何も解決しない。解決しないことにさらに苛立って怒鳴りつけても、怒りが雪だるま式に膨らんで、自分の人生を暗くするだけだ。何の得もない。
泣く赤ちゃんのお母さんに「あやしてあげましょう」と言える人はすばらしいと思う。お母さんに「大変ですね」と寄り添ってあげるだけでもその場の雰囲気は随分良くなる。そういうことができる人が増えてほしいと心から願う。
でも、全員がそこまでできる必要はないと思う。そのほかの人は、「赤ちゃんは泣くものである。自分には何もできない」と言い聞かせ、瞑想の良い機会だと思ってくれるだけでいい。
そして、せっかくだからこの機会に自分にあった対応策を考えてみよう。誰のためでもなく、自分のために。