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読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

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【読書メモ】『イランのシーア派イスラーム学教科書』2冊。原語を確かめないルシファー系陰謀論は言葉の定義と成立の経緯を無視した嘘 

非常にレベルの高いイランのシーア派イスラーム神学の教科書2冊のメモの前に
教典の言語で教義を学んでいないなら宗教家失格、
原語を確かめない宗教研究、陰謀論は言葉の定義と成立の経緯を無視した空理空論、
教典の原文が読めないうえに誤訳に基づく教義を平然と説くなら宗教家失格、
中核となる概念は必ず原語を確かめないと根本的に誤解してしまうので注意
だと言っておく。
いくつか実例を挙げる。

仏教の苦(ドゥッカ)=不満足。

一切皆苦だと
人生は全て苦と勘違いされかねない。
原文に忠実に訳すと
一切行苦=無明に基づく心の働きは苦
(無明に基づく心の働きが不満足を産む)。

五蘊盛苦だと
心身それ自体が苦しみと勘違いされかねない。
原文に忠実に訳すと
五蘊取苦=心身への囚われが苦
(心身への囚われが不満足の原因)。

苦しみ(不満足)の原因は執着であり
執着を滅することは可能なので
苦しみ(不満足)は滅することができる
=囚われなければ不満足は消える、
というのが仏教の教えであり救いであり希望である。


原語を確かめることの大切さがらみで他に思い浮かぶのが
西方キリスト教=ヤソ教。
ギリシア語ではなく誤訳ありのラテン語訳をスタンダードにしたり、
五大総主教はすべてゴッドの下に平等でないといけないのに教皇制度を創作したりするなど
一神教基本的規則(聖典は原語で読まないとダメ、聖典に根拠がない法制度を作るな)を否定しまくっている。
ローマのカトリックが病んだ原罪教義を創った主な原因の一つは
五大総主教区の重要度ランキングの一位がローマだったがそこから転落したことによる劣等感だろう。
原罪による堕落説、
ピラミッド型支配構造の教会、
政教分離も西方ヤソ思想であり、
正教(ヤソではなく私がキリスト教と定義しているほう)は否定している。
カトリックから分かれたプロテスタントも
聖書第一主義のくせに聖書原典を牧師が読めなくても構わないうえに
歪んだ原罪思想を継承する宗派(カルヴァン派は悪化させた)があるからどうしようもない。

※全てのプロテスタントが原罪肯定だとは断言していない


耶蘇は聖職者が翻訳聖書に基づく説教しても構わないうえに、
原典に書いてない、誤訳を根拠に聖書の教えだと騙る
=教義のでっち上げ
するんだぞ。
何が唯一神の言葉重視だよ。
クルアーンの翻訳書は註釈扱いであり聖典ではないとするイスラームを見習え。
原典を読めない奴が教会で宣教するな、神学者も名乗るな。ゴッドのロゴスを冒涜するな。

例えば
「心の貧しい人は幸いであるとマタイ福音書にあります」と嘘を吐くな。

マタイの福音書5章3節を
心の貧しい人は幸いだと訳すのは完全な間違い。
間違いなく心の問題だと誤解される。
原文に忠実ならと心ではなく、スピリット、プネウマだから霊でないとおかしい。

より近い意味で訳すなら
「(ゴッドの祝福を受けるので)恵まれている、
霊(プネウマ、スピリット)において貧しい人々は。
天の王国は彼らのものだから。」

KJV訳では
Blessed are the poor in spirit, for theirs is the kingdom of heaven.
スピリットにちゃんとなっている。
英訳も翻訳だがこの個所の翻訳は正確なので引用した。


信者でも神学者でもない私に指摘されて恥ずかしくないのか?

延々と語りかねないので読書メモに移る。












イランのシーア派イスラーム学教科書 (世界の教科書シリーズ)
2008/10/27
富田 健次 (翻訳)

本書は十二イマーム・シーア派と道徳に関するイラン政府国定の高校教科書の翻訳であり
高校第一、第二学年度分にあたる。
イスラームで道徳の教科書とは
神学の教科書でもある。
宗教と道徳の授業は一体。
生活=信仰なので当然。
生活と切り離そうとするヤソと一緒にしてはいけない。
一神教なら
生活=信仰
で政教分離なんてありえない
のが基本。

感想は
レベルが高すぎる!
の一言。

道徳に関する授業で論理的思考は大事と書いており
植民地である日本ではひたすら感情論なのと真逆。
神学で重要な認識論も扱う。
形而上のものについて議論するには
人間の認識と経験の限界を定めないと空理空論になるからだ。

暦と教科書の記述を見れば植民地度と独立度を測れる。
イランは独立度が高い。
イランの暦は西暦=キリスト教暦ではない。
CIA王国時代を革命で倒して共和制にした歴史があるから植民支配対策を子供への教育でも実行。
今のイランの統治体制は政教一致の
ヴェラーヤテ・ファギー(フ)
(イスラーム法学者による監督指導)という
お隠れ中の十二代イマームの代理を
イスラーム法学者が務める体制。

メモ
・訳者あとがき

1991年に改訂されたイランの教育制度は
5歳を就学初年度として
9年間の普通課程と
3年間の高等学校
1年間の大学予備課程を基本とする。
義務教育は中学卒業までだがイラン政府は高校進学を強く呼びかけている。
男子校と女子高に分かれており
大学を例外として
男女共学ではない。

この高等学校課程3年間ならびに
大学進学準備コースの1年間、
あわせて4年間を通して
十二イマーム・シーア派のイスラーム学の基礎を学ぶのが
この「イスラームの慧眼」の科目。
このイスラーム学の科目はイラン全国高校共通の必修科目であり
かつ教科書は全国でこの一種類だけ。
訳出した教科書はイランのヒジュラ太陽暦1376年(西暦1997年)発行となっているが
その執筆編纂は本文中に当教科書の執筆時点で1370年(西暦1991年)と記した一文があることにより
1991年になされていたことがわかる。
このシーア派イスラーム学はイラン現体制の公式教義と位置づけることができる。

この書を読まれるとわかるように、
今日のイランの人々が知識として共有する価値観であり
行動規範でもあるが、同時に現代文明、もしくは近代西欧に対する厳しい批判でもある。
こうした近代西欧や現代文明の価値観との相違と反目のなかで
より根源的と思われるのは
西洋中世の知性を代表するスコラ学のトマス・アクィナスにも共通する目的論的自然観を
彼らが基底にもつことであると思われる。
宇宙は神が定めた秩序と目的に向かって動くとする
西洋の中世において支配的であったこの目的論的自然観は
西洋が中世から近代へと転回するとともに機械論的自然観にとって代わられた。

十二イマーム派の宗教の根幹(基本的信仰信条)は
スンナ派とは一部が異なり
①神の唯一性
②預言
③来世・復活
までは両派共通だが
スンナでは
④啓典
⑤天使
⑥定命
からなる六信なのに対して
シーア
④イマーム
⑤神の正義
の五信である。

この差違はギリシャ哲学の影響を受けて理性を重視した
アッバース朝期のムータズィラ神学をアシュアリー神学が駆逐して
このアシュアリー神学がスンナ派の神学となったのに対して
シーア派ではムータズィラ神学の影響を残しているためである。



・教科書本文

イスラームは基本的に強調点として思考の必要性を説いている。
クルアーン(コルアーン)は知識を持たぬことを人間が追い求めないように命じている。
イスラームは知的生活を重視し理性の育成を強調し
思慮と判別の人こそが熟成した人間と見る。
イスラームでは信仰上の諸根幹(神、預言者、最後の審判など基本的信仰箇条)を
思慮することによるのではなく
「模倣や習従」(タグリード)によって受け入れることを認めないほど重要視されている。
イスラームを受け入れるにしても
自らの思考と判別によらず
他人の追随の結果であればその人の入信を許さないほど思慮を重視。
信仰の基礎を受け入れることは強制ではない。

「宗教には無理強いということが禁もつ」
(第二章牝牛256節)

(盲信を否定、論理的思考の重視と反知性主義の否定が12イマーム派。
なら幼少期に正式な入信をさせるな。
棄教したら迫害するんだろ?
成人した元異教徒しか実質守れないな。
惰性と慣習と同調圧力で幼少期に入信しても信仰=善行していると言えるのか?)



・ある民の人々が論理的で正しい思考になれることは、
彼らを害しようともくろむ人に対する最大の防壁である。

・世界観とイデオロギーの集合体をマクタブ(理念)と呼ぶ。


・事実の認識のためにはさまざまな方法がある。
例えば

1 感覚と経験による方法

①直接的な知覚


②間接的な知覚
電流、引力、磁石、原子や電子など。
間接的な知覚は理性による論証のひとつであり
その下地は諸感覚によって用意される。
経験科学の知識の多くはこの方法による。


見えないことは非存在の論拠ではない。


2 理性的な方法
さまざまな事実の一部を知る上で助けとなるもう一つの方法は理性による方法。

間接的な知覚は直接的な諸感覚によって知ったことを基礎に確立される。
(論証の基礎には感覚と経験の側面がある)

しかし理性的な方法では諸感覚はさしたる役割をもたない。

数学は思考と理性的分析によるのみで経験や実験が必要とされない。


3 内面的認識

自分の内部の悲しみや喜び、恐れや疑い、慈しみや憎しみ。
この認識は直接的な認識。
喜びを感じるとき、それを五感や理性の助けによって理解するのではなく
そのような状態を自らの内に直接見いだす。
内面的認識を心の認識とも呼ぶ。


・神を知る方法

神は物質的、肉体的な存在ではないから他の方法で知らなければならない。

①神は間接的な知覚の方法、
感覚と経験で世界の秩序を確認することで知ることができる。
そのあとで理性を利用して、
世界に秩序を与えるもの、
監督者の存在を確定することができる。
ここでは秩序が「徴」であり
これが我々を神の存在〔認識〕へと導く。

②理性的方法も
神の存在を知らせてくれる。
この方法は神を知る方法の中でもっとも完全な方法。
神の存在確認において理性の論拠のひとつは因果証明である。

③内面的な認識でも神を知ることができ、心の認識とも呼ぶ。


・秩序の証明

秩序集合体の出現には最初からひとつの目的があり
その目的に到達するための計画と案を持っている。
特定の状態を選択し、この選択も入念な計算によりなされる。

読み書きができない無知な子供が
タイプライターで数時間遊び、
そのキーを適切に動かして宇宙に関する深遠な問題を論じた
数ページの文章を作ることができるだろうか?
あらゆる秩序は意識を持った監督者をさし示す。

(目的論が正しいことをまず証明してくれ。
こんな秩序だったものが偶然でなされるなどありえず、
意志ある創造主がいるという論法。
しかし、確率ゼロではないので
できるまでずっと放っておいたらできたという反論を否定できない。
あと慈悲深いなどの属性を持つ保証もない。




聖書は一言一句文字通りの意味で真実だとするヤソ福音派は、
ゴッドが時代ごとの価値観の変化すら予想できないと認めているに等しい。
つまりゴッドを過小評価し、被造物の能力を過大評価している。
時代ごとに神学者を配置した意図も無視。
ゴッドは言葉の意味の変遷も当然盛り込んでおっしゃったはず。

万物の根源に人格と意志があるのか疑問。
人格と意志が誕生するための前提=変化が根源。
最初からゴッドが神(じん)格などを具えている状態で存在し、
そこからすべてが始まったという仮説もあるが、
それも時間と因果関係が前提されている。
前述のとおり思考不可で語りえぬので沈黙=無記のほかない。

菊池@kikuchi_8
2月10日
ゴッドの如き人格的統一体が世界を創造し維持していると言うなら、
その人格的統一体を維持しているものは何なのか?となります。
「ゴッドはそれ自体で維持されている」と言うなら、
何故世界にも同じ事が言えないのか?となります。
「時間を創造した」は「創造」自体が時間的過程なので論理矛盾ですね。


祝福されし未完成ブラスト/ダームGoblin Tactician
‏ @kitsuchitsuchi2月10日
有(ゴッド)による有の創造。
無からの創造の無とは何?
空の容器を想定するしかなく
容器=有
すらない完全な無を考えるのは不可能では?
同様に有しかない状態を考えることも不可能では?
無のみも有のみ環境もないのでは?
竜樹の縁起説なら有無は相互依存でしか実在できず
有だけや無だけはない。

空間=被造物としての世界
を空間の外から創ることも想定不可。
空間が創られる前の状態も想像不可。
基準=物差し
が世界に一本しかないのにその物差しの長さは計れない。
同様に
或る時点で時間の外から時間が創造されることも想定不可。
時間的性質=状態変化を意味する言葉は時間に適用できない。

菊池 @kikuchi_82月10日
仰る通りだと思います。
「創造」という概念そのものに
「創造の開始・創造の持続・創造の終了」という時間的過程が内包されてるので
「超時間的な創造」とはそれ自体が論理矛盾だと思います。
無時間的であるなら一連の時間的変化である「創造」という作用(作用一般=時間的変化)を為す事ができません。


祝福されし未完成ブラスト/ダームGoblin Tactician
@kitsuchitsuchi2月10日
全知全能Xの実在の典型的根拠
「世界があまりに精巧だから創造主がいないのは確率的にありえない」
は根拠になっていない。
誕生確率を100%にする神(じん)為的干渉がなくても
諸行無常の変化で成立まで放置と考えれば低確率という根拠は無効。
できたからできた。偶然とも必然とも言える。因果が逆。

既にできてしまった後から理由を考えるからゴッドの意志を想定してしまうだけ。
発生確率=0%
ではなく「>0%(0%より大きい)」なので
『できるまで現象が継続=試行回数が「できるまでずっと」』
なら実質100%。
これを奇跡的な確率だとしてゴッドの実在に結びつけるのは論点先取の詭弁、因果逆転。



・ここでは進化論の正誤を論じるつもりはない。
秩序の論証・論拠は生物が進化論に基づき次第に出現したことが確定されれば
問題になるようなものではない。

存在するものが段階的に創造されたことを受け入れることは
意識をもった監督者の介在をより明白にする。

(進化論は秩序の論証に問題を生じさせない。
つまり、進化論は創造主の存在を否定しないので正しくても誤りでも問題ないということ。
十二イマーム派の公式見解では進化論を否定も肯定もしていない。
キリスト教の一部の派閥が進化論を否定する理由も調べると面白い。
進化論が正しくても別にゴッドによる世界創造は否定されないはずなのだが。
進化の定義によるが。
進化=環境適応による変化なら生物としては当たり前だし)


・ヘジャーブの思想

イスラームの服装を二つの基本的な型である
隠すこと
質素であること
を守ることは重要な結果をもたらす。
一部を次に示す。

①道徳的堕落の阻止
女性の側が遵守することは
男性たちにとって願望や欲望の制御をたやすくし堕落させない原因となる。
男たちが堕落に引き込まれる社会では
女性たちも堕落から遠ざかることができない。


②女性たちの安全

③女性低劣化の阻止

女性がおめかしと見栄を他人である男性たちに見せびらかすとき
彼女たちは低劣で価値のない存在に変わる。

もし女性たちが隠すこと、尊厳を守ること、質素であることを守りながら
その言動やその他の行いにおいて
自らを男性たちの願望の手から遠くに置くならば
女性たちの価値と尊厳は男性の観点において増大する。

ホメイニー師はファトヴァーで
女性たちは近親者以外の男性の気をひく服を着るのを控えるべきであり
チャドルをかぶることが望ましいと説明している。
同様に彼は顔と手は、必要のない限りおめかししないことを強調している。

④浴情に駆られることの代わりとしての活動と建設
職場環境を情欲問題から守る効果的な要因のひとつである。

⑤女性に対する人間的な見方
女性の人間的な地位の代わりに
女性の表面的な見せかけを価値指標としない
(女性の人間としての地位が表面的な魅力の影響を受けない)ことが、
女性が身体を隠すことがもたらすもっとも大事なことである。



はたしてヘジャーブは女性の自由に反するのか?

個人の自由は個人の権利を脅かさず、また
社会という体に害をもたらさない限りにおいて、尊重される。
したがって、社会的公益のほんの一部を遵守することが女性や男性に制約をもたらすとしても
また、社会的道徳と精神的均衡を消滅させないために、
特定の作法様式を守って付き合わねばならないとしても
これを自由の原則に反するとみなすことはできない。
ヘジャーブの境界を無視することは
恐ろしき社会的結果をもたらす。
逆に身体を隠す原則を守ることは
社会における腐敗との闘いの基本の一つである。
今日、先進国の多くを滅亡と罪の淵に立たせている腐敗である。
個人の自由を口実にして服装の境界を踏みにじり
家族の礎の破壊に向けて歩を進めることはできない。


(西欧諸国が植民地化するために現地の女性をファッション、化粧のための消費をさせまくる
というものがあるのでそれを非常に警戒している。
まず女性を狙うのが支配の鉄則。
ヘジャーブを脱ぎたくない理由の一つが
ヘジャーブで隠しているところが恥ずかしい隠すべきところだというものがある。
セクハラや女性の権利や自由や
価値観の押し付けはダメだといことについてやたら言い立てる西欧諸国が
イスラーム圏の恥部観を完全に無視し、
キリスト教的価値観を押し付けていることから、
単に思想で侵略したいだけだとわかる。)



・友愛と友人選び

まず試してから信を置く
事前の試しがない友人関係は通常は長く続かず些細なことで別れる。
イスラームの教えでは
道を共にする者を誰でもたやすくは信頼せず
まず試し、友情に値することが確認されれば、
友人として選ぶできであると勧める。
もちろん、これは他人への不信を勧めているわけではない。
しかし、人を疑わないことがその人を信頼することではない。
イマーム・アリーは次のように言う
「正しい試験のあとに友人を選ぶ人の
友情は永く続き、その絆は確固としている」と。

他の多くの伝承にも次のようにある。
「もし、誰かがあなたに3回怒ったとしても
あなたを悪く言わなければ、その人は友人にふさわしい」と。

友人を選ぶ基準

①賢明さ
②清廉潔白
③称賛される道徳


友情の諸義務

①友人たちの諸権利を守る

②援助
真の友人たちは困難で厳しい状況にあるときに相互に助け合う。

③期待しない
④誠実さ


(日本の道徳の授業がいかにカスかわかる。
そもそも道徳じゃなくて答えの押し付けだし。
信頼できるか疑い、試して確認してから友人にするか決めよという素晴らしいイスラームの教え。
日本の道徳の教科書は子供が触れるゲーム漫画アニメ音楽とかだからな)



・礼拝が終わったあと次のことが勧められる。
34回、神は偉大なり(アッラーホ・アクバル)を唱え
33回、ありがたきかな(アルハムドレッラー)を唱え
33回、神に讃えあれ(ソブハーノッラー)を唱えることである
(ザフラーの神の讃え)。

(足すと100。33意識)


・金曜礼拝
金曜日はイスラームで特別な日であり
聖なるその前夜(シャベ・ジョムエ)が特別な夜であるのは誰にとっても同じ。

・クルアーンでは
地をラクダにたとえる。
地動説。

クルアーンで
神は「二つの東
(井筒訳では夏と冬の日の出の場所と訳注がある)」
と「二つの西」
を用いるとあり
これは地が球形である以外に説明が不可能である。
クルアーンには
「日の出るところ、日の沈むところ
(複数形の諸東、諸西)」
とあり、複数の東西は地が球形であることの結果である。

(天動説も地球平面説も否定。
イスラームは地動説かつ地球球形説)

クルアーンはいくつかの個所で
諸天空は目に見えない諸柱によって支えられているとしている。
イマームは「諸柱があるが、あなたたちには見えない」と言う。
ここで言えることは
今日の諸科学が引力と呼び、
また天球を軌道に保ち
秩序を守る要因とみなしているものは
この節とイマームの解釈から示唆を得ることができる。

(イスラームは科学を敵視しない)

・イマームお隠れの時代にあって
信仰共同体(ウンマ)の手綱取りは
守護法学者(ヴァリーイェ・ファギー)の任務であり
こういった人のヴェラーヤト(守護監督)は
無謬なるイマームたちのヴェラーヤトの枠内。

・イジュテハード
=イスラーム諸法を、その法源の上で
特定の考察基準に基づき努力すること。

法学の諸法源
=聖典、
スンナ(慣行)、
イジュマー(合意、一致した見解)、
理性(アグル)。

イジュマーはときとしてクルアーンやスンナの傍らで
イスラーム法(シャリーア)の指示(ホクム)を確定する証書とみなされる。


・バルザフ(死去と復活審判の間)
義務行為(ヴァージェブ)
推奨行為(モスタハッブ)
忌避行為(マクルーフ)
禁止行為(ハラーム)


(本書ではラマザーン月の規定の翻訳も載っている。
シーア兄貴が訳してツイッターで公開しているやつとおそらく原文が同じ。

本記事へのシーア兄貴のツイート追加。

蟹ぢから溢れる
🦀
💪
‏ @onesyotasekai
いやーね
久しぶりにドブネズミ世界に行ってきたけど、
オリエンタルランドというのはどでかい資金洗浄の場だなと言うのが感想
よーは無いものに信用創造と空想を与えて暴利をとって
その暴利を洗う場所というのが著作権・やりがい商法なのだと痛烈に感じた

で、それに集まる連中は簡単に宣伝に喰われてしまう人達なんだろうと思う
よーは宣伝の賜物であって、
情報商材の先駆けとその蓄積は此処まで動員する事が出来るのかと驚愕もした
別にクソでしかない原価信仰者ではなくて素直な感想として空想なる価値を上げるとこうなるという一結果でありゅね

うーんとね
富田先生は聖知学者ではないから
そういった部分は補填出来ないのでこういうところはおいさんみたいなおねショタおいさんが補填する事になるんだろうね
先ずعقاید 信条論としては 一部ではなくかなりの違いがある
それはأمام イマーム「 正統で正当な現世統治者の存在」である

で、スンナとシーアの伝承並びにدعا ドアー というもの…
日本語で言えばお祈りになるのだけど…場合によっては呪詛となる
例えば、دعا زیارت عاشورا (現世統治者である、フセイン(預言者の孫)の殉教)となるとسلام و لعن を共に百回言う
で、لعن は 呪詛で سلام は 祝詞である
まー内容がすごい


あーちと間違えた、殺し尽くすではなく
イマーム・フセインを殺した全ての人々を呪い続けると言った方が正しかった、済まない

また、イマームを経由した言葉は伝承・ハディースとなるので
シーア派の場合はイマームが存在した、隠れていない分が伝承として扱われるのでスンナ派よりも遙な数の伝承がある
なので、その分信条論が整備され、精微となるので前も言ったように信条論として七割は異なるというのが体感である

で、前に言った通り成人規定があるので宗教的成人規定により信仰が確立される
ここで注意して欲しいのは「信仰は生活である」という事
棄教するというのは「生活をやめる」という事であって、
それは壁にうんこ塗りたくるような段階で発狂したという事と同意義である、
または制限能力者かである

またبقرة 章はマディーナ啓示であり、この無理は禁物であるというのは誰に対してかである
で、256節には続きがある
「真に至福の道は迷誤とは区別されている。
それで邪神を拒み、アッラーを信仰する人は、決して壊れる事のないとってを握ったのである。
アッラーはよく聞き、よくご存知でおられる」

つまり、宗教に強制はない(イブラヒーム澤田訳)と否定されながら、
その後にقَدَ 実に・真にが続いているのは宗教内(イスラーム内)での至福と迷誤の道がないという議論であり、
その外であるبالطاغوت 邪神崇拝については最初から誤りであるというところから始まっているのである事を見落としてはならない

でね…コレはマディーナ啓示であるという事は
根本的に信心深い人達المؤمنين を前提しているわけでその人達やその子孫が一つの概念として棄教するのはありえない
なぜなら、彼らはشهادت した わけで
その 人達は道徳的であり、末裔にもそうあるであろうという性善説的に解釈するとそーいう判断になる

で、じゃー現実問題として棄教した人間がいるではないか?という話になるけど
考えてみ…世界は終わる時が来るという前提ではムスリム・マはそうであったか、居なかったかで裁量されるわけなんよ
だから、彼ら・彼女らはキチガイとして免罪されるのか、棄教として扱われるかは人間が知るよしがないのよ

ただ、目的論に関してはわからないがそうと仮定されている以上はわからない
形而上を前提にすると目的・帰結的世界論へとならざるおえないのでコレばかりはそういう前提下の世界観でしかないとしか言いようがない
言い方を変えれば日本の聖知学徒が苦悩している部分の全てといっても過言ではない

あーコレは中田先生とも話したのだけど、حجاب というのは本来男がするものであって女性がするものではないの
だから、今回オリエンタルランドへ行ったけど…
ホーンとうに目のやり場がなくて困った…
もうね、アッチコッチ見てもあーنگاه گناه があるので焦点を合わせないようにしたり、苦痛だった

んでね、فاطمه زهرا سلام الله については ابو بكر لعنت الله が 焼き殺して、
啓示者の遺産の土地を盗んだせいで
焼き殺し派はクルアーンの解釈を歪めて伝承を無理矢理選択せねばならなかったというご都合主義がある
まーシーア派からすれば、預言者の聖家族を虐げる時点で論外・邪教徒なんだけどね

これでわかるけど、
イスラームは棄教した連中でも必ず帰って来る・こざるおえないという観点があるので
ここらへんは口に出さなきゃいいやという部分があるが
背教や間違ったとされる宗教思想については厳しい
まーでも、焼き殺し派に関しては一切弁解しようがないとおいさん達は考えている

まーこー、一時間徒然と書いたけど、本来はコレで銭こ取れる話なんよ
でも、おいさんはしないよー
だって、食い扶持くらいは働いて稼ぐものだし、そーいう事をするのは嫌だしね
それよりも世界が1毛でも早くおねしょたで満たされる事を祈ってもらいたいね

おねショタはتوحید و عدل و نبوت و امامت و قیامت なので
千の 形而上が持つ良い性質の一つであることは確定しているので
おねしょたでせかいが満ちる事は人類のواخبوات なので仕方が無いのです


黒 点
‏ @kokuten_
2014年10月17日
「イスラームにおける放縦の阻止」
イスラームは諸々の欲望に対し境界を定める。性欲についても境界を定める。性的欲望を満たすことは、ただ結婚によってのみ許される。結婚できる可能性がない場合は、信仰に依拠して自己を制御すべきであり、自己の純潔は一時の興奮・逸脱で失うべきものではない。

『イランのシーア派イスラーム学教科書』富田健次訳 第10講より)




イランのシーア派イスラーム学教科書 II―イラン高校国定宗教教科書【3,4年次版】
― (世界の教科書シリーズ 36)
2012/7/27
富田 健次 (著, 翻訳)


高校3~4相当らしい。

・訳者あとがき

今日の教科書は模様替えをしている。
一説では2001年に版替え。
但し2003年時点はなお当該教科書を使用。

本教科書は神の慣行や運命などの考えにおいて
宿命ではなく自由意志の重要性を強調する。
原子論的宇宙観ではなく新プラトン主義的な流出論的宇宙観や因果律の容認など
スンナ派の古典的神学(アシュアリー神学)との対比を促す
シーア派イスラーム思想の特徴を見ることができ興味深い。

(流出
って言っているし)

・ホメイニー師の思想における10の論題
(の一部を抜粋。)

9.女性の人格と役割

指導者(エマーム)ホメイニーは社会の救済と向上は唯一、
女性たちと男性たちが生活のあらゆる場面でともに参画し
効果的に関わることによってのみ、
可能であると強調した。

気高きクルアーンは人間を作るが女性たちもまた人間を作る。
女性たちの義務は人間作りである。
もしも諸民から人間作りの女性たちを奪えば、
その民は敗北と衰退にさらされ敗北しよう。堕落しよう。

イスラームが定めているヘジャーブは
あなたたちの価値を守るためであることに注意を払われよ。


・バルザフ界(現世と来世の間)における生活

狭間(バルザフ)の世界
=死去するとき魂(ルーフ)が入る、
 現世と来世の間を分かつ境界。

人間は死の瞬間から復活の日(最後の審判の日)までをここで過ごし、
ここでの楽しみを享受、あるいは
不運な人の場合は辛酸を舐める。
復活(ギヤーマト)以前の死後の生活がある。

バルザフは物質的側面を持たない。

忘れてはならぬのは人間の帳簿が死去時に完全に閉じられるのではなく
書き換え可能なこと。
人間の行動には二種類ある。

影響が良きしろ悪しきにしろ一定の制限の内にあり
一定時間と空間の域を越えることはない


なしたときだけでなく将来にも影響が残る
つまり結果は良悪問わず制限ある時空の域を越えて広がる。
影響はきわめて長い時間、時には世の終わりまで続く。

(真に公平に最後の審判を行うには
最後の審判がなされるまでの影響全ても考慮しないといけないから
実に合理的)


・「復活・最後の審判」(ギヤーマト)が近づくと
太陽はぐるぐる巻きにされ星々は落ち、
山々は羊毛のように毟られ粉々となり、塵芥となってまき散らされる。

神の命令により
すべての人々は土塊の粒子のうちから出て
最後の審判の日に集合する場においてあまりに大きく恐怖に満ちた出来事を見る。

魂のみでなく肉体も復活する。
来世は肉体的である。

・性的本能に関するイスラームの見解と対策

1 結婚

2 貞節
イ)視線制御
特に男性にとっては目を警護する。

ロ)有益で建設的な諸活動を行う
学術、芸術、技術、体育、勉学など有益な活動を行う。

3 逸脱への素地を減らす
身を覆う必要性。


ヘジャーブはなぜ婦人だけなのか?
神は男女を同一同様に創造してはおらず
二つの被造物に精神や心理の点から差異が生じている。

男女の禁制遵守による効果

女性の価値を高める


安全さと平穏さの創出


社会の堅固さ
女性たちがその能力をおしゃれと流行〔を追いかけること〕に費やす代わりに、
質素な服を着て、
イスラーム的服装で学校や大学や職場に赴くならばよりたやすくその能力を
活動に振り向けることができ、
進歩の度を勧めることができる。

化粧品や高価な衣服への支出は
とくに流行の期間的変動とともに
耐えがたき経済負担を家計に課して
ときとして家族の不和の原因となる。
それに加えて
こうした破壊的競争に参加する気がなく
あるいは参加できない女性たちは軽蔑される。
実際には、自分の利益だけしか考えていない流行の作り手や
従事者たちに自分と自らの運命や人格を委ねている者たちに
この軽蔑は属するものであるにもかかわらず、である。

(すごいな。
流行を作る側こそ軽蔑されるべきだと言っている)


家族の絆の堅固さ


植民地化の影響との闘い

西洋の植民地主義は
男女関係に禁制(とくにヘジャーブ)があることが
恥ずべき彼らの目的の前途に横たわる障害であるとみなし、これと戦った。

〔パフラヴィー朝第一代国王レザー・シャーとなる〕
レザー・ハーンが英国を介してイランを支配したとき、
改革(!)という語彙のもとで最初にとった施策は
自分を英国植民地主義の代理人として、
ヘジャーブの廃止を宣言し
植民地主義の利益に立ち向かうもっとも堅固な防塞としての
ヘジャーブを取り除いたことである。

(シーア派概説書に国王時代はCIA傀儡政権だとあるので、
英米の植民地だったとわかる。
最初にヘジャーブ廃止を植民地支配のとっかかりにしていることが重要。
女性の服装からまず都合よく変えて支配せよ!
だからヘジャーブ廃止に対してイスラーム系支配層は強く反対する)

トルコでは
アタチュルクが異邦人の手先であり同じ政策を進めた。

(アタチュルクはメイソンだし、
トルコの文字はアルファベットにしたし
EUに入るか否か問題があるし
欧米によるイスラーム侵略の拠点なのがトルコ。
イランにとってはトルコ建国の父は異邦人の手先)


アルジェリアでもフランスが同じ方法をとった。

(ヘジャーブ廃止せよ運動
=欧米の植民地化の第一段階達成のための運動)




・イスラーム諸法令(アフカーム)

戦争捕虜に対する罵りは許されず
彼らに対するイスラーム的道徳を守らねばならない。

イスラームはキサース(同害報復)論で固有の法規をもつ。
不当に生命的被害をこうむった人かその相続人に
同じ被害の刑を犯人に対して下す許可が与えられうる。
こうした刑罰は多くの西洋人たちからすれば驚きで多くは粗野とみなす。
しかし、
イスラームは人間をいとおしみ敬うべきものとみなすために、
犯人が他人たちに害を加える意向を持ったとき、
彼自身にも同じことがなされるとするように法規は作られている。
こうした刑法は犯人が罪業を念頭からぬぐい去る因となり
人間の寛容さと特性に関する最良にして最強の保護であるのは明らか。

驚くべきことは西洋人たちが窃盗の手を切断することや
キヤースの諸令(アフカーム)を粗野で残虐とみなしているが
彼らがもっとも残虐な犯罪を世界の非抑圧者たちや虐げられし者たちの権利に
対して行っていることである。
彼らが一日にて行う無辜の民の殺戮は、
数十年のあいだイスラームの地全体で必要となるキサースよりも多い。
にもかかわらず彼らは自らを人権の擁護者であるとし
イスラーム諸法規は非人間的であるとみなしている。

(NATOによるイスラーム圏への爆撃とかね)


・諸刑罰


ハッド刑〔固定刑〕
刑罰の量が明確に定まった法。
飲酒に対する刑罰は男女ともに70回の鞭打ち


タアズィール刑
量と形が定まっていない刑罰。


キサース


ディヤート(近親者を殺害された慰謝料)

胎児を意図的に流産させるのは
魂が生じた胎児は全額賠償金(殺害)を
それ以前の段階もそれぞれ段階固有の賠償金がある。

(魂が生じる段階っていつごろだろうか)


・幸福を手にする諸々の道は
人間がどこから来て、どこに行き、
いかなる基本的特性を持つかということを知ることにほかならない。
このために人間を知ることはあらゆる問題に優先される。


・人間のルーフ(魂)は生来特別な才能を持つのか
それとも白板のように特別な要求は持たず
その上に描かれるいかなる図絵も人間の要求無く描かれるのか
という問題がある。

(白板はおそらくロックが元ネタだろうね)

人間と動物の差異は
1 意識と選択
2 価値に立脚する


人には二つの傾向性がある。
1 動物と共通の本能もしくは動物的諸傾向

2 人間に固有な優れた傾向
で「天性(フェトラト)」として説明される。
この傾向は誕生当初、潜在的な状態にある(本能的諸願望とは逆)。
人間の天性(フェトラト)は当初、種子であって、
人間存在の土の中に蒔かれていて、
正しい訓育でもって開花し優れた属性と人間性を結実させる。
誤った訓育で、
潜在態が有していることに至らなければ
変形させられた存在物となる。

能力や才能をもつが具現されていない段階にある物事は
潜在態(ビル・クーワ)と呼ばれ
上記の才能が具現されるならば
現実態(ビル・フィウル)と呼ばれる。
リンゴの種はリンゴの木の潜在態(ビル・クーワ)であり
木となったあとはリンゴの木の現実態(ビル・フィウル)である。


さてここで、この講義の最初に提示した問いに答えることができる。
すなわち、人間は何も描かれていない白板のように、
いかなる絵図であろうと受け入れるのではなく
人間の魂(ルーフ)と命は、
生まれた当初から要求をもつこと、
つまり潜在的な傾向と牽引力をもっていて
人間を特定の活動に向けて駆り、
またこの活動のみが人間の魂的(ルーヒー)構造に釣りあう、ということである。


(目的論的人間観。
潜在態とか現実態とかアリストテレス哲学の影響がある)



天性の諸側面

1 真実の追及

2 善への傾向
ここでの善=道徳的卓越性。

(アレテーじゃん)


3 美の愛好
4 崇める傾向性
人間の魂は「神の国」(マルクート)の炎であり
それからの光はみな、人間存在を暖め明るくする。

(魔術カバラのマルクト(王国)を思い出した)


理性(アグル)と自己(ナフス)との闘い
高い傾き(天性)と卑しい傾き(諸本能)の戦い。

「感覚的欲望」(ハヴァーイェ・ナフス)

なおナフスには霊魂という意味と
自己、エゴという意味があるが今回は後者の意味にとった。


創造(タクヴィーン)と立法(タシュリー)の間に完全なる調和と一致がある。


・自由意志(イフティヤール)
人の魂の特徴の一つに自由意志があること明白で自明。


・並列関係の諸原因
=一群の諸要素が互いに傍らにあって
相互の連携で現象をもたらす。

花を育てる場合は庭番、土、水、光や温度といった複数要素の集合が連携しているので
並列関係。

(要は縁起的ネットワークによる成立)


直列関係の諸原因
=第一要素が他の要素に作用し
この第二要素の媒介で第一要素の作用を結果に至らせる。

兵士と司令官の関係は直列関係。

筆を手にして手紙を書く場合も
諸要素が
1 その動きで紙面に文章を書く筆
2 筆を動かす手
3 手を動かす身体の神経系
4 この三つの原因の前提となるあなたの意志
5 意志をもたらすあなたの魂もしくは欲求(ナフス)
なので直列関係。

直列といっても一列ではなくお互いに多様な段階にて存在する。

(こういった議論が続くが要は以下を導くため)

神の天命を信じることはけっして人間の自由意志を否定しない。
神の天命につながりそれを示すものの一つが人間の自由意志である。
人間が自由意志をもつ存在であり自由であることは神の天命に責任がある。
自由意志による行為では意志しないなら、なされない。
いわば原因が完全とならない。
しかし同時に我々と我らの意志、
また我らから生じる行いはすべて神の意志に従属している。
その関係は自然の諸関係のように並列関係ではない。
人間の意志は神の意志と直列関係にあって
人間の自由意志的行為は、
一方において人間自身に帰属するが、
他方においては、より高い水準において
神の意志と関わる。


・存在物の諸階梯

被造物のうちには
哲学用語で
「抽象観念(モジャッラド)
あるいは
非物質的実体
〔天使、質量なき形相である離在知性〕」
と呼ぶ存在がある。
この存在は物質的諸条件をもたず変化変容をしない。

存在の間には階梯があり上下がある。
それぞれは創造されたその階梯の位置に留まり、変化変容はしない。
神は尽きることなき慈愛により創造しており
一つ一つはより低い存在へと向かう存在の恵み流出の媒介となる。

(新プラトン主義の影響だろう)


抽象観念界の次は物質界に至る。
神が物質界で創ったもっとも完全なる存在が人間。
一部の人間は獣よりもさらに卑しく、
一部は天使よりも上位の階梯に達して
天使たちが跪くに価するふさわしさを見いだす。


(一神教は人間は特別すごいというのが基本。
多神教も人間すごいだが他の全動物よりはるかに勝るとまでは言わない)

・クルアーンよりわかるのは
ジンも人間のように自由意志をもち責任をもつ。
ジン創造の根元は火であり
人間のように肉体と魂を持つ。
ジンたちも信者と不信仰者、従順な者と罪を犯す者がいる。
イブリースもジンであったが神に背いている。
人間は総じてジンより高貴であるため
ジンたちからは預言者が選ばれておらず
ジンたちが人間の預言者たちに従う責務を持つ。



神は人間に自由意志を与え
人間をして岐路に立たせ
己の選択でもって神を崇める道を
つまり人間の幸福の道を選び
そのおかげで聖なる慈愛を手にして幸福にいたる。
いかなる種類の慈愛も神への近しさにあるため
クルアーンに基づけば
人間を創った最終的な目的ならびに究極の完成は
神へのちかしさ
もしくは
神への近接である。

(これ正教の人間神化(テオーシス)
=人は神に近づいていくが神にはなれない
の影響がある?)


神が何ゆえ最初から人間に完全さを授けないのかと問うかもしれない。
真実(ハギーガト)は次の通り。
この問いは
いかなる存在物にも最初からいかようにでも完全さを与えることができる
という皮相な考えから出る。
この考えでは人間を虚ろな器とみなしており
漸次その器を水で満たすこともできれば
一挙にあふれさせることもできると見ている。

神の全き慈愛を得るには特別な器量あるいは能力が必要。
この能力あるは器量は自由意志と意識的かつ絶え間なき選択のもとでのみ獲得しうる類のものである。

(なんの努力も実績もなしに完全さは与えないということ)


・道徳諸原則は相対的ではなく絶対的である。

ある行いがある人に対して有徳であり完全さであるならば
すべての人たちにも有徳で完全さとみなされる
人間の完全さとは神に近づく方向において
天性的諸才能が開花することを言うからである。

(一神教系思想は絶対善を認めないと教義が成立しない。
道徳に関しては一神教は本当に根拠が楽。

神定法の一つが現代の過半数の人間が悪と判断するものだとする。
これが絶対善法でありうるか?
最後の審判では個人がなしたことの、最後の審判開始時までの影響まで考慮することを
踏まえると、その法の善悪はその法が適用されなくなった時点で判断すべきとなる。
しかしそのような判断は人間には不可能。
結局、人間には
「絶対善法であるが、今の時代は悪だと人間が愚かにも判断しているにすぎない」
かどうかは判断できない。
人間には絶対善かも絶対悪かも判断することが寿命と認識の限界がある以上できない。
結局、現代の価値基準で判断するしかない。
後世への影響も考えることはできるが正確な予測はできないだろう。
短期的には悪「と現代の価値観で判断されるが」、
長期的には善「なる結果をもたらすだろう」
から全体としては善「だろう」
が限界かな)


・男性と女性は平等だが同類ではない。
イスラームのクルアーンでは
アダムに言及するが
悪魔がイブを騙し、イブがアダムを騙すとは一切述べていない。
クルアーンでは当時普及し、
今日も残っている見解のひとつと厳しく戦い、
女性を誘惑と罪の元凶として難じることから無罪放免した。

(明らかに新約を根拠とする女性蔑視思想批判)

聖なるつながりをもつ偉大な男性の近辺には
常に神と聖なるつながりを持つ一人の偉大な女性がいたと
クルアーンにある。

※メモ自体はここまで


(イスラームの女性蔑視(に見える)要素はヤソ(パウロ教)に比べるとそこまで目立たない印象。
イスラーム圏は
外面=公共空間では男尊女卑に見えるが
内面=家庭空間では女尊男卑に見えるので蔑視といえるか断定できない。
役割を分けただけとも解釈できる。

ヤソの女性蔑視は酷い。
新ヤソの女神教の一派であろうフェミはその反動(人工芝、両建)。
耶蘇の女性蔑視は女神教の否定。
特に敵視していた女神はアルテミス。
新約の使徒行伝19章で
アルテミス教のエフェソス(現トルコ西部)で
「大いなるかな、エフェソス人のアルテミス」と叫ぶ群衆に
パウロが布教を妨害されたとある。

新ヤソが女神重視である理由の一つが
アルテミス=ディアナ崇拝は旧ヤソを否定することになるから。

丸い誕生日ケーキの普及で
現在世界最強の女神はアルテミス。
白い丸い満月ケーキにローソクを刺し
火を灯し
お祝いの歌を詠唱し
火を吹き消す魔術の儀式。
元ネタでは直接生贄に火をつけていたのだろう。
本人が無自覚でも儀式の効果は多少はある。
https://twitter.com/kitsuchitsuchi/status/737359555198222336



ビッチ=雌犬はアルテミス=ディアナを意味する褒め言葉だった。
新約教はアルテミスが大嫌いなので悪い意味に変えられた。

ルシファーの元ネタが
ルキフェラ=ディアナ=アルテミス
というねこた説。
太陽と契約と友愛の神ミトラ=太陽の男神崇拝のヤソが
月の女神ルキフェラを敵視するのは当然。

ルシファー=金星は囮。
ルシファーは4世紀のヒエロニムスのラテン語訳聖書で誕生したキリスト教製。
新約の原語は古代ギリシャ語で黙示録の成立は1世紀なので
イエスが明けの明星と名乗っても
4世紀生まれの訳語ルシファーと無関係。
ルシファー=イエス説は同祖論流の成立年代無視の嘘。

ルシファーは新約の原語である古代ギリシャ語に一切登場しない。
言葉の定義と成立の経緯を無視する陰謀論者=無自覚含め工作員がよくやる徒労(デマ)の一つ。
原語を確かめない陰謀論は嘘の塊。
ヘブライ語原典でルシファーとラテン語訳された個所は
ヘレル・ベン・サハル(シャハル)
Helel ben Shaḥar, "day-star, son of the morning"。
英語版ウィキLucifer
https://en.wikipedia.org/wiki/Lucifer
では
天体かは原文で断定できない
ユダヤ・キリスト教の注釈ではバビロンの王ネブカドネザル2世と解釈されているとある。
つまりユダヤ教では悪人であり金星でも天使でも悪魔でもない。

イザヤ書第14章
”…バビロンの王をののしって言う、「あの、しえたげる者は全く絶えてしまった。あの、おごる者は全く絶えてしまった。
…黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。
あなたはさきに心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、
雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』。
しかしあなたは陰府に落され、穴の奥底に入れられる。”
https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%A4%E6%9B%B8(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3)#%E7%AC%AC14%E7%AB%A0

でバビロンの王が
”わたしの王座を高く神の星の上におき”
と言うので自身を天体とみなしていないのは明白。

♰ルシファー=金星説は
「ルシファー=金星=金星系女神は悪」の旧ヤソ

「ゴッドは善なる宇宙人」の新ヤソ
の双方に都合がいい。







地中海オリエントに於いては金星神は大体「女神」である。イナンナ、イシュタル、アフロディーテなどである。
エジプトのイシスの元にあるのがシュメールのイナンナだそうなので、イシスを含めてもよいだろう。
地母神である。一方のキリストはホルスやミトラなどの男性の太陽神に原型があると思われる。

キリストのイメージの原型は金星を象徴する中東の女神というより明らかにホルスやミトラなどの中東の男性の太陽神である。前者はマリアのイメージの原型であろう。その辺の歴史的過程を飛ばして、
いきなり「キリスト=ルシファー=金星神」が「イルミナティの教義の根幹」とするのは論として雑すぎる。

一方で黙示録でイエスが「明けの明星」を名乗っている事もまた事実である。この事から基督教では金星を「イエスの星」とするそうである。神智学系では「イエスは金星人」と言っている。
つまりイエスと金星の結びつきを隠すどころか公然とアピールしている。
「イエス=金星」は基督教側の主張という事。

「キリスト=金星」は基督教や神智学の主張である。
実際に「イエス 金星」「キリスト 金星」で検索すると基督教やオカルト界隈のページばかり出てくる。神智学信者でUFOで有名なアダムスキーはイエスは金星人と言った由。「キリスト=金星」は裏権力が隠したい「教義の根幹」どころか彼ら側の主張。

新約聖書の黙示録のみを根拠に「キリスト=ルシファー=金星神」と断定するのは、むしろ基督教に近い立場なのではないだろうか。新約聖書という文献に信頼を置き過ぎているからである。
金星神だけ強調するとホルスやミトラなど中東の太陽神との関係がぼかされていまう。それが狙いなのかもしれない。





某ネコ 休止中
‏ @nekotayasan
1月26日

なえなつさん、ルシファーはディアナだよ。元ネタは。

金星でなくて月の女神。

なえなつさんの考察おもしろいけど、中世すっ飛ばして古代にこだわるのは結社の思想なんで気をつけて欲しい。

だから私は中世にこだわる。





She was seen as free, vigorous, cold, impetuous, unsympathetic, beautiful. 日本語wikiにはないけど、ビッチの事調べたらアルテミス出てきたよ。。




参考資料






ブッダの教えは、苦の認識に始まり、その理由を見極め、解決に取り組む。
その結果、誰でもが苦しみを滅することができる!です。
ですから、今ここにある苦を受け入れるのは確かにスタート地点に着くという意味で大事なのですが、それはブッダの説いた「悟り」ではありません。苦しみの滅尽=悟りです。





松本紹圭 Shoukei Matsumoto
‏ @shoukeim
9月2日

坐禅に通うアメリカ人いわく「キリスト教では人間は一生償えない罪を背負い続けるけど、
仏教では苦を滅することができるのが良い」とか。
なるほど、「人生は苦」という仏教はネガティブ過ぎと言われがちだけど、キリスト教と比べる人にはポジティブにも見えるのか。


秋田犬祭り
‏ @akitakenhachi
9月2日
返信先: @shoukeimさん、@finalventさん

キリスト教は陰謀論と終末論が本質ですから


”・コンスタンチノープル公会議は
信経を決定すると同時に
ローマ帝国内の各都市の重要度によるランキングの問題を討議している。
古いローマを筆頭に
コンスタンチノープル(新ローマ)
アレキサンドリア
アンティオケ
エルサレムという順位が定められる。

しかし古いローマとアレキサンドリアは
新しい都となってまもないコンスタンチノープル(新ローマ)
を二番目に置くのを嫌う。
古いローマはコンスタンチノープル(新ローマ)に競争心を
アレキサンドリアは嫉妬心を燃やしていたからだ。

この順位は都市の重要性からつけられたもので
教義的な理由からでない。
五大総主教はすべて平等であり
各総主教区の父(パパ)的存在である。

この順位づけのあと、
ローマ帝国西側は蛮族の手中にあるようになり
古いローマは自分の道を歩まなければならなくなる。
蛮族の中にあり
他の四総主教区と連帯制が薄れてくると
当然首位の座から去らねばならない。
帝国内の重要な都市のひとつと数えられないからだ。
ローマは首位の座を保持しようとやっきになった。
ここから教義的理由を創作して法皇権というものが考えだされ
東西の違いがすこしずつあらわれてくるようになる。

(教皇自体がローマが他の総主教地区より上位だと権威づけるための
イエスの教えと何の関係もない新設定だから
正教はローマ法皇を認めない。

西のキリスト教は初代教会の伝統を保持する正教から見れば
野蛮な田舎の勝手な教えを捏造する劣化品なのだろう)”
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-252.html
【読書メモ】『ギリシャ正教』『正教会の祭と暦』『東方正教会』 。
原罪による堕落説、 ピラミッド型支配構造の教会、
政教分離も西方ヤソ思想であり 正教にはなし!
311年にローマがキリスト教の迫害を停止したのでキリスト教にとって311は特別!


×『リトルウィッチアカデミア』Little Witch Academia  『リトルビッチアカデミア』
○Little Bitch Academia
ビッチは本来は処女・月女神アルテミスの聖なる名。耶蘇が改悪
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-166.html
”メス犬の息子を意味するson of a bitchは元はキリスト教用語。
このサノバビッチは現代は罵倒語だが、
本来は異教の女神の霊的な息子という意味。
異教徒叩きが日常語になった一例。


「ウィッチはビッチ」は耶蘇教が改悪する前は文字通り聖なる呼び名でほめ言葉だった。
リトルビッチアカデミアな件
ダイアナは処女ビッチ!(聖なる称号←耶蘇教が意味を真逆に改悪)
ビッチは本来は処女にして月の女神アルテミスの聖なる添え名。
意味を真逆に改悪したのが耶蘇教。
魔術とお産と吸血鬼の女神ヘカテーはアルテミス=ディアナと同一視された。
ちなみにルパエ(雌狼)は狼神ルパに仕えていた神殿娼婦のことだが、意味を売女=悪名に改悪したのも耶蘇教。
詳しく知りたい方は、ゆっくりと学ぶ吸血鬼シリーズ動画の六話と八話をどうぞ。
つまり、
アルテミス=ディアナ
=ダイアナは処女ビッチ(強調)!
ヘカテーと同一視されたのだから最高の魔女で当然。

メス犬の息子を意味するson of a bitchは元はキリスト教用語。
このサノバビッチは現代は罵倒語だが、
本来は異教の女神の霊的な息子という意味。
異教徒叩きが日常語になった一例。

ゆっくりと学ぶ吸血鬼 第8話後編その1『女神ヘカテとリリスと吸血鬼』
http://www.nicovideo.jp/watch/sm28804107

ゆっくりと学ぶ吸血鬼 第8話後編その2『女神ヘカテと魔女と吸血鬼』
http://www.nicovideo.jp/watch/sm28804173
(学術寄りの動画。プロより詳しいっぽい作者。この動画の作者も正教会の情報が少なくて困っている)”

Lucifer
https://en.wikipedia.org/wiki/Lucifer
”According to both Christian [20] and Jewish exegesis, in the Book of Isaiah, chapter 14, the King of Babylon, Nebuchadnezzar II, conqueror of Jerusalem, is condemned in a prophetic vision by the prophet Isaiah and is called the "Morning Star" (planet Venus).[21][22] In this chapter the Hebrew text says הֵילֵל בֶּן-שָׁחַר (Helel ben Shachar, "shining one, son of the morning").[23] "Helel ben Shahar" may refer to the Morning Star, but the text in Isaiah 14 gives no indication that Helel was a star or planet.[24][25]

Later Christian tradition came to use the Latin word for "morning star", lucifer, as the proper name ("Lucifer") of the Devil as he was before his fall.[26] As a result, "Lucifer has become a byword for Satan or the Devil in the church and in popular literature",[4] as in Dante Alighieri's Inferno, Joost van den Vondel's Lucifer, and John Milton's Paradise Lost.[18] However, unlike the English word, the Latin word was not used exclusively in this way and was applied to others also, including Jesus.[27] The image of a morning star fallen from the sky is generally believed among scholars to have a parallel in Canaanite mythology.[28]”

イザヤ書(口語訳)
https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%A4%E6%9B%B8(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3)#%E7%AC%AC14%E7%AB%A0
”第14章

1 主はヤコブをあわれみ、イスラエルを再び選んで、これをおのれの地に置かれる。異邦人はこれに加わって、ヤコブの家に結びつらなり、

2 もろもろの民は彼らを連れてその所に導いて来る。そしてイスラエルの家は、主の地で彼らを男女の奴隷とし、さきに自分たちを捕虜にした者を捕虜にし、自分たちをしいたげた者を治める。

3 主があなたの苦労と不安とを除き、またあなたが服した苦役を除いて、安息をお与えになるとき、

4 あなたはこのあざけりの歌をとなえ、バビロンの王をののしって言う、「あの、しえたげる者は全く絶えてしまった。あの、おごる者は全く絶えてしまった。

5 主は悪い者のつえと、つかさびとの笏を折られた。

6 彼らは憤りをもってもろもろの民を絶えず撃っては打ち、怒りをもってもろもろの国を治めても、そのしえたげをとどめる者がなかった。

7 全地はやすみを得、穏やかになり、ことごとく声をあげて歌う。

8 いとすぎおよびレバノンの香柏でさえもあなたのゆえに喜んで言う、『あなたはすでに倒れたので、もはや、きこりが上ってきて、われわれを攻めることはない』。

9 下の陰府はあなたのために動いて、あなたの来るのを迎え、地のもろもろの指導者たちの亡霊をあなたのために起し、国々のもろもろの王をその王座から立ちあがらせる。

10 彼らは皆あなたに告げて言う、『あなたもまたわれわれのように弱くなった、あなたもわれわれと同じようになった』。

11 あなたの栄華とあなたの琴の音は陰府に落ちてしまった。うじはあなたの下に敷かれ、みみずはあなたをおおっている。

12 黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。

13 あなたはさきに心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、


14 雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』。

15 しかしあなたは陰府に落され、穴の奥底に入れられる。

16 あなたを見る者はつくづくあなたを見、あなたに目をとめて言う、『この人は地を震わせ、国々を動かし、

17 世界を荒野のようにし、その都市をこわし、捕えた者をその家に解き帰さなかった者であるのか』。

18 もろもろの国の王たちは皆尊いさまで、自分の墓に眠る。

19 しかしあなたは忌みきらわれる月足らぬ子のように墓のそとに捨てられ、つるぎで刺し殺された者でおおわれ、踏みつけられる死体のように穴の石に下る。

20 あなたは自分の国を滅ぼし、自分の民を殺したために、彼らと共に葬られることはない。どうか、悪を行う者の子孫はとこしえに名を呼ばれることのないように。

21 先祖のよこしまのゆえに、その子孫のためにほふり場を備えよ。これは彼らが起って地を取り、世界のおもてに町々を満たすことのないためである」。

22 万軍の主は言われる、「わたしは立って彼らを攻め、バビロンからその名と、残れる者、その子と孫とを断ち滅ぼす、と主は言う。

23 わたしはこれをはりねずみのすみかとし、水の池とし、滅びのほうきをもって、これを払い除く、と万軍の主は言う」。 ”

マタイの福音書5章3節の和訳について
心の貧しい人は幸いか
http://kanai.hatenablog.jp/entry/2015/07/29/%E5%BF%83%E3%81%AE%E8%B2%A7%E3%81%97%E3%81%84%E4%BA%BA%E3%81%AF%E5%B9%B8%E3%81%84%E3%81%8B
”【比較研究】

<金井試訳> 
恵まれている、霊において貧しい人たちは。
天の王国は彼らのものだから。

<Greek>
Μακάριοι οἱ πτωχοὶ τῷ πνεύματι, ὅτι αὐτῶν ἐστιν ἡ βασιλεία τῶν οὐρανῶν.

<KJV, RSV, ASV, NIV, ESV> 
Blessed are the poor in spirit, for theirs is the kingdom of heaven.

<明治訳>
心の貧しき者は福(さいはひ)なり 天國は即ち其(その)人の有(もの)なれば也

<大正改訳>
幸福(さいはひ)なるかな、心の貧しき者。
天國はその人のものなり。

<口語訳>
こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

<新改訳>
心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

<新共同訳>
心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

<前田訳>
さいわいなのは霊に貧しい人々、天国は彼らのものだから。

<塚本訳>
ああ幸いだ、神に寄りすがる「貧しい人たち」
天の国はその人たちのものとなるのだから。

<岩波訳>
幸いだ、心の貧しい者たち、天の王国は、その彼らのものである。

<フランシスコ会訳>
自分の貧しさを知る人は幸いである。
天の国はその人たちのものである。



(1) 主要な英訳、大正改訳、金井試訳は、ギリシャ語テクストの始めにある「Μακάριοι」の訳語を始めに置いている。詩文の始めに倒置法で「Μακάριος」を置く用法は、70人訳聖書の詩篇でたびたび見られる(詩篇1:1, 32:1, 112:1, 119:1, 128:1)。大正改訳がせっかく詩文調にして語順を工夫したのに、口語訳は散文調に戻してしまった。前田訳や塚本訳、岩波訳は「幸い」を文頭に置く工夫を凝らしている。


(2) 「Μακάριοι」はここでは、神の「祝福を受ける」という意味である。「幸い」では読者に誤解を与えるかもしれない。主要な英訳はみな「Blessed」と訳している。


(3) 和訳聖書では明治訳から新改訳、新共同訳まで「心が貧しい」という訳が続いている。原文で問題とされているのは「霊」、すなわち神との関係である。これを「心」と訳すのは、読者に誤解を与える。そもそもこれを「心」と訳したのは、モリソンの漢訳聖書であり、それを日本では現代までひきずってしまった。前田訳や塚本訳、フランシスコ会訳は「心」としない工夫を凝らしている。

(4) 福音書記者マタイは「天 τῶν οὐρανῶν」(トーン ウーラノーン)を「神」の代名詞として用いている。「ἡ βασιλεία」(へー バシレイア)は「王国」が正確な訳であり、その原意は「国家」や「国土」ではなくて「王権」や「王の支配」である。これは、一般的な日本人が持つ「天国」の概念とは異なるのではないか。岩波訳はこれに配慮している。



 「ἡ βασιλεία」は「王国」が正確な訳であり、
その原意は「国家」や「国土」ではなくて「王権」や「王の支配」である。これは、一般的な日本人が持つ「天国」の概念とは異なるのではないか。

…イエスは、ガリラヤ湖畔の町カペナウムを拠点として、宣教を開始された(4:12-17)。その使信は次のものであった。
「悔い改めなさい。天の王国が近づいたから」(4:17)。
福音書記者マタイは「天 τῶν οὐρανῶν」(トーン ウーラノーン)を「神」の代名詞として用いている。

  …
  3.霊において貧しい人たち

 イエスは、この「山上の説教」の冒頭で、八つの<幸い>について語っている
 その第一(5:3)。
<心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから>(新改訳)。
<恵まれている、霊において貧しい人たちは。
天の王国は彼らのものだから>(金井試訳) 

 和訳聖書では明治訳から新改訳、新共同訳まで「心が貧しい」という訳が続いている。
原文で問題とされているのは、「霊において τῷ πνεύματι」(トー プニューマティ)、すなわち神との関係である。これを「心」と訳すのは、読者に誤解を与える。「あなたは心が貧しいわね」と言われて、喜ぶ人がいるだろうか。日本語では「心が貧しい」と言う場合、十中八九、悪い意味ではないか。逆説的な教えだとしても、それが「幸いです」となるだろうか。

 「幸いです」と訳された「Μακάριοι」は、ここでは、神から「恵みを受ける」「祝福される」という宗教的な意味を持っている(参照 6:26,32-33, 7:11)。「幸い」では読者に誤解を与えるかもしれない。主要な英訳はみな「Blessed」と訳している。「恵まれている」が適切な訳ではないか、と筆者は考える。


 当時、ユダヤ教の会堂(シナゴーグ)で指導していたパリサイ派の人たちは、②の「穢れ」を避けることに執心していた。「パリサイ」には「分離する」という意味がある。
そのためユダヤ人でも、
病人、障がい者、売春婦、取税人、
行商人、羊飼い、牧畜人、皮革業者、
ホームレス、女性、子どもなどは、ユダヤ教の礼拝に参加できなかった。それはエルサレムの神殿でも同様である。”


逆境無頼エイジ@M_LH0728
2015年5月13日
「表面的には信仰の人であるが、実践面でその影響が見られない者たちは、
まったく信仰がない者たちであって、他の人たちを欺くために表向き信仰する者たちか、
または、彼らの信仰が弱く、心の奥底まで行き渡っていない者たちである。」
『イランのシーア派イスラーム学教科書』 より。

良い言葉。





微力Power(無気力改め微力)
? @mukiryokupower
6月9日

パキスタン在住中に参加したクルアーン勉強会で教えてもらった話。

施しをする時は相手の負担にならないようにする。精神的かつ物理的に。

相手に負い目を感じさせないように行う。また食べ物は調理し、そのまま食べられる状態が良い。その家には調理器具や調味料が無いかも知れないから...との事。
1件の返信 14件のリツイート 36 いいね

微力Power(無気力改め微力) @mukiryokupower

イスラーム勉強会の続きです。

施しをする者はアッラー(唯一神という意味)から頂いたものを「私自身」が施しをするのではなく、
アッラーからお預かりしているものを、『アッラーが直接相手の方に施す』という気持ちで行う。
とのこと。

ですから相手への優越感等の感情は発生しないはずです。










日本語書籍ですと、慶應義塾大学出版、ムハンマド・ホセイン・タバータバーイー著「シーア派の自画像」がシーア派視点で勉強になるとおもいます。桜井氏のは宗教学、松山氏のはスンナ派護教学の視点からみたシーアですから。





the_mathnawi
‏ @the_mathnawi
5月16日
ムスリム女性の服装についてこれほどかしましく云々されているのだから、
まずその前に「視線を下げなさい」という命令がある、ということももっと知られていてもおかしくないはず。
でもそうはなっていないというのは、多くの人が故意にその部分をオミットしてると思われてもしょうがない。

ハディースのひとつに、道の向こうからやってくる美女にみとれていた連れの若者のあごを、
預言者が「くい」と無言でつまんで反対に向かせた、というのがある。つまり問答無用で「見るな」ということ。
「誘惑された」だの「挑発された」だのと言い訳を並べる余地もないということ。

このハディースには続きがある。この美女が、預言者に宗教上の助言を求めて曰く
「巡礼は義務だと聞きましたが、うちの父はもう老いておりラクダに乗るのもおぼつかないので私が父の代わりに行ってもいいですか」。預言者は「ナアム(はい)」と答えた、というもの。




お読みくださり感謝!

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