朱子学は形而上に執着するな、形而下をまずしっかりしろと説き、人格神を認めず神像崇拝も否定なのでヤソにも新ヤソにも叩かれる。土田健次郎『江戸の朱子学』
Posted on 2018.08.05 Sun 16:34:39 edit
まずは儒教の根本思想をどうぞ。
タイトルの本のメモはその後。
孟子の易姓革命論を加えると
「悪行をしてはいけないと3度言われても改めないボスなら
①辞めて去れ
②ボスを殺すor③失脚させ、まともな者を据えよ」。
上への盲従を強いるというデマを流す工作に注意。
儒教も無記でスピ否定。
「適切な名前をつけよ」で詭弁対策。詳細は↓
儒教は原罪否定で基本は性善説で、性悪説も後天的教育でなんとかなるって思想なので結局は性善説。
耶蘇は儒教の性善説も嫌い。原罪否定だから。
葬儀は信者にとって譲れない点なのは重要。
骨の髄までカトリック信者のロヨラのお墓は明確にカトリック式でありユダヤ教式ではない。
@kikuchi_8
KONDOH Michio@kondohmjp
3月4日
論語に「子不語怪力乱神」とある。孔子は人智を超えた不可解なものについては語らなかった。
「否定」ではなく「語らず」なんだ。
僕はほんとは語れないはずのことを科学者面して語っていないか。自省。
すんすけ@tyuusyo
2017年10月1日
すんすけさんがすんすけをリツイートしました
おもしろいのは「怪力乱神」のうち「怪力乱」は
「非理之正,固聖人所不語。」と全否定しているのに、
「神」は「ひょっとしたらあるのかもしれないが理で解明できないもので、
よくわからないものだから軽がろしく語るべきではない」と言われていることで、
非常に正しい懐疑論者の姿勢だと思います
すんすけさんが追加
すんすけ@tyuusyo
2017年10月1日
「怪」はUMA、「力」はトンデモアクション映画の類、
「乱」は医療否定やら偽史、
「神」は朱熹が
「造化之跡にして,不正に非ずといえども、
然れども窮理之至りにあらず,未だ易く明らかならざるものなり、
故に亦た以て軽く人に語らざる也。」というのですから宇宙人や超常現象といってもいい
「儒教は上位者への盲従を説く」との誤解についての解説
https://togetter.com/li/664524
人見基埜アットhitomimotoya196さん
”セウォル号事故で上からの指示を守って死んだ方々の行動までも「儒教の影響」と分析する者がいて、それをまた餌にして愚かなことを書く所謂「ネトウヨ」がいるが、儒教は上下関係盲従思想ではないのだが。
今日はもうしんどいので寝るが、儒者たちが上に逆らっていることを示す文献上の典拠は多いので、明日か明後日にツイートする。
「儒教は上位者への盲従を説く」との誤解がまかり通っているので一言。
『論語』里仁篇(4-18)に次のように言われる。(原文)子曰、事父母幾諫。見志不從、又敬不違、勞而不怨。
(書き下し)子曰く、父母に事るには幾(ようや)くに諫む。志の從はざるを見ては、又敬して違はず、勞しても怨みず。
朱子は、「論語集註」で、この一節を、『礼記』「内則」の「父母有過、下氣怡色、柔聲以諫。諫若不入、起敬起孝、說則復諫。不說、與其得罪於鄉黨州閭、寧孰諫。父母怒、不說、而撻之流血、不敢疾怨、起敬起孝。」を引用して説明する。
(「集註」原文)此章與内則之言相表裏。幾、微也。微諫、所謂父母有過、下氣怡色、柔聲以諫也。見志不從、又敬不違、所謂諫若不入、起敬起孝、悦則復諫也。勞而不怨、所謂與其得罪於郷黨州閭、寧熟諫。父母怒不悦、而撻之流血、不敢疾怨、起敬起孝也。
(書き下し1)此の章、内則の言と相表裏す。幾は微なり。微諫は、所謂「父母過有らば、氣を下し色を怡ばし、聲柔らかにして以て諫む」なり。
(書き下し2)志の從はざるを見ては、又敬して違はずは、所謂「諫め若し入れられざれば、敬を起こし孝を起こし、悦べば則ち復諫む」なり。
(書き下し3)勞して怨みずは、所謂「其の罪を郷黨州閭に得んよりは、寧ろ熟諫せよ。父母怒りて悦ばず、而して之を撻ちて血流るとも、敢へて疾怨せず、敬を起こし孝を起こす」なり。
(訳)この章は、(『礼記』)内則の言葉と表裏一体である。幾は微(かすか)なことである。「幾くに諫む」、つまり、微かに諫めるとは、(「内則」に)言われる、「父母に過失があれば、不満を顔に出さず喜びの表情を作り、声色を柔らかにして諫める」ことである。
(訳2)「志の從はざるを見ては、又敬して違はず」とは、(「内則」に)言われる、「諫めてもし入られないならば、敬愛を起して孝心を起して、父母が喜べば、再び諫める」ことである。
(訳3)「勞しても怨みず」とは、(「内則」に)言われる、「父母がその罪を郷党や州閭(しゅうりょ)で得るよりは、むしろ繰り返して諫めよ。
(訳4)父母が(その諫言を)怒って悦ばず、(あなたを)鞭打って流血の事態となったとしても、決して怒って怨むこともせず、敬愛を起こして孝心を起こす」ことである。
「親が間違っている時であっても盲従する」のではなく、
「たとい親を怒らせ鞭で打たれることになっても、過ちを犯した親を諌めなければならず、鞭打たれても親を怨まないようにせねばならない」と言われているわけだ。
ようするに、「孝」には「親が誤りを犯している時には諌めなければならない」との義務も含まれているわけであり、
「親に盲従」との考えからは程遠い。
親が諌めを受け入れなかった時にはどうするのか。
『礼記』「曲礼下」の「子之事親也、三諫而不聽、則號泣而隨之。」とあるように、
三回諌めて受け入れられなかったなら従わねばならない。
しかし、やはりあくまで諌めた上での話であり「盲従」を強いるのではない。
しかも、これが君臣関係ならばどうなるのか。
『礼記』「曲礼下」の先程の引用部直前には、
「為人臣之禮、不顯諫。三諫而不聽、則逃之。」とある。
三回諫言して聞き入れられなかった時は、その君主の下から去るのが正しいのである。
主君のような社会的権威に対する儒者の態度は「『盲従』ではない」どころではない。
セウォル号事故に関して、儒教を持ち出すのであれば、
むしろ「社会上層部から儒教道徳が失われたことが原因」とするべきではないのか。
規制緩和を進めた政府、利益追求の為に過積載を繰り返していた船会社に対し、
臣下の誰が身命を賭して諫言したというのか。”
『儒教入門』メモ。
『論語』と『史記』の人物評価基準。吉田松陰と安岡正篤で有名な陽明学はキリスト教と相性が良く儒教カルト✝を作りやすい。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-235.html
”諫言は儒教の重要要素。
もともと中国では天子の圧倒的尊貴を言いながら、
同時に臣下の権威が高く説かれることもある。
臣下が皇帝を教導したり諫めたりすることを認めるのも儒教の特色。
中国では諫官として専門の役職がおかれ、
これは官僚を監視する御史台とともに、宰相らの権力が及ばないのを建前とした。
中国では皇帝に直接ものを申せる官職が制度化されているのに対して、
日本では置かれなかった。
しかし諫言は日本儒教においても臣下の必須の義務とされたのであって、
日本の古代や中世において儒教が話題になるときは諫言が問題になる場合が目立つ。
近世でもこのような話がある。徳川家康にある家来が諫言したとき、家康はうなずいて聞いていた。
その家来が去った後、ある臣下がなぜあのような凡庸な内容に耳を貸すのか質問したところ、
家康はそれはわかっているが耳を貸す姿勢が重要だと答えた。
(室鳩巣、『先哲叢談』直諫は一番槍より難し)
儒教は王者が諫言を聞き入れる態度を求める。
…
また臣下から君主に働きかけるものとしては、
王者を教育する帝王学に儒教が使われたことも重要。
帝王学とは帝王に徳治政治を身につけさせるものであって、皇帝にとっては重荷であった。
北宋の哲宗の教師であった程頤(ていい)、
南宋の寧宗の教師でもあった朱熹はともに皇帝から疎まれた。
ただ帝王がこのような教育を受けることは臣下たちにとっては好ましいことであって、
帝王学として朱子学などの道学は当時の士大夫たちにアピールしたのである。
儒教は単なる上位者への単純な服従を説く教説ではない。
君主への忠誠を要求しながら、同時に君主に対して諫言や教育を行い、
後述するように天災をもとに君主の反省を求める思想でもあった。”
※誤字脱字の一部を修正。
土田健次郎『江戸の朱子学』(筑摩選書)
(儒教入門と同じ著者。
)
・南宋の朱熹(1130~1200)
の思想が朱子学。
朱子は敬称。
(朱熹の生年と没年はキリがいいから記憶しやすい)
朱子学は道学の一派だったが道学代表になったので
道学が朱子学と同義に使われるようになった。
道学は一般に宋学といわれることが多い。
広義の宋学
=宋代に登場した新たな儒学全般。
教義の宋学
=特に北宋のテイコウ、テイイ兄弟を祖とする学派。
強大は合わせて二程子や二程と呼ばれる。
教義の宋学の祖を周敦頤とすることが常識のように言われているが実際は異なる。
この学派が展開されていく中で
一部で周敦頤評価がなされるようになり、
それを決定づけたのが朱熹だった。
当初はこの学派はあくまでも二程学派だった。
(しゅうとんい が周敦頤に一発変換されて驚いた。
ていい と ていこう は変換されなかった。
変換ですぐに出ない漢字が中国思想の本に多いので
メモに時間がかかるからイヤだ。
実験的にカタカナを使ってみる)
朱子学はベトナムや琉球でも摂取されている。
従来は朱子学のもっている封建思想としての性格が近代化を阻んできたという議論が主流だったが
日本をはじめ朱子学が広がった地域のほうが他地域よりも早く近代化に成功したことから
朱子学がそれなりに近代化に貢献したのではないかという見方も出てきた。
朱子学は儒学史上異例なほどの哲学的密度を持つ思想。
朱子学の教理では
理気二元論が有名。
朱子学では理を肯定し
気を否定的に見ることから二元論とはいえず
理の思想であるという意見もある。
朱子学ではあらゆる善は理に帰着させ
気はそれ自体では善でも悪でもないが
この世の悪は気が理の発現をくらますことに起因すると考えることから
このような見方が出てくる。
しかし思想の骨格は二元論というべきもの。
朱子学は
世界の万事万象を理と気に還元させ、
理と気が相互変換不可能であることから
二元論。
気は定義が困難。
英訳、アメリカでよく使用された
物質的力
(material forces)
にしても違和感を免れない。
日本では幸田露伴が
「におい」と解釈した。
単なる香臭だけでなく
色の艶(てり)
声の韻
剣の光
人の容(かたち)なども
においであると言う。
やや日本語の「けはい」にも似ていようか。
そのものならではの性格を感じさせるものが気なのであって
なかなか核心をついている。
(雰囲気?
雰囲「気」
空気)
イギリスのニーダムは
マター=エナジー
matter=energy
として解釈。
時には物質 マター
時にはエネルギー エナジー
として立ち現れるものということ。
物質とエネルギーを分けて発想するのはヨーロッパでも近世の考えで
それ以前は両者は同じものとして見られ
時には物質として時にはエネルギーとして捉えられたという。
物体はすべて気でできていると朱子学では考えるが
この場合は物質としての気。
同時に朱子学では世界のエネルギーの働きも気といわれる。
肉体は気でできているが、
起こす種々の働き、
具体的には話したり動作したり思考したりといったことも
すべて気と言われる。
筆者は以下のように整理したことがある。
気(狭義の気=エネルギー)+質(物質)
=気(広義の気)
(光が粒子であり波動というのに似ている。
中国思想では見えないものもとにかく具体的。
怪力乱神を語らずが孔子の姿勢なので
形而上思想が発達しにくかったのだろう)
朱熹が気に期待したのが
作用や運動の側面。
気は陰陽と五行の二つの側面を持つ。
陰陽は関係概念。
満月は日に対しては陰だが
三日月に対しては陽。
五行は物質的素材の面が強い。
特に陰陽が重要で
このモデルは男女。
男が陽
女が陰で
陰陽の関係に入ると子供が生まれる。
宇宙に満ちている気が陰陽関係に入ることで新たな物を生み出し
それがまた次の物を生み出していく。
これが生生であって世界全体は限りなく変化していく。
朱熹は気の作用の代表として
感応と消長がある。
感応
=感(働きかけ)
+応(反応)。
陰陽では
男が働きかけ
女が応じて
子供が生まれる。
いわば作用である。
消長
=消(衰退)
+長(成長)。
春から夏では長
秋から冬へは消。
気全体は自身のエネルギーにより消長という
自己運動を引き起こしていく。
いわば運動。
朱熹は消長は感応の一つであるとする。
春が感で夏は応。
夏がまた感となり秋が応となる。
空間的な感応が時間化されている。
朱熹は感応を
外感(異なる気同士が感応する)、
消長を
内感(その気の内部で感応する)とする。
要するに
消長も感応に含みこまれる。
感応には法則と秩序がありそれが理。
このような比喩をあげる。
リンゴが木から落ちることは
リンゴという気の塊が
地面という気の塊にむかって大気という気の中を移動しているということ。
我々は気の移動を見ているだけ。
そこには明らかに引力の法則の実在が想定できる。
その法則を理という。
引力の法則自体は知覚できない。
このように経験できないものを形而上という。
対して
経験できるものを形而下という。
両語は『易経』繋辞上伝の語であるが
朱熹は
形而上を経験できないもの
形而下を経験できるものとした。
安田二郎氏は
形而上を形をとりえないもの
形而下を形をとりうるものと明確に説明した。
形をとりうるものとは
たとえば薄い空気のようなものは知覚できないが
それを圧縮していけばいつかは知覚しうるというように
経験できる可能性を持つことである。
対して形而上はいかなる状況でもそれ自体では経験しえないもの。
引力法則は具体的な物が動かない限り自己を現せない。
宇宙に物がなければ引力法則は無に等しい。
つまり
理は気がないかぎり自己を現せない。
気はそれが物として認識できるときは必ずそこに理が存在する。
(形而上のものは定義上、経験で確かめられない
ので推論するしかないものなので
経験で確かめられないから本当かわからないという批判もされる。
推論が正しいと結論できるなら存在しないとおかしい
存在するはずだとと想定されるものが形而上存在。
形而下がなければ形而上を考察することは不可能。
形而上が源泉であるという点では
形而上>形而下
だが
形而下なしには形而上の無に等しいという点では
相互依存。
でも一神教の形而上絶対創造主は相互依存しない存在のはず。
保立道久@zxd01342
1月27日
『易経』繋辞伝に
「形而上なるもの、これを『道』といい、形而下なるものを『器』という」とある。
「道」を「形而上」というのは、形を超越した世界(形のない世界)ということであり、これは老子が「道」を「無形」「無物の象」などと定義したことを取り入れたものである。
「器=形あるもの」も老子の語法を延長したものである。
この繋辞伝がメタフィジックを「形而上学」と訳す理由となった。形而上学という語の淵源が老子にあったことは日本哲学では意識されていない。それは彼らがヨーロッパ中心主義への屈服と無教養の中にいたことの証拠である。どうしようもない。
kouteika@kouteika
2008年9月9日
是故形而上者、謂之道。形而下者、謂之器。
化而裁之、謂之変。推而行之、謂之通。挙而措之天下之民、謂之事業。
(『易経』繋辞上伝第十二)/
原典がこうなのだから、初めから対になって観念されたとしても不思議ではなかったか。)
筆者は引力の例をあげたが
この場合はリンゴの移動が物。
朱熹は物は事であるとする。
物は事(事態)。
この世界は気の海である。
気の一部を一つの事(事態)として切り取ることが可能な場合
それが物。
リンゴも、
リンゴの移動も移動の軌跡が意識対象として一個性をもつゆえに
物である。
この
意識対象としての一個性とは
気の一部に一つの意味を賦与できるということ。
我々が一個の事態として認識するということは
その時点でその事態に意味を見いだしている。
安田二郎氏は理を意味と解釈したがそれは
物の枠組みを成り立たせているのが意味だから。
物として意識した時点で実は既に暗々裏に意味を見いだしているのである。
朱熹は一つの物には
一つの理があるとした。
物として捉えた時点で
その対象にその枠組みに意味を与えているものがあるということ。
それを改めて意識化するのが理の認識。
リンゴは宇宙の充満している気の一部分である。
それが五行が混ざったものである。
しかしそこに一つの物を意識し、
それがリンゴであると認識した。
それは宇宙に遍満する気の一部分にリンゴという意味が賦与できたからである。
今度がリンゴが落下するときに落下の軌跡を意識する場合であるが、
それも落下という軌跡を一つの物(事態)として意識したということであり
それはそこに引力の法則という意味が賦与できたのである。
作用や運動が起っていれば
具体的にそれらが行われていなくても
そこに働きを引き起こす特定機能を感知できれば
それは物。
朱熹は椅子の理について
椅子が四本足であることをあげる。
四本足であることによって座るという機能が意識されるがゆえに
そこに物が見いだされ
かくてその物の理が認識される。
足を切って腰かけるのにちょうどよい高さになれば
今度は椅子としての機能が意識されて椅子という物となる。
この世界のいかなる部分で枠をとるかで
物は変わるが、それでも物理法則が何ら変わるわけではない。
この機能とは作用・運動の潜在型と言ってもよい。
いずれにしても機能、作用、運動によって特定の場ができるからこそ理が問題にできる。
朱熹はテイイの議論をもとに
1 それぞれの物にはそれぞれの理がある
2 それぞれの物は異なる
3 しかしそれぞれの理は究極には一である
とする。
これが朱熹がテイイから継承し拡大した
理一分殊
(理は一であって分は殊である)
の論。
分(持ち前)がそれにふさわしい特殊性を発揮している時にこそ
その理は一なのである。
机は机、椅子は椅子のときにこそ
机と椅子を含むすべての理は一なのである。
これを図式化すれば
X=Xであり
XにAを代入すればA=A
BならばB=Bで
それがまっとうされたときに
X=Xが一貫して立ち現れる。
(なぜ抽象的な理論を詳しくメモしているのかというと
それが朱熹の具体的に~すべきの根拠だから。
形而上が形而下の根拠だから)
この理論は人間関係にも適用される。
それが
論語 顔淵篇の
「父父たり。子子たり。君君たり。臣臣たり。」であって
父が父らしく子が子らしく
君が君らしく臣が臣らしいとき
つまりX=Xのときにこそ
理一
が現れるのである。
ここに世界の秩序性が際立つ思想が生まれる。
朱子学が社会秩序の妥協ない発揮を求める思想とされるのは
このような個別の差等を完全に発揮させることこそが
全体の一体を完遂させられるとするからである。
人が対象を意識するのは
対象と人心が感応しているのである。
その感応が本来の法則通りに動くときが
理にのっとった状態である。
つまり道徳とは心の動きの法則なのであって
道徳通りに心が動いている状態こそが
人心に理が実現している姿である。
リンゴが地面に落ちるときに引力の法則(理)が顕現するのと同じこと。
朱熹は心を
性と情にわける。
情
=気
=経験できる形而下の心の動き。
性
=その心の動きの秩序・法則(形而上)、
=理。
性の通りに情が動いているときが善であり
気のエネルギーの歪みから
性の通りに情が動いていない時に悪が発生する。
つまり性=理は徹底的に善であり
情=気はそれ自体は無価値的であるが
悪の原因になりうるがゆえに警戒される。
朱子学では理を徹底して善なるものとし
現実には自然界も人心も必ずしも理の通りに動いていない。
それは気のアンバランスに由来する。
気の歪みを正し
理にのっとった動きにする必要がある。
これを
気質を変化する
と言う。
人は学問や修養によって自己の気のアンバランスを修正し
心が理(道徳)の通りに動くようにすることが求められる。
気のバランス修正のために必要なのが学問と修養。
学問は格物と言われる。
朱熹は礼記の一篇だった大学を独立して表彰し
分中の格物の語を
物に格(いた)る
と読んで
物の理に到達する
ことと解釈した。
正確な事物の理の把握こそが学問であり、
中核には経書の学習があった。
極めて明確に経学の位置づけがなされたことが
古典教養主義というべきものを涵養し
東アジア教養教育の基盤形成に朱子学が大きく貢献することになる。
修養とは居敬(あるいは持敬)である。
これは意識対象に敬虔な気持ちで接し続けることである。
朱熹はテイイを継承し
主一無適
(一を主として適(ゆ)くこと無し)
と
整斉厳粛
を言うことが多い。
つまり心を専一に対象を集中させ
同時に心身の威儀を正すことで
心の善なる本来的機能を開かせようとするのである。
人間がみな聖人になれるということは
こころの性が善だからであり
それを意識のうえで実現させようというわけである。
自分が自分の心を見つめることに朱熹は否定的であった。
そうすると限りない思い込みの世界におちいるし
そもそも常に外界の事物に触発されて刻々と変化する心の修養としては有効ではない。
それに論理的にも
見る心と見られる心という二つの心が同時に存在してしまうことになる。
善への方向付けを念頭に意識を次々と立ち現れてくる外界の事物に集中することで
人間の聖性を発現させようとするのである。
この居敬の修養こそが朱子学が展開した地域で
仏教にとってかわる儒学の修養方法として大きく作用した。
朱子学ではこのように個人の内的完成を目指すが
その先には儒学の最終目標である国家、
世界の安定があるのは言うまでもない。
朱子学では個々の人間が道徳的になってこそ思想の社会は実現すると考えるのであって
最初から政治的効果をねらう方向の思想には批判的。
朱子学は極めて厳格な道徳主義を持つものとして知られている。
朱子学の重要な前提は万人が聖人に到達できること。
人間の道徳的可能性を信ずるぶん現実の人間に厳しくなる。
欠けている部分をクローズアップするのであって
マイナス思考の傾向をもつ。
理論的にも朱子学にはリゴリズムを引き起こす要素は確かにあった
朱熹の一物一理の理論とは
一つの物には一つだけ理があるという主張。
物とは事態であり
一つの事態に一つだけしか理を認めないということである。
一定状況の中で複数の心の動き方を許容しないということを意味する。
この不寛容がリゴリズムにつながる。
朱熹は新たな道徳を発明してはいない。
基本的には伝統的な徳目を反芻しているだけであって
問題なのはその徳目の固定のしかたなのである。
一物一理を説きながらも理の内容を軽々に理解できると朱熹は言っていない。
ところが
後の朱子学では圧倒的な支配力をもつ秩序や規範を無反省に理の内容とし
それ以外の理の内容を主張する者に対しては断罪する傾向も生じた。
問題は朱熹は理は説いたが
理の内容の判定基準を明確に示さなかったこと。
それゆえ理の内容として複数の候補が考えられることになり
その選択には往々にして(好ましくない事態がよくあるさま)
外的な拘束力の強さが反映しがちになる。
朱子学が元の時代に国教化されると
政府公認の規範や世間の道徳的慣行がそのまま理とみなされることになり
それゆえ朱子学といえば体制教学であると言われるようになった。
伊東仁斎や
清朝の載震(タイシン)が
朱子学の理の思想は上位者や強者にとって有利に
下位者や弱者にとっては不利に作用するとして批判したのは有名な話。
(理の内容しだいで権力者の支配用にも
革命側の正統性用にもなるのが朱子学)
・朱熹が生まれたのは
1130年、
中国の北半分を異民族の金に制圧されてから三年後である。
南宋は中国全土の統治がかなわなくなった地方政権であり
金に対する不安と屈辱を感じながらも
次第にそれなりの安定を見せていく。
しばしば朱子学の特色とされる
大義名分と尊王攘夷の四字熟語は
朱熹の文献にはない。
二文字ずつの使用例はある。
尾藤正英氏などが指摘していたが
今ではデータベース検索で容易に確認可能。
この言葉を頻用しているはずだという先入観はまずとり除いたほうがよい。
朱熹は大義名分の語を使わない。
朱熹の文献における尊王攘夷の語について。
尊王攘夷は朱熹では特に強烈な主張ではない。
もちろん朱熹は金に敵愾心を持っていたし
失地回復を念願していた。
金に対するスタンスとして当時あげられていた三つの選択肢
守(防衛)
戦(主戦)
和(講和)
のうち朱熹は守に近い立場。
防衛に専念し国力を充実させ将来の国土復活を期する立場。
朱熹個人の思想といわゆる朱子学のイメージの間にずれがある。
・儒史学の常識とは
漢から唐にかけての儒学を訓詁学(経書の字句を考証する学)の時代
宋から明にかけての儒学を義理学(経書から哲学的内容を抽出する学)の時代
とするものである。
宋から変容し、宋の朱子学
明の陽明学という見方。
・朱熹が没したのは1200年。
それは慶元偽学の禁と呼ばれる弾圧の嵐の中であった。
後、朱子学は次第に南宋の朝廷に食い込んでいく。
その流れが元に入っていく。
元は当初は朱子学に限らず儒学を軽視していたが
統治の必要から次第に方針を変え
公務員試験である科挙を再開しその標準解釈として朱子学を採用。
朱子学の国教化であり明、清にも引き継がれていく。
このような朱子学はいつ日本に入ったのか。
流入とは何をもっていうのか。
書籍の輸入と言うなら鎌倉初期に寧波あたりで仕入れれば
当然朱子学関係のものが混ざってくるのであり話は簡単。
しかし流入とはいわない。
流入と言えるのは
その思想が日本で一定の理解を持たれ
影響が出ていることが条件のはず。
影響というのも
朱子学の注が経書の解釈に採用されたレベルでは不十分で
思想として咀嚼され表現されるようになってこそ言える。
(こういうことをきちんと考えて書いている本は良書)
年代的に早いのが臨済宗の栄西(1141~1215年)などが
南宋に留学して多くの書物を持ち帰ったことから
朱子学の紹介者と言われてきた。
南北朝あたりになると
虎関師錬(1278~1346年)が禅宗の僧侶のなかでいちはやく道学を論難した。
玄恵(?~1350)が道学を正しいとみなし、
朝廷で開講してから二程子と朱熹の経書の新解釈が中心となったと、
室町時代の一条兼良の『尺素往来』にある。
少なくとも経書解釈の領域では道学が主導権を取り始めたことになる。
明経道の清原宣賢(のぶかた 1475~1550)は孟子から二程子にいたる学統を重視し
道学に対する傾倒を見せている。
たとえば『孟子抄』はいたるところで朱熹の『四書集註』を引用して解説しているが
まだ禅と儒学の融合論を見せ、
神道との連結も見える(彼は吉田神道の吉田兼倶の三男であった)。
(のち清原宗賢(むねかた)の養嗣子(ようしし)となり清原家となる)
しかし彼は儒学と仏教の区別もしているのであって
道学の知識の程度が低くなかったことがわかる。
南北朝前後までには朱子学が日本にかなり受容されてきたことが言われてきた。
平安から鎌倉時期の日本の説話文学における儒学の記載を調べたが
特に君主を諫める諫言の必要性が言われるときに儒学が意識されていることが多かった。
・北畠親房『神皇正統記』は
資治通鑑の司馬光と同じく魏を正統とする。
親房の魏正統論は資治通鑑からではなく
志磐(しばん)『仏祖統紀』に依拠したものであることが指摘されている。
神皇正統記の執筆意図は
神代より正理にてうけ伝えつるいわれを述べむことを志して
と親房自身が書いているように
皇室こそが政権の正統である根拠を鮮明にすること。
親房は日本国民がすべて皇室に忠誠を尽くすべきことを強調している。
(日本国民って概念が親房にあるの?)
神皇正統記では空海を密教の正統としている箇所がある。
親房は神道家であるとともに真言宗の僧侶でもあった。
(当時の正統は天台宗。
神皇正統記は吉野朝廷(いわゆる南朝)の正統性を述べた歴史書。
南朝と真言宗優遇、完全に今の皇室。
だから教科書に必ず載る。
立川流の本尊が狐だから狐優遇。
村手 さとし
@mkmogura
2011年10月28日
ちなみに、天皇すり替えは、
先程の神社全庁=国家神道官幣社、
源氏=鎌倉、長州、真言宗、などの要素にわけることができ、
仏教部門のこのイベントの主軸は高野山になります。真言立川流という真言密教繋がりですね
村手 さとし
@mkmogura
2014年5月31日
@lanekota 反撃しません。真言立川流を盛り上げ、神道馬鹿とキリスト教を共食いさせるように仕掛けます
原理主義的な宗教は、貞操観念への締め付けはどれも厳しいからね。
天皇の正統宗教がセックスカルトだとしられたら、いろいろマズすぎるし、キリスト教原理主義と歩調以前に妥協点がみつからなくなるだろうなと、
加藤拓雅
@totutotudojin
2014年2月4日
『神皇正統記』で名高い北畠親房には、真言密教についての著作があることを、最近知った。 『真言内証義』というもので、1345年、53歳の時の著書。 なお、彼は出家もしており、僧名は覚空。
齊藤朗純yosizumi saitou
@yosizumis
2010年9月1日
後醍醐天皇は大覚寺等で、その所領の多くは八条院領であった。
北畠親房は村上源氏、文観は醍醐寺系の真言立川流の僧。つまり役者は変わっても同じ芝居がかかっている。)
朱子学の道統とは政権の正統性とは関係なく
純粋に道の問題。
古代の聖王は正統と道統の両者を兼ね備えていたが
肝心の孔子や朱熹は道統だけを受け継いだとするのであって
正統と道統が重なることを前提にしていない。
南北朝前後から儒学を専門的に伝える博士家をはじめ
貴族、僧侶らも新註(朱子学の注。朱子学以前は古註という)
を利用しはじめたと文献にある。
・一般に江戸時代の朱子学の嚆矢としては
藤原 惺窩(ふじわら せいか[1561~1619])をあげるのが常。
藤原 惺窩(ふじわら せいか[1561~1619])が
仏教の補助学であった朱子学を
仏教から独立させようとしたからである。
藤原 惺窩(ふじわら せいか[1561~1619])は藤原定家の子孫。
僧侶であったが明に渡ろうとして果たせず
秀吉の朝鮮出兵時に捕虜として日本に連れてこられた朝鮮のカンハンと交友を結び
後に儒者としての姿勢を強めた。
林羅山、松永尺五、堀杏庵などの弟子がいる。
惺窩の朱子学は純粋な朱子学ではなく
朱熹のライバルの陸九淵の思想が混在したものとされる。
惺窩は
格物を
物に格(いた)る=事物の理に到達する
ではなく
物を格(さ)る=心の塵を除く
という
林兆恩の説を取っているので
この朱子学の肝ともいえる個所で朱子学を採用していない。
林兆恩は儒教、仏教、道教の合一を説いた
三一教で知られ朱子学者ではない。
彼は
人の一心には至理がみな備わっていて
儒になろうとすれば儒
道になろうとすれば道
仏になろうとすれば仏
我にあるのであって
外にあるのではない
という。
・もともと朱子学は仏教、特に禅宗、および禅宗を理論化するときに使用された華厳教学から影響を受けていた。
それは心に関心を集中させ
しかもその心を外界と内心の反応関係に絞りこむものであった。
朱子学の最大の関心事は聖人に到達するために心の情況を刷新していくこと。
刷新とは外界に対して的確に内心が反応する状態に変革していくこと。
朱子学は仏教を批判する。
朱子学は外界に対して道徳的に心が反応することこそが自然であり本来的であるとする。
対して仏教はそのような道徳性に対する意識を消すことで自然かつ本来的な心が発動すると見る。
禅宗の悟りの境地は結果的には反社会的にはならないのであるが
本来の心を生き生きと発動させるために最初から道徳への意識を無化することを強調し
儒家から見れば反道徳ということになる。
ただいずれも外界に対する内心の自然かつ本来的な発動を理想とすることには変わりはない。
朱子学も最終的には心が道徳(=理)どおりに動くこと、
つまり道徳に完全に乗っかる状態が恒常化することで
道徳を意識する必要がなくなる。
(道徳は典型的な物語だから仏教では超えるべきもの。
仏教はそもそも道徳的になることが目的ではない。
戒律を守ることが結果的に道徳的と言われるだけ)
明になると陽明学が登場し仏教のみならず朱子学とも対抗していく。
陽明学では心に本来具わる道徳的直観力を重視する。
そしてその直観力に身をゆだねようとする。
朱子学は心の動きを道徳=理に沿わせようとするが
それが確実に理に沿っているか客観的に検証しようという志向が常にあった。
陽明学から見ればそのような姿勢は心が本来持つダイナミズムを阻害するものであった。
陽明学は心の直観力を重視することから外的な規範や区分けへの意識が朱子学より薄くなり
儒教、仏教、道教の区別への意識も薄くなる傾向が出てくる。
(ここだけ読むと陽明学は好き勝手やる思想だと曲解されまくりそうだ)
・中国医学は道教と親和性をもつ。
道教は肉体の不老不死を希求するから。
対して儒学は肉体の養生などよりも
義に沿った出処進退を追求するゆえに
医学とは接点が薄かったが
宋くらいから次第に両者が結びつくケースが出てきた。
儒医
=儒者であり医者である存在。
中国では宋から増え始めたが
日本でも江戸時代には非常に目立つ。
医者であるのは儒者だけでは召し抱えられでもしない限り
なかなか生計を立てるのが困難だったからでもある。
儒学では老いた両親の介護が孝のもとに重視されるが
そのときに医学の知識は必要であった。
心の安定が肉体に影響し養生とつながるという考えが
道学から派生的に出てきた。
朱熹ら道学者は肉体的関心が肥大するのを喜ばなかったが
肉体と精神の相関関係は気にしていた。
朱子学内部では過度の肉体的関心は押しとどめられているが
医学にはそれなりの影響を与えた。
当時の医学を学ぶ場合には朱子学の知識をもっていた方が有利であり
林羅山の講演は医者にとっては干天の慈雨であったのだろう。
これも朱子学受容の経路の一つ。
ここで補記しておくべきなのは
戦国、安土桃山時代に盛んであり
信長や秀吉ももっていた天道(てんとう)信仰も
江戸時代の儒学隆盛への橋渡しの一つになった可能性があることだ。
江戸時代初期の儒教的啓蒙書にもしばしば天道が出てくる。
天道信仰は善悪に対して天が禍福で対応するという考えと
天が運命的に人間に禍福を降すという考えの両面が併存していて
天道の語がキリスト教のデウス(神)や
朱子学の理にあてられたりしていることは以前から注意されてきた。
しかし朱子学では天の意志を言うときですら
天が万物を限りなく生生していくその方向性のこととするのであって
主宰的性格を天道に見るような神秘的傾向が薄いことには注意しておく必要がある。
・朱子学は江戸時代の体制教学と見なされることが多い。
一物一理思想からくる道徳的不寛容と
理が抽象的でしかも内容の決定基準が定式化されていないがゆえに
政府が求める秩序とか既存の価値観とかの物理的な力が入り込みやすかったからである。
さらに朱子学の自力主義が人々に受け身ではなく積極的に現実の秩序の網の目に参入することを鼓舞した。
しかし朱子学は単に権力側に唯々諾々とつき従うばかりであったわけではない。
朱熹も彼が尊敬するテイイもともに弾圧をこうむったように
その原理主義的性格は時に鋭い現状批判になりうる面を持っていた。
当初から儒学はもとより儒学全般が徳川政権のイデオロギーとして機能していたわけではない。
朱子学のみを目して江戸時代の体制を補佐した思想と断定することには慎重にならざるをえない。
そもそも中国、日本の近世に儒学が適合したのは
前代に比して官僚社会が成熟したから。
それとともに宗教が政府の統制下におかれ
その権威と権力が後退したからだ。
寺院は政権の統治下。
中国でも宋からは仏教も道教も国家の統制による組織化が進み
朝鮮王朝では仏教が抑え込まれた。
江戸時代の武士は軍人としての機能を保持しながらも基本的には官僚。
儒学は軍人の為ではなく官僚の思想。
儒者は殉死を忠義として称揚することなく否定。
山鹿素行(反朱子学)も山崎闇斎(厳格な朱子学)も殉死否定論者。
(どうみても坊さん、仏教が一番当時は強い)
・林羅山の理当心地神道は江戸時代に新展開を見せた儒家神道の嚆矢とされるが
惺窩を中心にした京学派の神道理解の流れにあり
出口延佳(渡会延佳)ら伊勢外宮の神官たちに影響をあたえていく。
(大本の出口~の元ネタ?。
神道勢力が反仏教でもある儒教を取り入れてもおかしくない)
・朱熹は心の本来的機能を発揮させる意識の持ち方に力をいれる。
それが居敬の修養法。
陽明学では心の本来的発動に身をゆだねることを主張する。
自身が直感的に核心を持てるものが理なのであって
心即理がそれ。
陽明学は理を否定してないし
朱子学を批判する諸儒で理自体を否定した者はほとんどいない。
彼らがいうのは朱子学の理の内容が間違っていること。
朱子学では人欲を否定するところに天理を見いだしたが
陽明学などでは人欲にそったところに天理を見いだすようになった。
・心の問題に全関心をしぼりこみ
心を内心と外界の反応関係に見るという姿勢を
道学は禅から継承した。
朱子学のいう聖人とは
「思わずして得
(ことさら意識しなくても
心のはたらきが自然にうまくいく)」
(中庸)
「心の欲する所に従って矩をこえず
(内心が外界に反応するままにしておいても
道徳から逸脱しない)」
(論語 為政篇)
という心境の所有者であり
外界に常に内心が自然かつ的確に反応する人間のこと。
儒学では天と人の合一をいう伝統がある。
(これ中国でグノーシスな儒教もどきカルトを作るのに利用されてそう。
無論、儒教の天はゴッドではない)
天人分離論もあったが必ずしも主流ではなかった。
天人分離論は天を敬うが天の文脈を人事に介入させないもので
特に天譴説を批判する。
天譴説とは政治の善し悪しが天候に影響するもので
災害が起これば政治に問題があるとする。
災害は頻繁に起こるからそのたびに責任論を発生させてしまうと
政策の一貫性が取れなくなる。
ゆえに両者を切り離し政策の持続性を維持しようとするときに
分離論は有効。
政治が天候にまで影響する思想は
災害は頻繁に起こるため
それに応じて政治をチェックする回数も多くなるのであって
かくて限りなく増大する帝王の権力を抑制する意味もあったという
うがった見方もある。
(人の諫言より強力なことがあるが
制御できないのが難点)
天譴思想を後退させる議論が唐くらいから起こり
宋以後主流となるという研究がなされている。
天譴思想を後退させてしまうと
天人合一論が崩れてしまいそうだが
朱子学は天人合一論自体は維持した。
朱熹も人事と自然界の感応関係自体は否定していない。
朱熹にとっての天と人の合一は
自然界と人の心の合一論にまでスライドされていく性格のものだったからだ。
これは朱熹の先行する道学者たちが
天と人を
物と我
外と内
と並列したうえで
両者の一体を言うのを受けていて
突き詰めれば内心と外界の関係の問題になる。
天の理と人の理が一貫していることは
自然界の法則性と人心の法則性が一貫していることであり
天のもつ神秘的要素を後退させる。
・儒者が哲学的自己主張をするときに
必ずといってよいほど取り上げたのは
天人論と性説であり、
性説では性にいかに善悪を付与するかが議論の中心。
孟子は生得の心のうちの善への可能性を性とし
殉死は動物性に陥ってしまう側面を性としたのであり
心には二側面があることを両者とも認めていた。
性善説、性悪説、性善悪混、
性三品、性無善悪などが出てくるが
性の内実はばらばらだった。
朱子学によりはっきりと性の善の部分と悪へ流れる部分が分けられた。
それが
本然の性
気質の性。
本然の性
=完全に善である理のままの部分。
気質の性
=理のみならず気を伴う生まれつき。
孟子のいう性は本然の性であり
現実の人間の善悪混在の生まれつきは気質の性。
朱熹は
人間の心を
性と情の統合体と解釈。
この場合の性は本然の性でそのまま理。
情は外界に触発されて働く気であり
気のエネルギーの歪みから悪の本になる。
陽明学は善の根拠を理気に分割する以前の心そのものに見る。
・朱子学における個人と社会の関係で有名なのは
『大学』に見える八条目をめぐる議論。
八条目とは
格物、
致知、
誠意、正心、修身、
斉家、
治国、平天下
であって、
格物から修身までが個人の修養、
斉家から平天下までが家庭を含めた社会への感化。
なお最後の平天下は
天下を統治することではなく
それぞれの天職を務めることを通して天下の安定に貢献することだと
朱熹はしている。
これは自己の内面を完全な人格である聖人に向かって向上させようとする内的欲求と
近世社会が求める分業完遂の要請を両立をさせるものであった。
このように個人の修養が社会への貢献に直結することを朱子学では求める。
その際に重要なのは個人の内面が道徳的に完璧であってこそ
社会への貢献も完全になるという思想を持っていること。
朱熹の
修己治人
(しゅうこ〈き〉ちじん
おのれを修め
人を治む)
つまり
自己の修養を行い
他人を感化するという語は
しばしば儒教の理念を端的に語るものとされた。
八条目の順序を見てもわかるように
朱子学では個々の人間の自己完成があってこそ
理想的な社会が形成されると考えた。
しかしこれではいつまでたっても実現の見込みはない。
そこで社会の政治的安定を優先させ
その中で人々の心性の安定を図る永嘉学派、
永康学派のいわゆる事功派の思想が対抗として意味を持つ。
朱子学では公私について
心が公であればその人間のの社会活動は全て公であるとし
公で塗り固めようとする。
対して
心の領域はあくまでも私であって
その複数の私が調和を得るところに公を見るという思想が
明の中期位から見るようになった。
明末清初の黄宗羲(こうそうぎ 1610~1695)が
人間は
自私(自己本位)であり
自利(自己利益誘導)が自然であり
それをもとに社会を構想しなければならないとしたのは
その流れをくむ。
(蟹ぢから溢れる??@onesyotasekai5月27日
修身
斉家
治国
平天下の前には
格物
致知
誠意
正心があって、暴力の前段階があるのよ
つまり、人間は何かを行使する際には暴力が付きまとうのだけど、
その暴力というものの正体というのは
モノの道理
・その道理に至る為の知識
・知識に対して誠実に行い考え
・それが正しいと揺るがない心ある事が大前提なにょ
つまり、そこで行使される暴力というのは
善悪の基準が確固とし
・己らの中で確かな知識と経験に裏付けられ
・この世に誠意と誠実なモノとして訴えられ
・それは不動な正義として大義を抱えたものが身を修めた上での
暴力を行使する事が叶うわけなのね
で、それは民族叙事詩か宗族の教えにしかないのよ
で、コレは悪とか善で片付けられる話では全くなくて
修身したものにとっては「そうでしかないないもの」という
善悪・正義不正義とか相対的な価値観を木っ端微塵に破壊し尽くした純然でしかないものなの
要は憎悪とか、破壊とかではなくそれは外側の人間の感想でしかなくて中の正気ではないのよ
だから、軽々しく暴力と言ってもいいけど
その暴力は何で出来ているのかを踏まえて言わない限りはただの言葉でしかないのよ
だから、言葉をただの言葉にしなかった宗族の教えを追う事が出来るのであるならば、
それこそ修められた暴力という極致に至れるわけなのよ
ね、ちょー簡単で分かりやすいっしょ)
・儒教では欲望のすべてが否定されるわけではない。
善を実現したいとか人を助けたいのも欲望。
しかし多くの場合欲望は警戒すべきものとして扱われるのは
悪の原因が欲望だから。
朱子学では善なる欲望の存在を認めつつ
悪を引き起こす因子として欲望を警戒し
最初から理を意識して規制をかける傾向がある。
朱子学はその原理主義的性格が危険とみなされ朱熹やその先輩のテイイは弾圧を受けた
のであるが
それが官学の位置を占めると
秩序からの逸脱をチェックする思想として機能しがちになった。
これは革命思想のマルクス主義が
国是となったとたんに統制思想に早変わりしたのに似ている。
・仁斎学と朱子学の対比
1
朱子学は四書が中核
仁斎は論語と孟子が絶対の典拠。
2
朱子学が義理(意味)、文勢(血脈)、事証の読書法を示したが
仁斎は意味と血脈によって論語と孟子を一貫して解釈しようとした。
3
朱子学が天道についても持論の理気論を展開したのに対し
仁斎は天道については
一元気の生生
のみを唱えた。
4
朱子学が天道と人道を一貫する道(理)を強調したが
仁斎は学の綱領として
性、道、教をあげたうえで
道を人道に限った。
5
朱子学が性を本然の性と気質の性に分けたが
仁斎は性を気質の性とした。
6
朱子学が詩経の詩で作者と読者の分離を掘り起こしたのに対し
仁斎は詩経の経書としての意味を読者側に帰した。
7
朱子学が易経を占い書としたが
仁斎は易経を道徳を説いた書として
占いに関係する部分を否定。
朱子学が大学と中庸を駆使して形而上的思考を繰り出すことを
仁斎は両書を否定して阻止。
なお仁斎は大学は
朱子学でいうような孔子および弟子の曾子の語を記した書物ではないとして否定するが
中庸については論語と孟子の内容に合致するところにのみ意義を認める。
あくまで論語と孟子が典拠で
特に論語は
最上至極宇宙第一の書
とまでたたえられた。
なお実際には論語と孟子とでもずれがある。
朱子学も陽明学も自己の心に理があるとしたからこそ自力主義が説けたのだが
仁斎は自力のみで自分を高められるとは思わない。
自分の心をいくら探っても性が単なる生まれつきだけである以上
そこから進みようがない。
必要なのは
最初から他者の中に自己を投げ入れ
それと同時に他者から自己に投げかけられる視線も共有することで
道を獲得していくことなのである。
仁斎が
十人が十人わかり行えるのが道であることを再三強調する。
・仁斎と対照的な存在が山崎闇斎である。
両者は京都で道路を隔てて塾を営み
文字通りライバル的存在だったことが有名。
・朱子学の有名な仁の定義に
仁は愛の理、心の徳
という語がある。
愛の理とは
愛という理ではなく
愛という形で発言する理
である。
朱熹は愛をそのまま理とすることを激しく否定。
人の心のうちの性の部分は理であって、
具体的に仁義礼智=四徳である。
心のうちの情の部分は気であり
具体的に愛、宜、恭、別=四端。
孟子では惻隠、羞悪、辞譲、是非
と表現されている。
気であるというのは
情とは心の具体的な動き
つまりエネルギーの発動であって実感できるものだからだ。
その情には情を情たらしめている理=性があり
それが仁義礼智。
相互関係は
愛ー仁
宜ー義、
恭ー礼
別ー智
であり
仁は愛に対応する理となる。
朱熹は仁をそのまま愛とすることを拒否し
愛に対応する理とする。
対して
仁斎は朱子学の理気論を否定し
仁を愛と断言。
・朱熹は仁と孝悌が次元を異にすることを明確にする。
仁は愛の理(愛という形で発言する理)
であり心の徳。
仁は人の心に具わる四つの徳の中の一つで
四つの情のうち愛に対応する理
という意味。
朱熹は
仁を性=理
愛を情=気
とし両者の相関を説くとともに
仁をそのまま愛とする混同を戒める。
孝悌は具体的な心の動きであるから
仁とは次元を異にしていなければならない。
朱熹は仁と孝悌を
性と情
体と用の関係だとする。
孝悌はあくまでも仁を具体的に実践するときの現われの一つであり
仁そのものあるいは根本ではないとする。
朱熹
心と宇宙を包括的関係でとらえ
心に具わる理を原理化
仁斎
日常実践道徳こそが道の本質
(朱熹を否定)
荻生徂徠
社会全体の組織や制度を見る視点を持つのが
儒教の本質
(仁斎は個人道徳しか考えていないとする)
徂徠にとって
仁斎のように日常道徳のみにかかわるのがなぜ問題なのかといえば
日常の個々の場でのあり方は
社会全体のシステムの把握を抜かしては見通せないから。
(戦術と戦略の関係を思い出す。
個々で見れば善行でも
全体で見れば悪行である場合がある)
徂徠は仁斎と同じく
性を気質の性とし
それぞれの人間の生まれつきは変わらないとする
気質不変化を説いた。
二人とも朱子学の問題意識と用語を使って自己の思想を開陳する。
・江戸時代に朱子学が基礎教養化した。
江戸時代は朱子学のみが圧倒的勢力を持っていたわけではなかった。
儒学の経書の代表である四書の知識は江戸時代で文化的活動をするさいに必須。
この四書というくくり自体が朱子学のものであり
四書の最もスタンダードな注釈書が
朱熹の『四書集注』だった。
この本の江戸時代の発行部数は膨大。
朱子学の歴史書といえば
『資治通鑑綱目』であり
本書は朱熹が計画し
後学の手になった大分な歴史書。
北宋の司馬光の資治通鑑の歴史観を修正し
それにあわせて整理しなおした歴史書。
江戸時代に作成された歴史書に規範としての大きな影響を与えた。
林家の儒者たちが作り幕府が発行した『本朝通鑑』の手本は資治通鑑の方が
『資治通鑑綱目』も強く意識されていた。
対して
水戸で作成された大日本史は紀伝体を採用しながらも
『資治通鑑綱目』を手本の一つとする。
朱子学の正統論が幕末の尊王の思潮の母胎。
・三国志にて
資治通鑑では魏が正統、
朱熹は蜀が正統としたのは有名。
正統論で重要なのは
1
天下には王は一人しかいない
2
その王に万人が忠誠を尽くす
この一君万民は必ずしも常に日本の常識ではなかった。
対して中国の正統論は朱子学に限らず
王は一人しか認めない。
正統論は中世対象として一つの政権しか認めない、
つまり一君万民。
朱子学では天下統一して二代続けば正統。
つまり焚書坑儒した秦も正統。
儒教的には暴君の王朝として有名な隋も
文帝、煬帝と天下を二代にわたって統治したので正統。
(朱熹の正統認定表などがそのまま載っている
[筆記][歴史][江戸時代][儒教]土田健次郎『江戸の朱子学』筑摩選書
https://katawareboshi01.g.hatena.ne.jp/mori-tahyoue/20150106
をどうぞ)
三国では蜀が正統なのは
蜀は漢(これも正統)の王族だから。
蜀の正式名称は漢。
朱子学では正統王朝が地方政権になっても王朝を継承しているなら正統。
別に蜀の劉備が人格者だったからではなく単なる継承の問題。
朱子学では天下統一し二代にわかり継続したことは
天がその王家に天下統治の命令を降した証拠。
簒賊は
帝位を簒奪し正統を侵犯して次世代に伝えなかった者をいう。
次世代につなげられないと正統ではなく簒賊。
皇統論
かかる正統論を日本に当てはめると、
最初に日本を統一して二代以上継続したのは皇室であり、
しかもその皇室が地方政権になっても存続はしているのであるから、
皇室こそが正統ということになる。
ここで特に重要なのは、朱子学の正統論においては、現実に全国的な権力を握っている政権よりも、
地方政権に落ち込んでいても以前の正統の王家を継承するものがあれば、
そちらの方を正統と認定することである。
必然的に忠誠を尽くす対象は天皇に帰結する。
道統
とは天下に覇ただ一つの道があるという議論。
道統こそ万人が従うべきもの。
丸山真男氏は
山崎闇斎学派の正統論を論じた際に
正統を次の二つに分けている。
1
教義・世界観を中核とする正統
Orthodoxyと
2
統治者または統治体系を主体とする
正統Legitimacy。
中国式の正統論では
1は道統
2は正統
となる。
朱熹の道統論では
堯舜禹の三代と殷湯王、
周文王と武王まで道が伝わり
それを継承したのが孔子とする。
孔子以後は曾子、子思、孟子と伝わった。
しかし孟子以後は暗黒時代が続き
再び明らかにしたのが北宋の周敦頤 (しゅうとんい)
と程顥 (ていこう) と程頤 (ていい)。
彼らの思想を引き継いだのが朱熹自身。
武王までは王者であり正統でもあった。
孔子以後は道統と正統が分離する。
ところで先に述べたように北畠親房は三種の神器を徳の象徴とした。
それを直接的に『中庸』に出てくる
知、仁、勇という「天下の達徳」に割り当てたのは
一条兼良『日本書紀纂疏』であるが、
兼良の場合は同時に仏教の般若、法心、解脱にも当てているのであって、
儒教的にしぼりこんでいるわけではない。
それが江戸時代になると、
儒教の「天下の達徳」に一本化する議論が多くなる
(たとえば山鹿素行『中朝事実』神器章など)。
三種の神器は徳の象徴であり、
それを伝える天皇は徳を伝える存在なのである。
朱子学流にいえば
正統である皇室が
道統をも請け負ったことになりこれが皇統である。
(『日本書紀纂疏』(にほんしょきさんそ)という
『日本書紀』の注釈書を一条兼良が享保6 (1721) 年に出したのが重要。
日本書紀は偽書ではないと今は考えている。
古事記は偽書だと今は考えている。
太安万侶の墓が都合よく見つかったからといって
古事記が偽書でない証明にはならないので注意。
太安万侶が実在の人物である可能性が高まっただけ。
墓誌発見で偽書説は否定されたか。
http://www.geocities.jp/yasuko8787/o-010.htm
”墓誌が発見されたことで、太安萬侶の実在は証明されたが、
墓誌は古事記については何も書いてないのだから、
『古事記』偽書説の否定にはつながらない。
新聞や週刊誌がこのような「墓誌発見=『古事記』偽書説の反証」という発言を伝えると、
多くの人が疑問も持たず、そういうものだと思い込んでいることが、問題である。
なお、太安麻呂という名は、続日本紀に5回も登場する。
しかし、『古事記』撰録についてはなにも書かれていない。”)
かかる皇統の存在は、中国や朝鮮に対する優位と認識された。
それには正統と道統の両者をあわせもち、しかも万世一系ということが大きかった。
朱子学の正統論は日本にあてはめると必然的に皇統重視に帰結する。
儒教が認める帝位継承方式は
1
世襲
親から子へ
2
禅譲
高徳の君主から高徳の臣下へ
3
革命
極悪の君主から有徳の君主へ
これだけは武力を伴う
ただ現実の権力の頂点に立つ将軍こそが日本の正統なる支配者であるという見方のほうが
当初多かったのは当然。
朱子学者でのごく代表的な例のみあげれば
新井白石が朝鮮との関係を対等にするために
将軍の称号を日本国大君から格上げして
日本国王に改めようとしたのは有名であり
また山崎闇斎学派の佐藤直方も皇室を正統と認めていない。
江戸時代は幕府、藩、天皇という複数の権威の均衡によって
調和を保っていたがその構図が崩れ
天皇一尊の尊王思想へと傾斜していくには朱子学的教養が作用していたが
それに拍車をかけたのは外国からの圧力。
・朱熹は人情を全面的に否定しているのではない。
親孝行の徳は親に対する人情をベースにしている。
朱子学では人情が理を逸脱することを警戒するのであり
それが人情の自然な発露に対する消極的な姿勢となって現れる。
・伝統的な易経解釈には
1
象数易
易経には必ずしも書いていない
象
(無数に存在するこの世界の事象を
易経に出てくる具体的事物に象徴させたもの)や
数
(宇宙の数理)
の体系を導入して易経を解釈。
天文学や暦学などが援用され
一種の宇宙論的広がりを持つ。
2
義理易
易経の本文から思想を抽出し解釈。
道家的立場と儒家的立場のものがある。
易経は本来は占いの書であるが
歴代注釈者たちは実際占いで使用する書物という以上に、
そこから宇宙の理法や宇宙に即した人間の生き方の理論を引き出そうとした。
象数易も易経本文の内容を問題にするし
義理易も易経本文にすでに象や数の議論が入っている以上
象数易の要素も入っているのであり
全体の方向性で分けられるということである。
朱熹以前にこの二つの方向性の違いがはっきりと自覚されていた。
朱熹はあえて易経は実際に占いをするときに使用する書物とした。
易経の中核部分は占いの結果が出た時
該当箇所を見てなすべき行為を決定するための文章。
朱熹は繋辞伝をはじめとした部分は理論書としての性格を認めてはいたし
象数の体系には強い関心を持っていた。
対して
仁斎は占いを全面的に否定する。
仁斎は易経を
儒家の易と
筮家の易
(卜筮(ぼくぜい)で占う者の易)
の部分を分け
そのうえで
筮家の易を否定。
仁斎にとっては占い自体が否定すべきもの。
占いは未来の結果を予知したうえで自分の行動を決定するもの。
これは功利的な思考であり
結果などは気にしないでただ行為の善悪のみを問題にする姿勢とは背馳する。
仁斎は孟子の義利の弁、
つまり道義と功利の弁別に重きを置いた。
仁斎は
動機の道徳性の尊重と
占いは矛盾すると指摘。
もし占いをしてその結果次第で行為を決定するとなると
道徳性が関与する余地はなくなる。
そこで朱熹は
占い結果として得た卦辞や爻辞の文章は
有徳者あるいは正しいものであればそのまま妥当するが
徳がない者とか不正の者の場合はそうはならないとする。
朱子語類より
「人がはっきりと道理を認識できていたならば、
いまさら占いをする必要はない」
同書より
「人が卜筮で疑惑を決するより、
道理として為すべきなら、
もとより為すべきだし、
道理として為すべきでなければ、
もともと為すべきではないのであって、
それ以上占いを用いる必要があろうか。
ある種の事で、
吉か凶か道理の岐路があり、
対処しきれぬ時、
占いを行うのである。
放火、殺人、汚職などといったことは、
ともかく為すべきではないのであって、
まさか占いなどはしまい。
また官吏になって汚職や追従、不正な昇進なども、
まさか占いなどはしまい」
朱熹自身、生涯二回しか占った形跡がなく、
しかも両方とも弟子が占筮し、
そのうち一回は朱熹本人すらその場にいなかった。
晩年のいわゆる慶元偽学の禁の中で
あくまで中央で節を通してがんばるか
退いて教育と著述に励み道を伝えるかのいずれかを選択する段になって
占いをたてた話は有名であり
そのときはこの二回のうちの一回
(当人がその場にいたが実際に占筮したのは弟子)にあたる。
朱熹は占いと道徳の背反する関係に気がついていた。
仁斎は朱子学の易経観を否定するに至った。
・朱熹の経書解釈方法
以下の三者がそろってこそ経書の十分な理解ができるとしている。
1義理(意味)
2文勢(血脈)
3事証
義理
とは個々の語の意味と特に思想的含意
文勢
とは文の流れ
文脈に違い意味だが
同時にそこには道の顕現という意味も付随
事証
とは傍証
個々の語の内容、文脈、文献上の傍証がそろうことを
朱熹は要求する。
(語の意味
文脈上の意味
根拠となる記述
この三つは真に重要な基本中の基本なので早速実践すること!)
・朱子学は本来神秘的要素を受け付けにくい思想。
日本では朱子学は神道と直接結合した。
神道側が仏教から独立する過程で道学的なものを利用してきたが
同時に朱子学という外来思想が日本思想として土着されるときの一つ現われでもあったと思われる。
・朱子学の鬼神論
朱子学の鬼神についての議論をまとめたのが
朱熹の弟子の陳淳の『性理字義』の鬼神の条。
鬼神を次の四項目で整理している。
1 鬼神本意(本来の意味)
2 祭祀祀典(祭祀の原理としての鬼神の側面)
3 淫祀(鬼神をもちだす民間の迷信の否定)
4 妖怪(妖怪としての鬼神の否定)
朱子学が認めるのは祭祀の原理としての鬼神とか
宇宙の霊妙な作用としての鬼神とかであって
民間信仰や新興宗教に出てくるような鬼神は否定。
陳淳の議論であるが朱熹の鬼神論とずれているわけではない。
朱熹が鬼神を張載 (ちょうさい)の
「鬼神は、二気(陰陽)の良能なり」という語と
テイイの
「鬼神は、造化の迹(あと)なり」という語をもとにすることは知られている。
またテイイ
「功用を以て之を鬼神と謂う」もよく引用される。
これらはいずれも陰陽、天地の作用のこと。
鬼神は陰陽の気のすぐれた働きであり
気による宇宙生成の一つのあらわれ。
テイイの造化の迹(あと)とは天地創造の一端が具体化したものということであり
自然の運行のこと。
朱熹の基本的立場は鬼神とは陰陽の二つの気の働きにすぎないとし
鬼神は気にほかならない
とまで言う。
鬼神を陰陽の霊というように
霊妙な働きではあるのだが
しかしそれも結局は陰陽の範囲を出ないのであって
それを超越する人格神的なるものは登場しない。
朱熹の鬼神論は中国思想史の中では神秘的要素を最小限にとどめる傾向。
朱熹は孔子などの聖人に対する信仰をもち
何回も雨乞いの祈祷を行い
儀礼を重視したが
人格的神なものを設定しない。
朱熹は神秘的現象を宗教的に拡張していくことを警戒。
朱熹は天には人の罪悪を批判する天帝は存在しないという。
朱熹は孔子を祭るときに孔子の塑像を安置することには否定的。
確かに祭祀を行うときは霊魂が感応することもあるが
それはいくら霊妙であっても結局は気の感応なのであって
そこから人格神的存在が常に独立して存在するわけではない。
朱熹は古人が壇を作って祭祀をするとき、
その心が気の感応を引き起こすものの、
祭祀が終われば散るだけであって、
それを今人が神像を作ったりしているのは誤っているとする。
霊妙な現象が起こってもそれは祭祀のときだけで
常に霊的な人格神が独立して存在しているのではないので
神像は無用。
朱熹は鬼神を重視せず
把握が容易でない鬼神にかまけることを戒める内容が多い。
追求すべき事物の理は
もっと生身の人間にとって切実であり
明確な理解が得られるものに求められるべきなのである。
朱熹は鬼神を最重要事ではない
第二著(二番手)の問題とする。
(まともな陰謀追及者
は私が知る限り全員、
朱子学と同じく
鬼神=形而上の霊的存在
に執着せず二の次。
まずは
物的証拠=形而下
を最優先。
対して
形而上を最優先にし
形而下の物証を二の次にする者は
平気で藁人形する者が多い。
形而下がなければ形而上を考察することは不可能なのに
形而上の妄想に基づき
ひたすら物証と異教を曲解し続ける。
真理や真実を連呼するが
事件の真相からはどんどん遠ざかる
ヤソと新ヤソ系の魔境中毒者。
後者の形而上を最優先にし物証を曲解する藁人を
陰謀論者=無自覚含め工作員
だと定義する。
朱熹は人格神を認めず
神像崇拝も否定し
形而上に執着するなと説く。
∴ヤソ(ゴッドは人格神)と新ヤソ(形而上精神世界)が朱子学を叩く。
ネット記事つまみ食いで食中毒キメるのも藁人の特徴。
本書は朱子学の解説だが朱子学以外の重要知識も増える良書であり
ネット情報に頼る弊害を痛感する。)
・中国の霊魂論としての鬼神論は観念的な議論の場ではなく
祭祀と連動している。
儒教の祭祀は神主(木主)つまり位牌が中心。
神主に魂を乗り移らせる。
霊魂は魂(陽の気)と魄(陰の気)に分かれ
魂は神主に移り
魄は墓にとどまる。
廟に安置した神主に遺族が祈る。
子供は親の気を受け継いでいるから実の子であれば必ず祈りによって
親の魂は活性化する。
それは
父子一気
だから。
中国や朝鮮で養子を嫌がるのはそのため。
日本に神主が入ってくるのは南北朝時代頃と言われていて
それも仏教の位牌としてだった。
本来輪廻転生の仏教に位牌はない。
儒教の影響で宋代頃に取り入れられたと言われる。
位牌が日本で一般的に普及したのは江戸時代中期とされる。
朱熹は父祖の気と子の気が感応することには絶対的な確信がある。
朱熹は気は馬、理は馬に乗る人とした。
理には運動因はない。
本書の著者の比喩では
理は線路
気は電車。
・神道家で儒教の教理を受け入れる者は江戸以前からあり
中世の伊勢神道や吉田神道はその代表であるが
それは仏教からの独立のために儒教
場合によっては道教の文献を引くという性格のものであって
朱子学とそれ以外の思想を明確に区別しているわけではない。
(儒家神道は日本的に変形させた儒教)
神道では
心は神明の舎
という語を重視するが
山崎闇斎も重視する。
闇斎の神道の師といえば第一に吉川惟足。
神道と仏教には伝授があるが
朱子学にはない。
経書の権威と人の心の普遍性をもとにして
誰でも道に参与できる立場から道の公開性を強調。
・王学(陽明学)左派とされる李贄(リシ 李卓吾)
は、外的規範よりも心の持つ実感力を重視する王陽明の思想をさらに押し進め
全ての価値判断の根拠を限りなく心の実感に一元化していく。
有名な童心説では
まだ借り物の既成の価値観や通念に染まっていない
絶仮純真、最初一念の本心
である童心こそが真心であり
それが経学だの常識だのを学ぶことによってくらまされていくとする。
「六書、論語、孟子は道学の口実であり
偽物の溜まり場である」と言う。
(ここまでくるともはや儒教ではないのでは?
ルソー教と仲良くできそうな思想だな!
既成の価値観や通念なしの童心のままだと
体は大人、心は幼児になるので
気に入らないとすぐ泣きわめいたりするのでは?)
幕末の陽明学には
良知帰寂派(右派)、
良知修証派(正統派)に心を寄せる者が多く
良知現成派(左派)には批判的であった。
例外的に左派を好んだ者が
東沢瀉(ひがしたくしゃ)、奥宮 慥斎(おくのみや ぞうさい)、吉田松陰。
(奥宮慥斎
おくみやぞうさい
[生]文化8(1811)
[没]1877
佐藤一斎に学ぶ。弟子に中江兆民。
李贄と(東洋の)ルソーはつながっている)
参考資料
今のところなし。
お読みくださり感謝!
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