※ 本エントリは、第21回マルチスピーシーズ人類学研究会/ステム・メタフィジック研究会共催「『実在への殺到』の波紋」(2018年10月21日、立教大学)での配布資料と、口頭発表のために用意した発表原稿とを合わせたものです。実際の発表は、ここに書かれていること若干異なっていることをご承知おきください。
仏教学からの応答
重力に抗する哲学
普段から仏教哲学に対して言及されている清水先生に対して、あるいは清水先生がお書きになった『実在への殺到』に対して、仏教あるいは仏教学から応答するということを考えたときに、まず私が想起するのは、仏教がこれまでもしばしば、西洋哲学の諸伝統、あるいはそのときそのときの「現代思想」と対比されてきたことです。そのなかの一部では、仏教がある種のオリエンタリズムとして消費されたり、逆に仏教側がしばしば「西洋哲学が言っていることは、1000年前に仏教がすでに言っている」みたいなことを言ってドヤ顔をしたりする、ということが繰り返されてきました。
資料1は、『実在への殺到』でもとりあげられている、ナーガールジュナの空の論理が近現代の研究者によって、様々に解釈されてきたことを述べたものです。
1. 彼〔ナーガールジュナ〕は、ロシアの偉大な仏教学者シチェルバツコイ(一八六六〜一九四二)にとっては新カント派的絶対主義者、ポーランドの早世したインド学者シャイエル(一八九九〜一九四一)にとっては神秘的懐疑主義者、インドの仏教学者ムルティにとっては不二一元論派ヴェーダーンタ的絶対主義者、我が師ワーダーにとってはイギリス経験論的反形而上学者、スリ・ランカ出身の仏教学者カルバハナにとっては論理実証主義者、そして、晩年のマティラルがそうであったように、最近の一部の研究者にとっては、デリダ流のディコンストラクショニスト(脱構築主義者)…(桂紹隆『インド人の論理学―問答法から帰納法へ (中公新書)』、p.142)
このように多様な捉えられ方をするというのは、ナーガールジュナの著作がまさに古典であるという証拠だと思いますが、ここで私たちがとるべき態度は、誰の解釈が一番正しいか、ということではなく、仏教からどのような哲学的な含蓄のようなものを引き出せるか、そしてそれに基づいて如何に仏教のテキストを読み直すことができるか、ということだろうと思います。その意味では、ナーガールジュナは、文献学的な読解と哲学的な読解との往復が盛んに行われた、幸運な事例と言えるのかもしれません。
また2は、デリダが来日した際に、日本人から「仏教思想、道元の禅、こういったものがすでに〈脱構築〉なのだ」と言われた、というドヤ顔の歴史の一端を示したものです。
2. デリダ来日時「仏教思想、道元の禅、こういったものがすでに〈脱構築〉なのだ、と日本人に言われることがよくあります。」(森本和夫『正法眼蔵入門 (朝日選書 (290))』朝日新聞社、1985)
現在でも、マルクス・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)』がヒットしたことを受けて、ブログやツイッターでは「マルクス・ガブリエルの言っていることは1000年以上前に仏教がもう言っているぞ」「マルクス・ガブリエルは仏教を勉強して出直してこい」みたいな発言も見かけるようになりました(そういうツイートをTwitter上で見つけたので、この発表で紹介してやろうと思って「いいね」を押しておいたんですが、それが悪かったのか、いつの間にか消されていました)。
専門外なので実態はわかりませんが、このような断絶は、西洋哲学の諸学派のあいだでもあったのかと思います。他の学派に対して「あいつらはわかってない」「うちではとっくにそんなこと議論しているぞ」みたいなことを言うのが繰り返されてきたのではないでしょうか。
一方で現在、グローバル化などを背景として、西洋哲学と仏教に限らず、世界の哲学的諸伝統間の対話、あるいは哲学のダイバーシティが言われるようになってきています。資料3には友人の護山真也さんが、最近出た『現代思想 2018年10月臨時増刊号 総特集◎仏教を考える』で書いておられたものから一部引用しておきました。
3. 西洋哲学との対話のなかで、仏教の古典的な議論は新しく読み直される。従来の仏教研究が文献実証的なスタイルを重んじ、個々のテキストの地域的・歴史的文脈を重視してきたのに対し、領域横断的な研究においては、思想史的背景をある程度まで捨象し、各々の議論に潜在する哲学的意義を最大限に引き出すことが目指される。分析哲学や現象学、あるいは認知科学などをステッピングボードとして仏教の議論を―その伝統の重力に抗して―できるだけ高く飛翔させること……。(護山真也「仏教哲学の可能性 無我説をめぐる西洋哲学との対話」『現代思想 2018年10月臨時増刊号 総特集◎仏教を考える』、2018)
マルクス・ガブリエルなども、分析哲学と大陸系哲学との断絶に対して否定的な考えを述べたり、また東洋大学での講演で「グローバル哲学」ということを主張しています(もっとも、ガブリエルは理性の単一性、理性の普遍性を念頭に置いて「グローバル哲学」ということを述べており、それについては議論の余地があるかとは思いますが)*1。護山さんが言うように、日本の仏教学は文献学的な研究が強すぎて、哲学研究の一員として、哲学者とともに何かを考えるという機会が乏しかったように思います。あるいは、ヨーロッパにおける仏教学のように、文献学者と哲学者が共同研究をする、というようなこともほとんど行われていないように思います。
これまで、東西の哲学的伝統を比較することを目的とした研究組織として、インド哲学研究の泰斗、中村元先生が中心となって設立した比較思想学会があります。この学会は、資料4にあげた設立趣意書に「ヨーロッパ的諸学問がならびにその思考方法が、ヨーロッパ自体においても問いただされ、大きな転換点に立っている」とあるように、西洋がダメになってきたからこれからは東洋だ、というような、西洋対東洋、ヨーロッパ対アジアのような二項対立的な時代認識が見て取れる点で、現代からみればやや前時代的だとは思います。
4. 最近、学問の諸分野において、一つの専門領域に固定することなく、たがいに協力して共通の問題に取組み、研究の展開と問題の解決に努める、いわゆる学際的傾向が顕著であることは、あらためて指摘するまでもない。また、われわれがとりわけ明治以後急速に摂取し不可欠の学問的支柱としてきたヨーロッパ的諸学問ならびにその思考方法が、ヨーロッパ自体においても問いただされ、大きな転換点に立っていることも、すでに周知の事実となっている。(比較思想学会「設立趣意書」)
しかし、そのようなことを差し引いても、古今東西の様々な哲学的伝統、あるいは『実在への殺到』に見られるように、仏教や人類学の知見なども総動員して何かを考える、という態度をとるのであれば、比較思想研究、比較哲学研究の今日的意義は大きいと思います。
今回、『実在への殺到』を含めた清水先生のお仕事を拝見していて改めて思うのは、資料3の言葉を借りれば「伝統の重力に抗して」「領域横断的」に議論をつなげていくことで、新しい哲学的視野が開けるのだ、という可能性を示してくださった、ということです。「グローバル哲学」に賛意を示すマルクス・ガブリエルは、『意味の場』(2015)の脚注のなかで(グレアム・プリーストに言及する文脈で)ナーガールジュナにほんの少し言及しており、また来日時のインタビューで西田哲学への言及をしていますが、全体としては「グローバル」とはとても言えず、欧米の哲学以外についてはごく補足的に言及するにとどまっていると思います。
一方『実在への殺到』においては、人類学の存在論的転回と総称される近年の成果に加え、第4章でメイヤスーを論じるなかでナーガールジュナのテトラレンマをとりあげ、また第9章をはじめ、本書全体にわたって西田幾多郎に言及しています。これは、西洋哲学の内容を代弁させるために仏教哲学を引用するであるとか、西洋哲学の議論の正当性を高めるために人類学の成果を参照する、というようなものではなく、西田哲学がそうであったように、それらの諸成果をすべて駆使することによってしか到達し得ない哲学的な問題の解明にとりくみ、そして少なからず成功しているようにも思われます。本書でとりあげられる仏教哲学はナーガールジュナぐらいになりますが、最近出た『脱近代宣言』で華厳思想の事事無礙法界などにも言及されており、今後その範囲は拡大するのではないかと期待しております。
また、清水先生は『脱近代宣言』のような他のお仕事で、現代アートや情報工学へと参照範囲を拡大されているように思います。このような実践は、単に関心が広いと言うだけではなく、「重力に抗する」ために必要な戦略なのではないかとも思われます。
仏教思想の非ホーリズム的理解へ
ここまでは、『実在への殺到』という書物が持っている方法論的な意義、と私が思うものについて述べてきましたが、ここからは仏教について研究する仏教学という学問分野に対して『実在への殺到』がもたらすであろう新たな可能性について、思うところを少し述べたいと思います。
『実在への殺到』が仏教哲学・仏教思想の理解にもたらすものはいろいろあると思いますが、今回は、
- 仏教思想の非ホーリズム的理解
- 仏教の人間中心主義批判の再発見
の2点について、述べたいと思います。
仏教思想研究では、漢文やサンスクリット語で書かれた文献を、文献学という方法で読み、その思想を読み解く、ということをします。文献学は、しばしば厳密で客観的な学問だ、みたいな言い方をするんですが(それはある程度あたっているんですが)、実際にはかなりいろいろな思想の影響を受けています。資料5にあげましたように、文献学自体がキリスト教的な思想をバックボーンに持っておりますし、また文献の内容を解釈する場合にも、研究者はいろいろな思想の影響を受けております。
5. 近代以降の日本の仏教学は、明治期に輸入されたヨーロッパの文献学をその方法論的支柱の一つとしている。よく知られているようにヨーロッパの文献学は、グーテンベルクによる印刷技術の発明と、それに連動した宗教改革における「ただ聖書のみ」という原理、そしてそれを裏付けるための聖書の「オリジナル」の探求など、宗教的、メディア論的な背景を有する。このような由来を持つ文献学を用いて、それとは異なる伝統をもつアジアの思想的文献を読解しようという営みは、それ自体が一つの比較思想的事態である。(拙稿「言語論的転回以降の東アジア仏教研究の試み」『比較思想研究』掲載予定)
資料6にあげましたのは、仏教学者への影響が割と大きいのではないかと思われる、井筒俊彦氏の華厳教学理解です。
6. 「事」は存在の差別相であり、事物分節の世界。この分節の世界は、「分節以前」としての「理」を、己れの現出の本源として反照する。…「理」はなんの障礙(さまたげ)もなしに「事」のなかに透入して、結局は「事」そのものであり、反対に「事」はなんの障礙(さまたげ)もなしに「理」を体現し、結局は「理」そのものである…。「理」と「事」とは、互いに交徹し渾融して、自在無礙。この「理」「事」関係の実相を、華厳哲学は「理事無礙」という術語で表わすのです。…華厳存在論は、「事事無礙」のレベルに至って、ものには「自性」はないけれども、しかもものとものとの間には区別がある、と主張する。つまり、Aは無「自性」的にAであり、Bは無「自性」的にBであり、同様に他の一切のものが、それぞれ無「自性」的にそのものである、というのです。…すべてのものが全体的関連においてのみ存在しているということ。つまり、存在は相互関連性そのものなのです。根源的に無「自性」である一切の事物の存在は、相互関連的でしかあり得ない。…すべてがすべてと関連し合う、そういう全体的関連性の網が先ずあって、その関係的全体構造のなかで、はじめてAはAであり、BはBであり、AとBとは個的に関係し合うということが起るのです。(井筒俊彦「事事無礙・理理無礙」1985)
よく知られているように、井筒俊彦氏はイスラーム神秘思想などの研究者ですが、「東洋哲学の共時的構造」といった言い方でイスラームやインドの神秘主義、老荘思想などの中国哲学、そして禅や唯識・華厳といった仏教思想に共通する思想を取り出そうとした人です。先ほどの言い方をすれば、「伝統の重力に抗して」「領域横断的」に哲学の研究をしようとした、という意味では偉大なる先達だと思います。
しかし、その東洋思想理解は、清水先生の用語をお借りして一言で言えば、「ホーリズム」なんだろうと思います*2。資料6は、『華厳経』という大乗経典や唯識思想をベースに、中国の法蔵らが体系化した華厳思想を、イスラーム神秘主義と対比させながら、解説、というか拡大解釈する論文です。ここでは華厳思想のなかでも有名な理事無礙法界、事事無礙法界という思想の解説をしているのですが、井筒氏は私たちが見ているこの世界、華厳思想で言われる「事」の世界の向こう側に、井筒氏の言葉を使えば「絶対無分節者」の世界、言語によって分節される前の世界、華厳思想で言えば「理」の世界、カント的に言えば「物自体」的な世界がある、といいます。私たちが見ている「事」がこの世界に「現出」するための「本源」として、言語によって分節される前の「理」の世界が存在し、それが「事」のなかに「透入」している。「理」から「事」が発生し、「事」のなかに「理」が入り込んでいるので、お互いに障礙(さまたげ)がない。このような状態を「華厳哲学は「理事無礙」という術語で表わす」というわけです。
では、「事」はどのようにして現れるかというと、「全体的関連性の網が先ずあって」、すべてのモノが相互関連というネットワークのなかで、ポストモダン的に言えば差異として一つ一つのモノ、「事」が存在する。そのように「事」がお互いに関係しあっているから「事事無礙」だ、と井筒氏は言っているのです。
井筒はデリダと同時代人で、しばしば交流があったことからもわかりますように、東洋思想研究の世界におけるポストモダニストの代表格、と呼んでもいいかもしれません。この世界は言語によってできている、言語の分節が世界を作り出しているのだ!みたいなことを言う仏教学の先生は現在でも結構多いのですが、多かれ少なかれこの井筒俊彦的な仏教理解を共有しているのではないかと思います。
一方で私たち仏教学者が、井筒俊彦氏のようなホーリズム的仏教理解や、『実在への殺到』などに見えるホーリズム批判などに触れた時に思い出すのは、1986年に「如来蔵思想は仏教にあらず」という論文を発表し、その後その研究が「批判仏教」という名前で呼ばれるようになった松本史朗氏の仏教理解です。資料7にあげたのは、松本氏がdhātu-vādaと呼んで、一部の大乗仏教に見られる思想的構造を図式化したものです。
7. このdhātu-vādaの構造は、以下の図によって示される。
ここで、“dhātu”とは、「置く場所」、つまり、基体(locus)[L]を意味し、“dharma”とは、「支えられるもの」、つまり、超基体(super-locus)[S]を意味する。従って、一切の存在は、図に示された通り、下にある基体[L]と上にある超基体[S]とに二分される。このdhātu-vādaの構造の特徴は、次の通りである。① LはSの基体である。
② 故に、LはSを生じる[原因である]。
③ Lは単一であり、Sは多である。
④ Lは実在であり、Sは非実在である。
⑤ LはSの本質(ātman)である。
⑥ Sは非実在であるが、Lを本質とするから、また、Lから生じたものであるから、ある程度の実在性をもつ。または、実在性の根拠をもつ。従って、dhātu-vādaとは、“単一な実在である基体(dhātu)が多数の法(dharma)を生じる”と主張する説であり、発生論的一元論とか根源実在論とか呼ぶことができるであろう。(松本史朗「如来蔵思想と本覚思想」『駒澤大学仏教学部研究紀要』63、2005)
dhātuというのは非常に多様な意味を持つ言葉なのですが、漢訳されるときは世界の「界」と訳されるもので、構成要素とかprimitiveなものとかの意味です。先ほど出した「法界」という用語はサンスクリットではdharma-dhātuというのが原語です。仏になるためのよりどころ、原因となる「仏性」という言葉がありますが(一切衆生悉有仏性というときの仏性です)、仏性の「性」という漢語も、原語はdhātuです。仏性はbuddha-dhātuです(おもしろいことに、このdhātuという言葉には、遺骨、舎利、あるいはそれらが埋葬されるお墓、ストゥーパなどの意味もありますので、仏性 buddha-dhātu はブッダの聖なる遺骨という生々しい意味もありますが、ここでは深入りしません)。vādaは英語だとexplanation, expositionみたいな意味で、ここでは説、学説ぐらいの意味でしょうか。ですからdhātu-vādaは、ダートゥ説ぐらいの意味です。
まさにこの図式は、先ほど見た井筒俊彦氏の華厳思想理解にも見られるようなホーリズム的構造を示すものだろうと思います。松本氏はこのようなホーリズム的構造を持つ思想はすべて、釈尊が説いた本来の仏教や、ナーガールジュナの空の思想、そしてそれを継承するチベットのゲルク派の思想とは異なるものである、と批判しました。
松本氏はバリバリの文献学者ですが、そのような文献学者によってこのようなホーリズム批判がなされたことは、再評価されてもよいように思います。ただ、松本氏は、ナーガールジュナなどを除く大乗仏教のほとんどをdhātu-vādaと呼んで批判してしまったので(それに対しては他の仏教学者からの批判があります)、この図式はあまり受け入れられておりません。松本氏がこの図式を打ち出して以降、これを発展させることなく繰り返しこの図式を提示するだけだったのは、もしかすると文献学者だけで研究することの限界だったのかもしれません。また、松本氏によれば華厳哲学などは、典型的なdhātu-vāda、ホーリズムということになってしまいますので、ホーリズムを肯定的に考えるか、否定的に考えるかはともかく、その仏教理解は井筒氏と共通していると言えるでしょう。
『実在への殺到』が仏教思想理解に対して貢献しうることの一つが、ホーリズム的なあり方と、相互包摂的な非ホーリズム的なあり方との違いを、仏教哲学などに言及しながら提示していただいた、ということだと思います。例えば、資料8にあげたのは、『華厳経』の一節です。
8. 仏子よ。たとえば一つの経巻に、三千大千世界、大千世界のすべてがことごとく記録されていたとする。…その三千大千世界等〔のすべてが記録された〕経巻が、一つの微塵〔原子のような極小の粒子〕のなかにあり、一切の微塵もまた同様であった〔とする〕。時にある人がこの世に現れ、その智慧は聡明であり、清浄なる天眼を完備していた。〔その人は〕この経巻が微塵のなかにあるのを見て、以下のように考えた。「どうしてこのような広大な〔情報量の〕経巻が微塵のなかにあり、生きとし生けるもの(衆生)の利益になっていないのであろうか。私はまさに〔巧みな〕手段によってかの微塵を破壊し、この経巻を取り出して生きとし生けるもの(衆生)の利益になるようにしよう」。(T278, 9, 623c27-624a11)
このような表現は、これまでは井筒俊彦氏的な、ホーリズム的な理解がされてきたと思います。仏教のなかには、華厳思想で言われる重重無尽な縁起の世界観であるとか、天台思想がいう諸法実相の世界観であるとか、唯識思想で言われるアーラヤ識縁起の世界であるとか、すべての存在は空であるのに様々なモノがなぜ、どのように存在するのか、という問題を理論化しようとしたものがいろいろあるんですが、その多くがホーリズム的に理解されてきたように思います。
しかし世界のすべてが、その世界の中にある一粒の微塵の中に入っている、という再帰的な相互包摂関係として理解すれば、それらを超越した全体は想定する必要がない、とも言えます。というか、これまではそのような理解の仕方を仏教学者は知らなかった(知らなかったわけではないですが、はっきりとした形では掴んでいなかった)ので、ホーリズム的にしか理解できなかったわけですが、これからはそれとは決定的に異なる理解の仕方が可能になった、という点で、『実在への殺到』で提示された考え方の転換は、大きな貢献となるのではないかと思われます。
仏教の人間中心主義批判の再発見
これに関連して、次に指摘しておきたいのは、仏教の人間中心主義批判の再発見のために、『実在への殺到』で示された哲学的視点というものが使えるのではないか、という点です。この点については、『実在への殺到』を最初に読んですぐにツイートしたところです。
もともと仏教が、人間中心主義であることは言うまでもありません。釈迦という人間が悟りを開き、人間に対して教えを説き、人間の集団によるサンガ(教団)を組織したわけですから、その言説が人間中心であるのは当たり前です。
一方で仏教は、資料9にもあげましたように、当時のインド社会では当たり前だった輪廻観、すなわち祭祀を通じて天界に生まれ変わることで、この人間界から脱出する、という天界をゴールとするような世界観を顛倒させ、天界も人間界と同じ輪廻の通過点の一つである、とすることで天界を特別な地位から引きずり下ろして、地獄・餓鬼・畜生・人・天という五道(後に修羅を加えて六道)が、輪廻というプロセスにおいては同じ地位にあるという考え方を打ち出しました。
9. バラモン教が祭式による天界への再生を目指していたことは先に述べたが、これに対し、仏教は、贈与(布施)とよい習慣(戒)による天界への再生を説く。…バラモン教と同様、仏教は神々が暮らす天界を階層的な世界としてとらえている。しかし、バラモン教においてブラフマンは最高神に位置づけられるのに対し、仏教では、ブラフマンは天界のなかでも中程度の位置に暮らしていると見なすうえに、そもそも神々は人間同様永遠不変ではなく、輪廻する存在に過ぎないと説く。(馬場紀寿『初期仏教――ブッダの思想をたどる (岩波新書)』、2018、pp. 32-33)
この五道・六道という考え方が面白いのは、没交渉な、異なる世界が5つないし6つある、という考え方ではなく、同じ時空間に複数の世界が重なっている、という設定になっていることです。地獄と天界は距離的に離れていますが、私たち人間界には、畜生界という動物の世界が重なっており、さらには餓鬼(祖先の霊のようなもの)という生き物の世界、餓鬼界も重なっています。
特におもしろいと思うのは、餓鬼道の捉え方です。レジュメに『餓鬼草紙』の一部を載せましたが、ここに描かれている人間と餓鬼は、同じ空間にありながらお互いを認識していません。この絵自体は人間の視点から描かれていますが、餓鬼にはまったく異なる世界が(描かれていませんが)展開しています。地面の高さなどは共通していますが、餓鬼にとって、人間界の水は餓鬼には膿であり、人間の食べ物は燃える炭です。
ここでのポイントは、人間界での見え方が正しく、餓鬼界の見え方が間違っている、というわけではないのです。同一空間を占めるモノを、水と膿、食べ物と炎というようなまったく性質の異なる、異なる属性を持ったモノとして共有する、という奇妙な事態が起きているわけです。
先日発売された『現代思想 2018年10月臨時増刊号 総特集◎仏教を考える』のなかに、北條勝貴さんの「異類の語る仏教伝来―『豊後国風土記』頸峯地名起源譚の背景を読む―」という論文が載っていますが、そこでは、仏教が人間中心の生命観をトランススピーシーズ的に転換した過程が論じられています。仏教には、そういった人間中心主義ではない世界観、生命観を打ち出していくための枠組みがビルトインされている、ということは、人類学の存在論的転回などがでてきたからこそ理解できるようになってきたのではないかと思います。
大乗仏教では三千大千世界みたいに複数世界、多世界が前提ですし、仏国土とよばれるブッダの世界も無数に存在します。それぞれの世界は、私たち人間の世界とはまったく異なり、『維摩経』などを読んでいますと、香りでコミュニケーション、説法をするブッダなど、SF的な世界が出てきます。
上のツイートで書いた「人人唯識」というのは、「人」と言っていますが生き物全般のことを述べたもので、生きとし生けるものがそれぞれ自分の世界(横山紘一先生は「一人一宇宙」みたいな言い方をしますが)を持っていて、部分的に共通する部分もあり、共通しないない部分もあり、それが重なり合っている事態を意味します。唯識は、カントの「物自体」のような単一の世界、真実の世界を必要としませんので(「唯識無境」といいます)、生きとし生けるもののそれぞれの世界は、どれが正しくてどれが間違っているということがありません。マルクス・ガブリエルの言葉を借りれば、生きとし生けるものがそれぞれ「意味の場」を持っていて、本当の「世界」は存在しない、みたいな感じです。それぞれの生き物が自分の「世界」の中に生き、同種の生き物の「世界」が重なり合って、人間界なら人間界が形成されている、ということになります。つまり、餓鬼界と人間界の重ね合わせを個体レベルまで推し進め、わたしたち一人ひとりが、同じ時空間にありながら、それぞれ別の世界を生きているというのが仏教的(唯識的)世界観のデフォルトなのだと思います。清水先生の言葉である「非ホーリズム的」という用語を使うことで、このあたりをクリアに説明することが可能になってきたように思われます。
六道輪廻とか餓鬼道と人間界との重ね合わせとかは、いわゆる仏教哲学的な議論において、これまで俎上に載せられることはほとんどなかったと思います。仏教哲学といえばやはり「空」とか、そういったものが中心で、六道などという考え方は、荒唐無稽な神話的なものであり、釈迦が当時のインドの伝統に配慮したもので、別にそれ自体は釈迦の悟りとは関係がない、という具合です。
しかしそれだと、仏教がインドの伝統的な輪廻観を受け入れつつひっくりかえしたり、トランススピーシーズ的なことをわざわざ言ったりした意味が理解し難いことになってしまいます。『実在への殺到』の「ヴィヴェイロス論」などで提示されている人類学などの知見を応用した世界の見方を使うことで、仏教で説かれる六道輪廻などを(奥野先生の言葉をお借りすれば)「真剣に受け取る」ことが可能になるのではないか、そしてそのような世界観が実は仏教の哲学的な議論の根底にあるのではないか、という気づきをいただくことができたと思っております。
ほかにもいろいろ『実在への殺到』から示唆をいただいたことはあるのですが、準備の時間がなく、今回はこの2点のみとなってしまいました。個人的には、『実在への殺到』の第9章で、西田の「矛盾的自己同一的に有るものは、自己自身によって理解せらるものでなければならない」という言葉を紹介され、それを「世界が世界自身を理解すること」とパラフレーズし、ウィリアム・ジェイムズやグレアム・ハーマンらと接続されていますが、このような「世界が世界自身を理解」し、それとともに世界が世界自身を再帰的に書き換えていく系として、唯識思想のアーラヤ識をとらえられるのではないかと前から考えておりまして、そのあたりを『実在への殺到』で整理され、提示された道具立てを用いて再検討できないかと思っております。
このような具合で、今回は不十分な発表しかできませんでしたが、今後は『実在への殺到』を導き手として仏教思想を読み直すとともに、「哲学的意義を最大限に引き出す」ような「領域横断的な」議論に貢献できることを目指すことができればと思っております。いろいろご指導いただければ幸いです。
*1:多様な哲学的伝統間の対話については、マルクス・ガブリエル(堀内俊郎・中島新訳)「グローバル哲学?」(『国際哲学研究』5、87-94、2016)、J. L. Garfield et al. “If Philosophy Won’t Diversify, Let’s Call It What It Really Is.” New York Times, 2016-05-16など参照。
*2:井筒俊彦の(ホーリズム的な)「絶対無分節者」に基づく「言語アラヤ識」等の諸概念に対する批判を、「井筒俊彦の「深層意識的言語哲学」をめぐって」(『Samgha Japan』13、2013)で試みたことがある。