囲碁・将棋とは異なる、チェスの二日制の話

  先ごろ行われた囲碁名人戦第三局に関して、こんな記事がありました。

www.asahi.comいわゆる「二日制」対局において、一日目の夜にコンピュータ解析の利用を防ぐため、部屋からスマートフォンが撤去されたそうです。

現代の囲碁の世界において、対局が中断した「指しかけ」の夜に対局者を除く外部の局面解析を利用することは良くないことだとされているようですね。

 

  一方、チェスの世界では違った考え方が為されているようです。囲碁、将棋とは少し違った、チェスの二日制の世界を覗いてみましょう。

 

1.チェスの「二日制」は必ず二日目に入らなくてもよい

  囲碁・将棋のタイトル戦では、「二日制」の持ち時間が設定されている場合、必ずといっていいほど二日間時間を使います。一日で指し切ってしまうと珍事件扱いです。

  一方、チェスの「Adjournment」は「時間がかかる場合は指しかけにして二日目に入る」という制度で、一日で指し切ってしまうことも珍しくありません。

  また、「Adjournment」にした場合でも対局を再開せずに投了、あるいは引き分けに合意して対局を再開することなく終局することもあります。

  1972年に行われたSpassky対Fischerの世界選手権タイトルマッチではAdjournmentとなった第21ゲームでSpasskyが電話を通じてアービター(審判)に投了の意思を伝えました。Spasskyが対局場に姿を見せないままFischerの勝利が宣言され、Fischerがマッチの勝者となっています。

 

2.中断中の助力

2-1.中断中の局面分析

  囲碁・将棋については、対局中断中に外部から助力を得ることについてはっきりしたレギュレーションがないようです*1。ただ、冒頭の「スマホ撤去」の記事を読む限り、現代の囲碁の世界では、外部からの助言、コンピュータ解析の利用は「よくないこと」と認識されているとみて良さそうです。

  では、チェスはどうなのでしょうか?19世紀末ごろの大会規約を読むと「Adjournment中の助言を禁止する」旨の規約が書き込まれています。*2

 

……ところが。いつしか、チェス界では「中断中は何をしても良い」という慣習が定着します。これは私の推測なのですが、「外部からの助力の禁止」を規則で定めても、大会主催者側が規則違反を監視することは不可能に近く、定める意味が薄い「助力禁止」の規則は消滅へ向かったのではないかと思います。

  1962年のチェス・オリンピアードでのエピソードはよく知られているところです。ソ連代表Botvinnikとアメリカ代表FischerのゲームはFischerやや有利とみられたポジションで中断されました。ソ連代表チームはBotvinnikのために中断された局面を分析。代表チームの一人、Gellerが引き分けになる筋を発見します。再開後の対局は引き分けとなりました。

2-2.コンピュータの利用

  指しかけ中にチームを組んで検討するのが当たり前だったこともあり、解析にコンピュータを用いることも行われていました。

  まだ総合的な強さではコンピュータが人間のトップに遥か及ばなかった頃から、コンピュータは局面解析に利用されていました。1975年、ソ連のトッププレーヤーであったDavid Bronsteinがチェス・コンピュータ「KAISSA」の開発チームに連絡を取り、中断中のゲームの局面解析を依頼したというエピソードが残っています。*3

  また、日本のトップ選手小島慎也さんのブログでは、小島さん自身の「中断」を挟んだ対局に関する記事を読むことができます。小島さんも中断中にコンピュータの解析を利用しています。小島さんのゲームが行われた時点で既に人類を追い越していたコンピュータですが、それでも「万能」ではないという点が面白いですね。

 

3.消えたチェスの「二日制」

  「チェスの二日制」の話をしてきましたが、ここで残念な事実をお伝えしなければなりません。

  現代のチェスの世界において「二日制」はほぼ消滅しています。

  チェス勢にとってはお馴染みのFIDEの公認競技規則、「Laws of Chess」最新版には「Adjournment(指しかけ)」に関する規定が残っているのですが、殆どの大会では一日で指し切る日程や大会個別レギュレーションが設定されています。日程の詰まった大会では、一日2ラウンド指す日が設けられることもあるぐらいです。

  チェス界最高のタイトルマッチである「世界選手権」が「Adjournmentあり」のルールで行われたのは1996年、KarpovとKamskyが戦ったFIDE世界選手権*4タイトルマッチが最後です。  

  2012年、ACP Golden Classicという大会で「Adjournment」が再導入されましたが、後に続く大会はありませんでした。*5

 

  「Adjournment」消滅の理由についてはっきり語られた記事、関係者のコメントなどは拾えなかったのですが、「Adjournment」の消滅はコンピュータの進歩と重なっているように思います。

  最後の「Adjournment」ありのタイトルマッチが1996年、コンピュータ「Deep Blue」がKasparovに勝ち越したのが1997年です。そして現代は、ラップトップが世界王者を上回り、オンラインで無償公開されている終盤7駒以下の完全解析データベースにアクセスできる時代です。

  コンピュータも万能ではないとはいえ、コンピュータが苦手とする一部の局面を除くと現代の「Adjournment」以降の対局は、「勝利の手順」「ドローの手順」を再現する儀式に近いものになります。それはチェスの競技性や娯楽性を損なうものになるでしょう。

*1:日本将棋連盟の対局規定抄、日本棋院の日本囲碁規約に記述無し

*2:1895年Hastings大会のレギュレーションより。https://books.google.co.jp/books?id=HBMXAAAAYAAJ

*3:http://www.chesshistory.com/winter/extra/computers.html

*4:この時期はFIDEが公認する「FIDE世界選手権」とKasparovらが立ち上げた「クラシカル世界選手権」の分裂期だった

*5:Adjournment再導入についての主催者側のコメントが読める記事。ACP Dolden Classic公式サイトより http://acpgoldenclassic.com/basics-of-adjournment