VTuberと呼ばれる存在も、実際はさまざまなタイプに分かれていることについては多くの人に実感があると思う。
そもそもVTuberという枠組みが「VTuberっぽさ」という、なんとなくのイメージを中心にして拡張されてきたものだという話は、以前のエントリでも触れた。
元祖「キズナアイ」という金字塔を中心として、少しずつ意味をズラしながら曖昧になっていく(例えば後発の人気VTuberの多くは彼女のように「AI」を自称しない)VTuberの概念は、様々な新規参入を受け入れる器になっているとも言える。
スピンオフとしてのVTuberのかたち
全体から見て主流ではないため目立たないが、ありうるひとつのパターンが「オリジナルのキャラクターとしては作られていない、原作からスピンオフしたVTuber」というケースだろう。
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以前のエントリでは「VTuberというよりボイスドラマ」という括りで紹介していた『ニー子はつらいよ』のヒロイン「ニー子」も、今では公式にVTuberとしてデビューしている。
ちなみにニー子をプロデュースしている企業は、他にも『東京プリズン』というスマホゲーからVTuberをデビューさせていた(CVは松嵜麗)。
【東京プリズン】はじめまして!Vtuberのナナでーす! 【ナナチャンネル#01】
(なお、「電脳少女シロ」や「真空管ドールズ」のようにキャラクターの元になったゲームが存在することもあるが、別個体のように仕切り直されていたり、元のコンテンツが開発停止されていたりするので上記のなかに含めなくていいと思う。)
これらの特徴として想像がつくと思われるが、名のあるプロの声優を起用しやすい点や、「原作のプロモーション(宣伝)」を目的として活動する点、ライブ配信より収録映像がメインになる……つまりある程度「脚本」でコントロールしやすい点などが、一般的なVTuberとの差異(ズレ)として認識されるだろう。
そのため、はっきり言えば従来のVTuberファンの関心からは外れやすい傾向もあると思う。
だが、コンテンツ制作サイドの企業にしてみればVTuberを利用したプロモーションは今後無視できなくもあり、新規開拓が試されていくジャンルだと見なせるだろう。
ギャップ型のVTuberと脚本型のVTuber
実はここまでの話は前フリで、ここからアニメプロデューサー・福原慶匡の見解に繋げたい(以下は「ジャストプロ」社外取締役として取材されたもの)。
先行してVTuberを始められている方たちは、VRに関する技術やシステムにまず興味があってやり始めた方が多い、という印象がありますね。〔中略〕その一方で、コンテンツ自体を作ることを目指してやっている人たちもいます。そういう方たちの多くは、キャラクター設定やバックボーンなどを細かく決め込む時間を設けるので、スタートのスピード感に欠けるというデメリットはあります。でも、先行してキャラクター設定やコンテンツをあまり作り込まずにやってきた前者のような方たちのほうが、これからは苦労すると思います。
〔中略〕
作り込む時間がない上にキャラクター設定にも厚みがないと、ネタもなかなか生まれないし中身がスカスカになってしまう。結果として、キャラクターを演じる、いわゆる“中の人”の個性に頼り始めるという流れになってしまうんです。そうなると今度は、中の人のイニシアチブが大きくなってきて、もともとの少ないキャラクター設定からさらに離れていってしまうんですね。それはこれまでコンテンツのプロデュースをしてきた立場からすると成功とは言えないと思っています。
〔中略〕本来だったらVTuberとして人気が出たキャラクターがアニメ化、みたいなのが夢のある話だと思うんですけど、僕の場合は逆の発想です。〔中略〕まずオリジナルのアニメが作れるくらいの世界観やキャラクター、ストーリーをしっかりと作り込んで、そのアニメのプロローグ部分として、キャラクターたちのVTuberとしての活動が成り立てばいいなと思っています。〔中略〕生配信系に関しては、当然、中の人のアドリブ力が確実に必要になるんですが、収録して動画を作る形ならば構成作家と組んで収録すればできると思うので、参入する障壁は低いのではと思っています。(『Febri』Vol.50 p39~)
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この後に「どこかヤラセっぽくなってしまう」危険性や、わざとらしさ(ヤラセ感)に敏感な客についても認識していることが語られているが、いかにもビジネスとしてコンテンツを考える側の意見が読み取れる。
この思想でうまく行くのなら、(原作コンテンツと一体化した)脚本型VTuberの成功例も現れてくるかもしれない。
以上を読んでの通り、現在主流であるVTuberの在り方に対して批判的なスタンスも示されており、人によってはあまり気持ちのいい意見でもないだろう。
そして「もともとの少ないキャラクター設定からさらに離れていってしまう」というくだりで念頭に置かれているのは、具体的には「委員長」こと月ノ美兎のような「ギャップ型」VTuberたちなのだろうと想像がつく。
「ギャップ型」とは、VTuberの皇牙サキが『ユリイカ』のバーチャルYouTuber特集号で提唱した言葉だが、ギャップ型のVTuberは「最初の期待を裏切ったとしても、それ以上におもしろいと思わせるような内容を用意しなければいけません」とも語っている(特集号p65)。
皇牙サキ自身が「ギャップ型」を自覚的に選択したVTuberなのであるが、彼女のデビュー以前にはにじさんじ二期生である鈴鹿詩子が、先輩である月ノ美兎の個性を超強力に継承した存在として知られていた。
彼女はただ見た目(公式プロフィール)とトーク内容のギャップが激しいだけでなく、「好き勝手に(それこそ視聴者の大半が知らないジャンルでも)自分のオタク語りをする」というライブ配信スタイルを広く認知させたVTuberでもあった。
「黒ギャルが歴史劇画を語る」というデビューで大きな衝撃を与えた皇牙サキだけでなく、皇牙サキと同期デビューだった姫野裕子(現在は引退)も鈴鹿詩子へのリスペクトを語っていたし、にじさんじSEEDsの卯月コウも配信スタイルとして意識した先輩として名を挙げている。
(ちなみに鈴鹿詩子は「教育番組の出演者」というプロフィールからの「ショタやBLについて語る腐女子」という唐突なオタク語りに対し、姫野裕子は「夢女子」、卯月コウは財閥の息子の中学二年というプロフィールからの「美少女ゲーマーでニコ厨」といったオタク語りを見せていた。)
彼らに影響を与えた大元として存在感を放つ月ノ美兎だが、実際のところ本人が最もその在り方について強く自覚していることが、同じ『ユリイカ』収録の届木ウカとの対談からうかがえる。
そこで届木ウカはVTuberを「人格依存型」と「人格分離型」に分けていたが、この「依存型」は委員長を指すだけでなく、福原慶匡の言うVTuberの主流にも当てはまっている。
月ノ でも実際には分離型ってほとんどいないですよね。それは優秀な脚本のついたバーチャルYouTuberが少ないということなんじゃないかとわたくしは思っていて。脚本が良ければ、それは本人の生の人格を出すよりおもしろいだろうから分離して全然いい。でもそういうライター依存のバーチャルYouTuberがまだあまりいないと思うんです。〔中略〕今後さらに増えてくることに期待したいという思いはあります。
(p74-75)
面白いのは、結局のところ委員長も福原氏と同様、脚本型VTuberの可能性に期待していたという点だ。
まさにギャップ型VTuberの代表格として、それゆえの限界を自覚しながらも自分にできるスタイルを模索しつづける当事者であるからこその感覚だろう。
雑談放送にはね、えっと……限界が来るかもしれないって思っちゃったんですね。〔中略〕(視聴者の)コメントも、何かしらを拾って(自分が)コメントするわけじゃないですか。だからわたくしが有限なかぎり、コメントも有限なんですよ。
特注ゲームとSUSHI 雑談編(後編)【2018 5 25】
(11分44秒~)
彼女が時折見せる、(人並みに)気弱な側面なのであるが、こうした問題意識は雑談配信をメインに活動をスタートした、にじさんじ一二期生に共通して与えられる課題だった。
ギャップは本当に存在するのか
ところで、少し注意書きを加えたいところなのだが、委員長は「ギャップ」に依存することで「キャラクター設定から離れていっている」タイプのVTuberなのではないと筆者は考えている。
彼女は登場初期から、年齢疑惑を自らさらけ出すだけでなく、「ですわ口調は使いません」と視聴者からの「お嬢様」イメージに対して断りを入れている。
一人称が「わたくし」なのも学校で委員長らしさを出すために礼儀正しい口調を心掛けているからでしかなく、つまり元から「意識して委員長を演じている人」という自己PRをデビュー直後に行っていたのだ。けして「後になってキャラが崩れた」とか、ボロが出てきたという話ではない。
それこそが彼女の「設定」だとすれば、素になると一人称が「あたし」に戻ることも、庶民的で品のない言葉遣いを見せることもまさしく「初期のキャラクター設定そのまま」だという理屈になる。
(本人としては、「委員長らしくない部分を隠す努力」をフリでもいいから続けたほうがいいのではあるが……。)
彼女自身、先行するVTuberたちのファンでもあったから、「VTuberが徐々に素の自分を見せること」の魅力を強く意識していたのだろうことは想像に難くない(比較としてはよく「電脳少女シロ」が挙げられている)。
それを「徐々に」どころではなく、最初から折り込み済みにして自分を作り上げたところが、月ノ美兎の注目された所以であった。
彼女のスタイルを強力に継承した鈴鹿詩子にしても、「歌のお姉さんを演じた声」と「オタクっぽい地声」の双方を最初の配信日から流すことで自己のキャラクター性を印象付けていた。
逆に言えば、鈴鹿詩子の場合はそのキャラクター性からまったく離れたことがないのだし、公式プロフィールにある「婚期に危機感を抱いている」という部分についてはむしろ現実味のある婚活エピソードを語りつづけるくらいに忠実ですらある。
(ちなみに歌声を披露するのはデビューから結構経った後のことなので、歌のお姉さん要素を取り戻すには時間がかかっているのだが、視聴者に中途半端な歌声は聴かせたくないという誠実な意識を語ってもいた。)
だから本人に依存したギャップ型、というのは元のキャラクター性から離れていくことを必ずしも意味していない。
むしろ「素の本人が別の役割を演じてもいる」というスタイルは二重性の奥行きがあるキャラクターを生み出すため、配信者として長続きしやすい傾向があるとすら言える。
演劇集団としてのにじさんじSEEDs
ここからが今回の本題なのだが、にじさんじ一二期生の後輩としてデビューした「にじさんじSEEDs」の特異性についての話である。
SEEDs以前には、ゲーム実況配信を主体とした「にじさんじゲーマーズ」も発足していた。そちらもまた「ゲーム実況」という、(ある意味完成した需要のある)スタイルを用いることで雑談配信の問題を解決しようとしていたと言えるだろう。
(一期生の静凛や渋谷ハジメが時に「実質ゲーマーズ」という扱いを受けるように、ゲーマーズでなくともゲーム実況は有効な配信手段になっている。)
一方でSEEDsはどうだったかというと、視聴者目線から見てかなり奇妙な走り出しをしていた。
同じ企業(事務所)からのデビューでありながら、にじさんじ公式による告知はあまり積極的とも言えず、「グループ」未満の「チャレンジ枠」という扱いだった。
一二期生が「にじさんじ公式ライバー」と呼ばれるのに対し、「研究生のようなポジション」という一段低い待遇として見なされていたのだ。
(ちなみに「にじさんじSEEDs」の公式アカウントにも同様のTweetが画像付きで6月3日に投稿されていたのだが、現在は削除されているようだ。また、SEEDs自体を「グループ」と呼ぶようにも変化しており、チャレンジ枠という文言はすでに無実化していると想像される。)
しばらく経つと「SEEDsは一定期間、他のにじさんじメンバーと干渉しないように上から言われている」という情報が複数のライバーから語られもした。
運営としては、SEEDsとSEEDs以外は直接の上司が異なっているらしいのだが、この「壁」が作られることでSEEDsの初期メンバーたちは独自路線を模索することを余儀なくされるようになる。
しかし、現実としてSEEDsメンバーをフォローする視聴者の大半は「にじさんじ箱推し」を意識するにじさんじのファンたちであったし、そもそもメンバーたちもにじさんじが好きだからこそオーディションを受けているのだ。
そのため、SEEDsは初めから「一二期生の築いた芸風を強烈に意識しつつ、差別化を目指さなければならない」というジレンマのある課題を与えられていたと言える。
その一二期生は元々、運営会社COOである岩永太貴の方針によってライバーたちへの口出しを最小限とする、放任主義が尊重されていた。
その岩永氏の直属ではないSEEDsの運営方針は、実のところ明らかではない。一二期生と同じく放任主義だったかもしれないし、独自のコントロールを利かせようとしていたのかもしれない。
ただ共通して言えるのは、運営側のコントロールやディレクティングが何より働くのはライバーのキャスティングだったという点だ。
その点から言うと、SEEDsのライバー採用基準は「演技力の実力重視」に偏っていたことが言える。
一二期生より比べてオーディションの分母数が増大していることもあり、ある意味で贅沢に採用することができたとも言えるだろう。
(このあたり、「ギャップ型」配信者の一例としても挙げた卯月コウが、他のメンバーの演技力や歌唱力に対してかなり強いコンプレックスを吐露していたことからもうかがえる。)
この採用基準は、多くのにじさんじファンにとっても意外な側面だったと思われる。
SEEDsメンバーのデビュー直前におけるファンの間には、再び「強烈なギャップ」の出現を期待しながらも、同時に「またギャップが来るんだろうな」という食傷気味の空気が漂っていた記憶が確かにある。
しかしフタを空けてみると、癒し系のシスター・クレアやIT企業の社員そのままな社築など、ギャップ型とは正反対の、なおかつ素人離れした美声や渋い声を持つメンバーたちが認知されていく。
注目すべきは、シスター・クレアに社築に、そして見た目通りに声が幼い八朔ゆずのような「イメージそのまま」のメンバー(ちなみに皇牙サキはこうしたタイプを「ギャップ型」と対比して「ブースト型」と呼んでいる)だけでなく、「演技」「変身」というキーワードを感じさせる者が多かった点だ。
卯月コウが「陰キャオタクが陽キャのフリをしている(ついでに言うと財閥の御曹司なのかも疑わしい)」という二重性を備えていたのももちろんだが、例えばファイヤードレイクのドーラは「ファンタジー世界の竜が人間に変身した姿」というプロフィールになっている。
彼女の舌っ足らずでこもった喋り方は、一般の人間(仕事としての声優)の基準からすれば「作った声」に聞こえるだろうと思う。
しかしドーラ自身は「人間の体で喋ることに慣れていない」からその喋り方になるのだと言う。
つまり、作って演じているような声だが、設定上はそれで自然であり、しかし「地声」なのかというとそれも微妙(地声があるとしたら変身前なのだから)という少々頭がこんがらがる構造になっているのだ。
彼女はナレーションを行う時などに、舌っ足らずな部分をなくした、声の通りがいい話し方もする(「よそ行きの声に聞こえる」ことから「よそ行きドレイク」と通称されている)のだが、それも当然「彼女の地声」とは呼びがたい。人間の声帯に適応して頑張って話すとそうなる、という解釈になるはずだから。
そして5つの多重人格を持つ出雲霞もそうだし、ただの中二病設定を語ってるだけなのか本当に非日常を生きているのか判然としない鈴木勝に、男とも女とも区別しがたいキャラを作っている(男も女も演じられる)緑仙、女装しているが性的には男性である花畑チャイカなど、SEEDsメンバーはことごとく「常に何かを演じている」ことが多いのだ。
委員長や鈴鹿詩子のように、単に「プロフィールを演じている素の本人がいる」のではない。
その存在自体が(普通の声優の仕事に当てはめるなら)演技を要するキャラクターであると同時に、「しかし演技だとも言い切れない」と混乱させる要素に満ちている。
そしてSEEDsという集団のイメージを決定付けているのが、「茶番」と「劇場型ストーリー」の豊富さである。
緑仙は簡素な台本とアドリブを元にしたコント配信を得意としており、こうした発想力が後に「SEEDs24h」という、寸劇だらけの一大企画に繋がっている。
そこで共演したOTN組(名伽尾アズマ、社築、花畑チャイカ)も普段から配信中の茶番劇を好んでいるのだが、SEEDs24h中の着想から、八朔ゆずを主演とした「当て書き脚本」の演劇「YUZU‐ORIGIN‐」が生まれた。
それは、ナレーター役の轟京子も含めた5名の演技力が遺憾なく発揮された、シリアスなドラマとしてもレベルの高いものだったのだが、面白いのは閉幕後のアズマが「バレてしまった、私とゆずが……」と言って劇中の設定を劇の外にも持ち出そうとしたことだ。
劇の内容を実話として語ろうとする悪ふざけに、チャイカと社は「やめろやめろ、めんどくせえだけだぞ」「千人に一人くらいは勘違いするかもしれない、ただでさえ設定複雑なのに」と釘を刺すのだが、このようにOTN組は「即興で偶然生まれた設定を作っては壊す」ということを日常的に繰り返している。
その上でアズマとゆずが姉妹関係を演じたり、社がゆずの父親だと言い張ったり(それも「自分を父親だと思い込んでいる」という演技だが)といった設定が後の配信で引きずられることになる。
一種のシチュエーション・コメディ(シットコム)を常に演じているとも言えるだろう。
これは言わば、「キャラクター設定」の下の階層に「素の本人」を見せることで二重性を生み出す、ギャップ型とは逆の現象なのだ。
SEEDsの彼らは、「キャラクター設定」の上に「仮のキャラクター設定」を何層も積み重ねる多重性を特色とすると言える。
そして「めんどくせえだけだぞ」というチャイカの指摘に表れているように、ややこしくなりすぎた設定はやがて破綻が見えるものだから、「結局は元のプロフィールに回帰するしかない」という安定性が保たれている。
また、この繰り返しによって「素の彼らの魅力」が見えにくくなるわけでもない。
むしろ茶番を演じつづける彼らの仲の良さ、阿吽の呼吸が通じる結束力の高さは他のグループからもなかなか見られないほど「素の本人同士の魅力」に満ちているとさえ言える。
つまり、茶番で演じた内容は作り事かもしれないが、茶番を続けている役者としての彼らは本物なのだ、という実在感は間違いなく高まりつづけているのだ。
何かを演じれば演じるほど、元のキャラクター自身が「本物」として感じられるというカラクリがそこにはある。
演技力というだけでなく、「他のメンバーのモノマネ」も上手い彼らは自分以外のメンバーの立ち絵を使って演じる、という反則スレスレの芸も多用しており、ありとあらゆる「演技」がSEEDs内では試されつづけている。
(ちなみに一時期は「他人の2Dモデルの中に入って演じる」という荒業が行われていたが、それは禁止事項として運営に止められてしまったらしい。)
加えて、出雲霞と鈴木勝は互いにリンクしあう劇場型ストーリーを配信しており、これは他のSEEDsメンバーとは半ば独立した世界観を構築している。
彼らのストーリーの場合、「YUZU‐ORIGIN‐」と違って「創作されたシナリオ」なのか「彼らにとっての(バーチャルな)事実」なのかがまるで判然としていない。
基本的に、他のメンバーも普段から彼らの劇場型配信について深く触れないせいでもあるが、現在は出雲霞の多重人格設定がこのストーリーによって「回収」された状態に至っており、これを視聴者に「事実」として呑み込ませることにも成功している。
おそらく、コントや茶番を主体にした緑仙・OTN組との対比で彼らのシリアスなストーリー展開が浮き立ちやすくなり、説得力を増している部分もあるかもしれない。
(ちなみに「劇場型」と呼ばれる配信スタイルは、二期生であるギルザレンIII世の名前がよく挙げられるが、配信中の雑談パートが長い彼よりもストーリー部分を洗練させて差別化していると言える。ギルザレンIII世は他のメンバーとほとんどコラボしない、という違いも大きいだろう。)
また、「OD(おなえどし)組」というユニットがこの2人と卯月コウで組まれているのだが、2人の世界観に巻き込まれることで、卯月コウも単なる「ギャップ型」に留まらないキャラクター性の厚みを得ている。
なおかつ、その卯月コウも卯月コウで、外部VTuberの神楽めあとVTuber初の男女カップルになったり破局したり破局後もなんだかんだで相手を立て合っていたりと、茶番と言えば茶番を繰り返しているのだが、なんとも独特な人間関係を構築して見せていくのが不思議と上手いのだ。
演技力重視のオーディション採用はSEEDs二期生に対しても続いており、ショートドラマの動画投稿を行っている帝華組のふたり(鷹宮リオン、飛鳥ひな)に雨森小夜、演技力という点では驚異的にズバ抜けているジョー・力一とベルモンド・バンデラスなど、通して見れば「SEEDsらしさ」というものがきちんと貫かれていると感じられる。
OTN組の茶番や、OD組のストーリーにはあまり加わらないシスター・クレアにしても、「デート相手」「妹キャラ」「姉キャラ」「お嬢様」といったキャラ属性になりきる演技を好んで行っており、なにより「シスターだがアイドルに憧れている」という本人の夢のためにアイドルらしいライブステージを配信上で作り上げている。
SisterCleaire un♡Live ツインテールは、とかないで♡
「アイドル設定のVTuber」「アイドルを目指すVTuber」ならば多く存在するが、「アイドルになりたくてアイドルになりきるシスターのVTuber」だという違いがSEEDsの特色として見た場合に重要なのだろう。
(もちろん、なりきるだけではなくバーチャルアイドルを目指せる魅力が充分にあるからこその話なのだが。)
SEEDsと一二期生
当然ながら、SEEDsにとっての先輩グループである一二期生たちも、「演技」と無縁だったわけではない。
【LIVE063】にじさんじ「深夜の声劇」 #しずりん生放送
大人数による「声劇」コラボの実現は多くのファンにとって印象深いものだったろうし、ショートコント風の寸劇は委員長やエルフのえる、森中花咲らが好んでいる様子がうかがえる。
とは言え、多人数で行うものは特別な記念として行うイベントという傾向もあり、ファンにとってもプレミア感が高かった。
宇志海いちごの五万人記念配信における「即興おままごと」もそうした滅多に見られない類のイベントだったろう。
5まんにんきねん!!!!よ!!!!!!
(ちなみにこの時のメンバーでは、即興で演じたキャラクター性を自分のなかに取り込むセンスにおいても委員長が群を抜いていることもわかる。)
ただ、圧倒的に「一二期生を意識しつつ違うことをする」という動機が強かっただろうSEEDsにとって、一二期生が継続的に行っていない「演技」や「即興劇」という要素は狙い目のひとつに違いなかった。
その上で、一二期生をリスペクトしつつ「雑談配信」をいかに面白くするか、という意識の高い卯月コウもいることで、SEEDs全体の配信は非常に厚みのあるものに育っている。
余談だが、「コメントも無限ではない」と考える委員長に対し、卯月コウはチャット欄のコメントを限界まで活かそうとするスタイルに挑みつづけているのが後輩として頼もしいところかもしれない。
ここまでの話の流れからすると浮いて感じるかもしれないが、彼は「何の企画も用意していないただ雑談するだけの配信」についてかなり肯定的に語る傾向があるからだ。その考え方の背景には、委員長だけでなく樋口楓も加えた影響が強く見える。
(【樋口楓】レベリング雑談配信その2における月ノ美兎と樋口楓の2人雑談への言及)
こうした面もあり、にじさんじSEEDsは「にじさんじ」らしさと「にじさんじSEEDs」らしさを共に兼ね備えつつ、一二期生たちとは確実にどこかが違う、という独特なグループとなっている。
福原氏が言うようなビジネス的視点(=どんなVTuberが長続きしやすいか)からは遠く離れた話になったが、「ギャップ型」に依存するでもなく、「脚本型」に向かうでもない、新たなスタイルは月ノ美兎の後輩たちが確かに築き上げているのだ。
何かを演じつづける集まりとしての、ライバーグループ。
それは「グループ」という集団でしか成しえなかった成果でもあり、VTuber単体のスタイルを見て分類するだけでは、けっして気付きえない在り方でもあるだろう。
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